カール五世といえば、世界史の教科書には必ず書かれているくらい重要な人物である。宗教改革が起こった時の神聖ローマ帝国の皇帝であり、大航海時代にスペイン全盛期の皇帝(カルロス一世)もカール五世である。しかし、日本ではカール五世に関するまともな評伝や研究所はほとんどない状態である。
カール5世―中世ヨーロッパ最後の栄光はそんな中世ヨーロッパ最後の栄光であるカール五世の生涯を解説している。
カール五世の少年時代
カール五世は1500年2月24日に毛織物産業で繁栄しているフランドルのガンに生まれた。応じ誕生の知らせは、神聖ローマ皇帝の父方の祖父マクシミリアン一世に届けられた。ついで、母方の祖父母でスペイン王のフェルナンド王とイサベラ女王に届けられた。そして、パリのルイ12世、ロンドンのヘンリー7世、ローマ教皇のアレクサンドル6世にも届けられた。本名はシャルル。生まれて2週間後、叔母のマルガレーテ大公妃が代母となって、ガンの聖バボ大寺院で洗礼を受けた。
ハプスブルク家の人間は遺伝的にアゴがしゃくれていた。あのマリー・アントワネットも漏れなくしゃくれていた。その中でもカール五世の顎は異常なほどに突出していたらしく、どことなく間の抜けた様な面長の顔だったらしい。
カール五世の少年時代は、実は幸福ではなかった。カール五世が6歳の時に、父フィリップはスペインで亡くなり、母フアナは夫が亡くなってから精神錯乱状態となり、母親としての努めを果たせない状態だった。
カール五世は6人兄弟で、次男のフェルディナント他に、エレオノーレ、イサベラ、マリア、カタリーナの4人の妹がいた。次男のフェルディナントと末娘カタリーナはスペインで生まれ育ち、他の4人は叔母マルガレーテ大公妃のもとで少年少女時代を過ごした。カール五世は、叔母の庇護の下、メッヘルの宮廷でネーデルラント人やスペイン人の教師たちから、ラテン語や歴史、英雄伝などを習った。その教師の中に後のローマ教皇となる司教もいた。
カール五世の兄弟は生涯にわたって良く協力しあい対立することはなかった。別々の地で生まれ育ったり、母親が精神錯乱状態といった逆境がかえって兄弟の結束を固くし、ハプスブルク家の黄金時代を築いた。
カール五世が10歳近くになると性格が定まり、凛として犯すべからず君主としての威厳の片鱗が見られるようになった。生涯の通じての悪癖というべき暴飲暴食もこの頃から始まった。
1515年、満15歳の誕生日の少し前に、成人の儀が行われ、ブルゴーニュ公国の君主となり、ブルゴーニュ公と称するようになった。
カール五世の青春時代
カール五世は17歳になるとスペイン王も兼任することになる。スペインではカルロス一世と呼ばれた。
スペイン王の政治顧問としてメルクリーノ・ガッティナラが宰相に就任した。以後数十年間のカール五世の政治は、全てガッティナラの献策に従って遂行された。ガッティナラは、もともとマクシミリアン一世に仕えていた人文主義者であり、その博覧強記、視野の広さには定評があった。
カール五世はガッティナラによって皇帝理念を植え付けられ、しかるべき教育を受けた。つまり、世界平和は唯一にして最高の君主たる皇帝の手によって達成され、皇帝は教会とキリスト教の守護者であるという理念である。
カール五世が19歳のときに神聖ローマ皇帝であるマクシミリアン一世が亡くなった。ガッティナラは、次の皇帝にカール五世を就任させたいと思っている。しかし、当時の皇帝になるには選挙戦で勝つしかない。フランソワ一世がライバルだった。フランソワ一世は猛烈な買収工作によって票を獲得しようと暗躍していた。カール五世とガッティナラはスペインにいたので、叔母のマルガレーテ大公妃が代わりにハプスブルク家に出入りする金融業者たちに働きかけて融資を依頼した。マクシミリアン一世となじみの深かったフッガー家とヴェルザー家は協力を惜しまなかった。
時のローマ教皇のレオ10世は、あらかさまにフランソワ一世を支持したことは、かえってフランソワ一世には不利に働いた。教皇は宗教界の最高位にあるという身も忘れて俗世事に介入したために、選挙では満票でカール五世が次の神聖ローマ帝国の皇帝に推挙された。このときカール五世は19歳だった。これにより、帝位はハプスブルク家が独占する基礎が定まった。
