豊臣秀吉は、大阪城や聚楽第を建て、ダイナミックで豪華絢爛な人だった。金銀を派手に諸侯に配ることができるほどの莫大な富を持っていた。
また、キリスト教を禁止し、キリスト教信者を弾圧し、多くの悲劇を生んだ。これは、秀吉が先進性がなく、西洋の文明に理解がなかったわけではない。当時のポルトガル、スペインが世界中に植民地を次々に増殖させており、日本への侵攻を剣闘士たこともあったからだ。秀吉はこうした西洋諸国の動きの危険性に気づいていたのだ。
豊臣秀吉 (岩波新書)は、著者である鈴木良一が、封建制度の研究の一部として織豊政権の正確について見通しを立てている。
太閤検地
豊臣秀吉は太閤検地を実施した。太閤検地とは、簡単に言えば「農地を測っただけ」である。そして、この太閤検地は教科書にシレッと書いている。しかし、よく考えて欲しい。その当時の農民は、各地に隠し田を持っていたりして検知を非常に嫌がった。強引に検知しようとすれば、農民は抵抗し、一揆につながる危険もあった。そのため、それまでの戦国武将たちはなかなか検知ができなかった。検知をしたとしても、農民側が自分で測った数値を報告するだけだった。しかし、太閤検地の場合、かなり細かい検知をしていたことが分かっている。ほとんどの地域で、縄入れ(実測)による検知を行っていた。
太閤検地は田畑の所有者や耕作者(納税者)を特定した。当時の農地の大部分である荘園は、持ち主の荘園領主が領地から遠く離れて住んでいることが多く、実際の管理は荘官や地頭に任されていた。すると荘官や地頭の力が強くなり、彼らが実質的な領主になっていた。こうなると荘官や地頭が農民から「二重」に税を取るようになり、農民の生活は困窮した。
このように戦国時代では社会のシステムが崩壊したことで、力の強いものがどんどん収奪するようになっていた。戦国大名はこの社会システムを再構築する必要があったが、それまでの武将は成功しなかった。唯一、織田信長は本気でやろうとし、それを引き継いでやり遂げたのが豊臣秀吉だった。
豊臣秀吉 (岩波新書)は、政治の歴史も、経済の歴史も、精神の歴史も、生きた人間のたたかいの歴史として書かれている。
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最後に、この本は面白くなかった。古い本なので旧漢字を使っていて、現代人の僕的には読みづらい。そして何より非常に読みづらい書き方をしている。時代背景とかがないから豊臣秀吉という人物の理解が難しい。知っていることを淡々と書いているだけの本。