学校の授業で習う宗教改革は、「ルターが贖宥状(免罪符)で金儲けをしていた教会にムカつき、宗教改革を起こし、プロテスタントが誕生した」とざっくり習う。まだ研究が進んでいない / 情報が日本に入ってきていない明治時代ならまだしも、車が自分で考えて走るような現代ではあまりにも乱暴な教え方だと思う。
しかし実際には、ルターのなそうとしたことが、彼自身の考えや思いを超えて宗教的あるいは政治的に利用されてきた。例えば、ルターと宗教改革はドイツ統一に向かう戦いや、統一後のナショナリズム高揚のための政治的シンボルにされた。
また、ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明も事実に反する。ルターは自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。宗教改革のドイツ語は「Reformation」であるが、これは「再び形成する」という意味で、「宗教」や「改革」という言葉はない。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。
プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで (中公新書)は、そんな宗教改革(プロテスタンティズム)の背景と枠組みを捉えている。
贖宥状
キリスト教では、人間は原罪のために生まれたままの姿では天国に行けないと教えた。しかし、天国への障害となる罪は洗礼という儀式によって取り消すことができる。そのため、古代では先例は死の直前が良いと考えられていた。洗礼に酔ってそれまでの全ての罪や過ちも赦されるから、天国行きはほぼ確実になる。
ただ、キリスト教が広まってくると、洗礼は戸籍登録のような役割を果たすように成り、生まれた直後に行われるようになった。そうなると、洗礼を受けた後に犯した過ちはどうなるかと人々は考えた。
そこで誕生したのが「悔い改めのサクラメント」である。人々はこの儀式に強い関心を持ち、すがった。悔い改めのサクラメントには、痛悔(つうかい)、告白、償い、という要素が含まれている。痛悔は罪を自覚し、心から悔い改めようとすること。次に、自らの犯した罪を司祭の前で告白するのが懺悔。司祭は告白された罪に対して「私はあなたの罪を赦す」と宣言する。それだけではなく、罪を赦すために、徹夜で祈るとか、断食をするとか、決められた時間に教会で祈るとかの行為をさせた。司祭は神に代わって適切な罰を科す。人々は具体的な罰を受けることで犯した罪を償う。
心配性の人々は、毎日のように悔い改めのサクラメントを行いたいと考えた。毎日行いポイントを貯めておけば、悔い改めのサクラメントを行う前に死んでも、予め得ていた赦しによって天国に行けると考えた。
しかし、万が一、罪を告白する前に、あるいは罪の赦しを得るための罰を受ける前に死んでしまったらどうするか。この問に応えるために、教会は制度を刷新した。それが聖職者による「償いの代行」という制度である。償いの代行の背景には、キリスト教のゲルマン化がある。ゲルマン人には「損害と弁済」という考え方があり、誰かに損害を与えた場合には弁済を求められ、それを支払わなければならない。これが「悔い改めのサクラメント」に投影された。懺悔による罪の告白と司祭が科す罰の裁定、そして具体的な実行が弁済にあたる。しかし、最後の具体的な実行はゲルマン世界では「代理」が許された。罪の告白を聞いた司祭は、罪の赦しを宣言し罰を与えるが、それを司祭や修道士が代行していた。彼らは真剣に人々の救済のために自ら断食し、徹夜して祈った。
ただ、人々は誰か別の人に代行してもらえると考えるように変化した。そに応じたのが、この時代に頻繁に発行され、人々が競って手に入れた贖宥状と呼ばれるものである。これによって自ら犯した罪に対する罰が帳消しになるとされた。贖宥状とは贖宥が行われたことを示す証書であった。
人々はこれを安心して買った。なにせこれさえ持っておけばいつ死んでも天国に行けるのである。そして教会でも「これは儲かる」と考え、個別の問題や特定の個人に対してではなく、不特定多数の者たちに対する代行をあらかじめ修道士や司祭に日常的に行わせ、その成果を教会にストックしておくようにした。人々は是非手に入れたいと思うようになった。しかも、贖宥状は教会からしか分け与えられない。まさに売り手市場になった。
