キリスト教と一口に言っても、多くの人は「カトリックとプロテスタントというのがある」っていうのを知っているくらいだと思う。神父と牧師って違うの?とか、同性愛はOKなの?とか、煙草は吸っていいの?とか、酒は飲んでいいの?とか、教会って色々とあるけど違いはなに?とか、モルモン教ってなに?とか、頼んでもいないのに家に勧誘に来る人は何を考えているの?とか、よく考えてみるとキリスト教について知らないことが多い。実は仏教のように様々な教派(宗派)が存在している。
さらにキリスト教は欧米文化に浸透しているので、小説や映画の舞台になっていたり、報道番組などで触れたりする機会が多いと思う。そういう欧米の文化を真に理解するためには、聖書とキリスト教の知識が不可欠である。
なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)は、キリスト教の教えや特徴、独特の用語をキリスト教の内部にある複数の流れ、要は「教派」ごとに説明している。とはいえ、どこが正統でどこが異端とかは下していない。どこかの教派に入信を勧めたり阻もうというのもしていない。また、学問的な研究を意図したわけでもない。あくまでも「ガイド本」として、素朴な疑問を解きほぐし、キリスト教圏の文化の理解に役に立つ基礎情報を提供している。
大昔のヨーロッパでは今のように教派は分かれていなくて、ローマ教皇を首長とするひとつの教会の支配下にあり、この教会が経典(聖書)の解釈と人の「救い」をいわば独占管理していた。しかし、16世紀にヨーロッパ各地で宗教改革が起こり、それまでの教会のあり方を変えたことにとどまらず、国際情勢や文化全般に大変革をもたらした。ルターが「信仰によってのみ義とされる」という福音の再発見を通じて、新たな救いの道が開かれた。そしてプロテスタントと呼ばれる人々が教皇の支配を離れ、それぞれの聖書解釈を基に、新しい教会を立ち上げていった。ローマ・カトリック側でも、その後対抗宗教改革を行い、自己改革を推し進めた。
とくに、宗教改革の結果として聖書がそれぞれの地域の言語で翻訳されたことは大きい。それまでは教会堂や修道院など限られた場所の机に太い鎖でくくりつけられていたラテン語聖書が、庶民の母語で訳され、印刷術の発達とともに書物の形で家庭にも備えられるようになった。これにより、「儀式の宗教」に従っていた中世の民が「書物の宗教」に従う近世の民となった。(世界初の活版印刷はグーテンベルクが開発した。この人の生涯もぶっ飛んでいるし、活版印刷をしようと思った経緯も面白いのでいずれ紹介したいな。)
ローマ法王
「法王」はあくまで通称で、「ローマ教皇」といったほうが適切。キリストの代理人、使徒ペトロの後継者とされ、ローマ・カトリック教会の首長として、公称12億の信徒の頂点に立つ。ローマの司教であり、バチカン市国の元首である。
選挙権を持つ枢機卿により、コンクラーベ(選挙会)を通じて選ばれる。
東方教会と西方教会
東方教会はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を、西方教会は古代ローマ帝国の首都ローマを中心に発展した教会である。両者は5世紀から次第に溝を深めていったが、教義や慣習に関する相違から、1054年に相互に破門して分裂した。
聖職者の髭(東方は生やすべき、西方は剃ってよし)、聖職者の妻帯(東方は在俗司祭には認めたが、西方は独身を主張)、聖餐用のパン(東方は種入り、西方は種なし)、復活祭やクリスマスの日取り、ローマ司教の首位権をめぐって争った。
東方教会は正教会またはギリシャ教会、西方はカトリック教会またはラテン教会ともいう。正教会はギリシャ語圏の前者は古代ギリシャの遺産を守り、ラテン語圏の西方教会は古代ローマ文明の継承者となった。
カトリックとプロテスタント
「ローマ」を付けない広義の「カトリック」は、東方正教会も含む。ローマ・カトリックは聖書と伝統を拠り所にし、救いのためには信仰に加えて善き行い(業)が必要だとする立場。教会やサクラメント(教会で行う儀式)の権威を重んじ、教皇を頂点とするピラミッド型の位階制度をとる。礼拝は儀式的な典礼が中心で、信者はサクラメントを通して実態的もしくは神秘的に神と出会う。
一方、プロテスタントは聖書以外の規範を認めず、個々の信仰のみによる救いを説く。聖職者に特別の権威を認めず、信じる各人が直接神の前に立つ「万人祭司主義」をとる。礼拝の中心を聖書の説き明かし、すなわち説教におき、人は説教を通じて間接的に神と出会う。また、礼拝中に「自分の」聖書を開く信者の姿はカトリックではまず見られないが、プロテスタントではそれが普通である。
一般に、日本語で神父と呼ばれる人がいるのがカトリックで、牧師がいるのがプロテスタント。カトリックでは文字が読めなくてもあまり問題ないが、神父がいないと信仰を維持するのは難しい。プロテスタントでは牧師がいなくても聖書させあれば大丈夫だが、読む力ながないと困る。
プロテスタント内部の区分け(リベラル派と福音派)
リベラル派と福音派とは、第二次世界大戦後、とくにアメリカで用いられるようになった。リベラル派はsy快適責任と知識を重んじ進歩的、福音派は伝道と体験を重んじ保守的というイメージがある。
リベラル派は、近代t系な聖書批評学・自由主義神学の上に立ち、聖書の記述を何もかもそのまま受け取るとは限らない。したがって、必ずしもキリストの復活や地獄の存在を確信している人たちだけではない。協会側から信徒への要求が少なく、価値観の多様性を認め、異端審問的行動を嫌う。
福音派は、聖書を絶対的な真理の書とし、その内容に疑いを差しさまない。キリストの復活や地獄の存在を確信し、聖書に反する進化論は容認しない。自分たちの価値観にこだわりが強く、他宗教や異文化には関心が薄い。集団への服従と献身、規律や連隊の強さが特徴。
エホバの証人
今は終わりの日にある。まもなく聖書の預言通りに、王イエスが天と同じ用に地上においても支配を開始し、悪魔の支配下にあるこの世を終わらせ、地をパラダイスに変える。聖書の真理を伝える唯一の組織、すなわちものみの塔の教えを受け入れ、神の王国の良いたよりを宣べ伝えれば、永遠の滅びではなく永遠のいのちが得られる――それが彼らのメッセージである。
全ての教義の典拠を旧新約聖書のみに求め、クリスマスなど聖書にないと見なしたものは一切退ける。兵役や政治への関与を拒否して公選による職業には就かない。
成員には生活全般に関するきめ細かい指導が行われており、その道徳基準は福音派なみに厳しい。内部の結束は固く、ルールに反した者には排斥処分がある。
さらに、異教に由来する行事は一切拒否し、誕生日も祝わない。国家・校歌の斉唱、選挙、格闘技の授業、「乾杯」にすら参加しない。差し迫った(と彼らが信じる)ハルマゲドンを生き延びるために宣教奉仕を優先させる結果として、フルタイムでの就労や子弟への高等教育、結婚の自由を制限した時代もあった。
これらに加えて、頻繁な戸別訪問と断固とした輸血拒否が加わって、一般社会から極めて特異な存在と見なされている。
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聖書や神学、教義、教会史、礼拝学、芸術、個人の伝記、信仰録など、キリスト教を知るための切り口は様々だけど、なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)はその中でも「教会」に焦点を当てている。図解も多くわかりやすい。