贖宥状を自らの裁量によって発行できたのがローマ教皇で、それがもっとも消費され、ローマに莫大な収益をもたらした市場が神聖ローマ帝国であった。そして、この状況に疑問w思ったのがマルティン・ルターだった。
宗教改革
ルターの生涯についてはマルティン・ルターに書いてあるため省く。とにかく、贖宥状に疑問を持ったルターは、「九十五箇条の提題」を書いた。ルターは、贖宥状の購入を勧めるのではなく、聖書の言葉を正しく聴き、真の悔い改めをなすように人々に語るべきではないか、と考えた。ルターは、悔い改めは、司祭が赦しを宣言するのでぇなく、イエス・キリストが宣言するものなので、金じゃなくて、まずは心から悔い改めるこそが必要だと考えた。ここで重要なのが、ルターはこの時点では教皇の権威を単純には否定していない点である。ルターの主張は、教皇が赦すことができるのは、教皇によって科せられた、罪に対する罰だけだということである。
バチカンのローマ主義者は、ルターの批判によって、金蔓である神聖ローマ帝国での贖宥状に対する人々の信頼を失うことを恐れた。そうなると、バチカンと結びついて神聖ローマ帝国内で特権を手にしていた者たちも利権を失うことになる。言い換えると、ルターの批判は、巨額の富を得ているバチカンの影響力が強い社会システムと縁を切るための絶好の機会をもたらすものであった。そのため、ルターの主張は、都市部の商人や諸侯たち、ドイツの騎士などには早くから理解され支持された。
ルターが九十五箇条の提題を出した時は、経済的にも政治的にも自立する各領邦と揉めていたり、経済的に興隆した市民階級の人々がそれに見合った立場を要求していたり、オスマン帝国が国境を脅かしたりしていたため、ルターは比較的自由かつ大胆に自説を述べることができていた。
さて、ルターの書簡を受け取った大司教は、九十五箇条の提題への呼びかけを無視した。それどころか、ルターは贖宥状販売の仕組みを詳細に調査した上での告発文書だと誤解した。つまり、ルターの純粋な宗教的な問いを、大司教は政治的に受け止めた。大司教は、自分の立場を揺るがしかねない提題だけではなく、ルター自体をこのままにしておけないと判断した。そして、ルターの問題を即刻解決しないといけないという書簡を添えて、九十五箇条の提題をバチカンに転送した。
バチカンは、論点の移動という政治的な手法で、ルターを有罪にした。バチカンはルターが問題にした贖宥状について議論することを避け、教皇が許可している贖宥状を批判するルターは、教皇を批判していることになる、と論点を移した。バチカンにしてみれば、論点を贖宥状にすると、その販売で得た利益にまで話が及ぶと恐れた。
しかし、ルターの意図とは異なるテーマを討論に持ち込んだことで、教皇至上主義者と公会議主義者との対立に火を付ける可能性があった。ルターは九十五箇条の提題で、神学をめぐる議論という枠組みを超えて、教会政治の中に巻き込まれた。
そんな中バチカン側は更なる手を打ってきた。「ルターは異端」だとひたすら繰り返すだけの激しい批判をしている「106条文」を発表した。ルターは自分の主張を聞かず、異端呼ばわりされることに腹を立て、教会に激しく抗議した。この論争は神聖ローマ帝国内はもちろん、ヨーロッパ中にまたたくまに伝えられた。ルターは、ここまで広がったことに驚いていたらしい。1518年の書簡で「ここまで広がると知っていたら、別な方法を選択するとか、もっと正確に書くとか、余計なことは書かないとかしたのに」と書いている。
バチカンは当初、穏便に解決しようとしていたため、ルターに自説の撤回をお願いした。ところがルターはこれを拒否したためにバチカンを怒らせた。そして、神聖ローマ帝国で行われるライプチヒ討論でルターが紛れもなく異端だと明らかにして、破門することにした。この討論は、ルターへの論駁ではなく、ルターが反教皇主義者で、異端的な思想の持ち主だと明確にすることが目的だった。そのような発言を公の席で引き出し、記録して、ルター破門にすれば良い。討論での質問には巧妙に罠が仕掛けられていて、ルターはそれに引っかかった。バチカンはルターの発言を証拠にルターを断罪し、破門の準備を進めた。
一方のルターは、自分の考えをより広く、できるだけ正確に人々に知らせる必要があると判断し、執筆活動を始め、印刷技術を利用して水kらの考えを矢継ぎ早に公にした。
ルターの行動をよく思わなかったバチカンは、神聖ローマ帝国内での混乱も許しがたく思い、また他の問題への波及を恐れ、ついにルターに「破門脅迫の大教勅」を送った。これは自説を60日以内に撤回しないなら教背的に破門させる、という内容である。しかし、ルターは大教勅を無視した。その結果、1521年1月3日付では破門になった。この破門は今日に至るまで解かれていない。
破門になったルターの処罰については神聖ローマ帝国に委ねられた。しかし、年老いた皇帝マクシミリアン一世は大きな関心を持たずしばらく放置された。その後に皇帝になったカール五世は、1521年にヴォルムスで開催された帝国議会にルターを召喚した。カール五世的には、ルターの主張の真偽問題よりも、帝国における宗教の混乱の回避と、バチカンとの政治的関係の安定を望んだ。
カール五世は、破門になったルターを異端と宣言した。これによりルター派帝国内での一切の保護を失った。異端になったルターは法の外に置かれるので、その身に何が起きても帝国には責任はない。カール五世はこれで問題が終わると考えた。カール五世は、宗教の混乱を放置するつもりはなかったが、オスマン帝国が国境付近まで侵攻していたので、国内勢力の結集のためにルターを擁護する諸侯に対して強く出られなかった。
ルターは破門され、いわば市民権剥奪の状態にあったが、帝国内の反ローマ主義的な傾向を明らかにしていた諸侯たちに守られ、自らの思想の普及に努めた。彼は聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語で説教を行った。また礼拝に出席する会衆が歌うドイツ語の賛美歌をたくさん作り、人々の心を掴んだ。
そして、1546年、彼は狭心症と思われる症状で亡くなった。ルターという象徴となる指導者(ルター自身はそんなこと思っていなかったが)を失ったため、激化する内紛の出口は見えにくくなり、和解を求めてさらに迷走した。そして、この膠着状態を前にして、カール五世がアウクスブルクの帝国議会で問題解決の道が提示されることになった。
カール五世は、神聖ローマ帝国はもはや帝国として一つの宗教を持っているのではなく、各領邦ごとに宗教を決定できるようにした。とはいえ、宗教問題は依然として領主の問題として取り扱われ、一つの政治的単位の支配者が宗教を決定し、宗教が政治と表裏一体の状態であることは変わらなかった。
ルターの勇気ある行動は、バチカンには逆らえなかった人々に改革が可能であることを認識させ、新しい宗派を作ることが帝国議会で事実上承認されたことにより、「プロテスタントの宗派や教団について本を書けばそれは必ず電話帳よりも厚くなる」と言われるくらい様々な宗派が誕生した。一方、カトリックでは、対抗宗教改革とでもいうような宗派としての結束や一致に重点が置かれるように成り、ますます堅固なヒエラルキーに守られた教会へと強化されることになった。
*
ルターの宗教改革は、彼の意図を超えて、神聖ローマ帝国の複雑な政治的状況の中で多方面に影響力を及ぼした。ルターの勇気ある行動は、西ヨーロッパのキリスト教に新しい種を撒き、今では巨大な樹木になった。
例えるなら、トマトとナスは違うようだが理どちらともナス科の野菜だ。それと同様にルターの宗教改革も、当初のものとはかなり違った新種ともいうべきものを生み出している。しかし、それらすべてはプロテスタントなのである。ルターの宗教改革だけがプロテスタントではない。プロテスタントは、ルターの改革以後に発生した様々な今日空きとその信者たちを指す。そして、プロテスタンティズムとは、いわゆる宗教改革と呼ばれた一連の出来事、あるいは1517年のルターの行動によって始まったとされる潮流が生み出した、その後のあらゆる歴史的影響力の総称である。そしてそれは、宗教の枠を超えて、文化や学問、政治、経済とも複雑に関連している。
ルターの出来事から始まった、価値の多元化、異なった宗派の併存状態、それゆえに起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは次の問題を考えざるを得なくなったのである。どのようにすれば、異なった宗派や分裂してしまった宗派が争うことなく共存できるのかという問題に取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。