カール五世が皇帝に就いたことはハプスブルク家にとってはこの上ない喜びだったが、スピン人にとっては逆に冷ややかな反応が多かった。抗議の声が次々に上がり、王の身にさえ危害が及びかねない状態になった。そこで側近たちはカール五世を国外に逃亡させることにした。家臣たちには「遅くても3年以内に帰国する」と言明し、王の代理人として信頼厚いアドリアン・フォン・ユトレヒトを任命した。アドリアンはそれから約1年にわたる反乱を抑えるので大変だった。
しかし、不思議なことにスペイン人たちはカルロス王その人に対しては反感があったわけではなかった。反乱をしたけど、王権そのものを覆そうとしたわけではなかった。逆に王権をこそ自分たちの錦の御旗に掲げようとしていた。
アドリアンの頑張りにより、カール五世が約束通り3年後にスペインに帰国したときには、既に反乱の気風はすっかり除去されて、国内には平和が回復されていた。王の権威はあまねく確立されていた。
ヴォルムス帝国議会
さて、1521年にヴォルムス国会が開催された。スペイン王カルロス一世が、神聖ローマ帝国の皇帝とブルゴーニュ公も兼ねているため、神聖ローマ帝国を留守にする可能性が多分にあった。そのため、皇帝不在の帝国で誰が治世にあたるのかをヴォルムス国会で話すべき議題だった。しかし、1521年1月27日のヴォルムス帝国議会を世界市場、名高くしたのがルター問題であった。
平素から教会の徴税吏らにたっぷり金を搾り取られていたドイツ人には、とりわけローマに対する深い恨みがあった。だからこそルターが掲げた九十五箇条の提題は、あれほど甚大な影響を各方面に及ぼした。それを契機として、カトリック教会は一挙に猛烈な批判の嵐に見舞われた。いつもはドイツのことなど気にもかけないローマ教皇レオ10世ですらが、重い腰を上げて指図したほどだった。
そして事は必ずしも宗教だけに関わっているわけではなかった。半ば政治の問題でもあった。ルターが九十五箇条の掲題を掲げた時に、いち早くルターを庇護したザクセン選帝侯フリードリヒ賢公は、政治的野心のためにその挙に出たのだった。また、政治的野心といえば、ローマ教皇レオ10世も甚だしかった。彼は、神とか信仰とかのくだらないことよりも、ローマ教皇領の拡大の方が大切なことだった。カトリック教会の富みを栄えさせるための政治的駆け引きこそ、ローマ教皇の専念すべきことと心得ていた。
そんな教皇を頂点とするローマ教会であるにも関わらず、カール五世はカトリック守護のために全力を傾けて、あたらしい宗教と対決しなければならなかった。矛盾は始めからあった。その矛盾を背負いながら、カール五世はなんとかして新教・旧教の対立を和らげようと苦闘した。これ以後三十数年のカール五世の生涯は、そのための血のにじむような戦いの連続だった。
ヴォルムス帝国議会では、互いに深い溝があり、このままでは両者が歩み寄れる可能性はなかった。討論を見守っていたカール五世は、固い信念に貫かれたルターを翻意させるのは無理と判断し、次回の帝国会議で再び検討することとして、それまでに再考せよとルターに言い渡した。そして彼をそのまま釈放した。
そして、カール五世が不在の時の帝国は次男のフェルディナントが処理することになった。カール五世が再び帝国に姿を表すのは8年後の1530年であり、その間にルター問題はドイツで急進展を見せ、みるみるうちにルターの唱えた教義は全土に広まった。
大航海時代
1522年7月、3年ぶりにスペインに帰国したカール五世は、これから7年間スペインに滞在する。22歳から29歳までの7年間。人生の最も華やかな時期をスペインで過ごした。
カール五世がスペインにいた時代の歴史は、いよいよ大航海時代に入りつつあり、その時代の先端をいくのがスペインだった。世界史におけるスペイン時代の幕がここに切って落とされる。カール五世がスペイン王となり、神聖ローマ皇帝となった。世界史でスペイン時代とは、とりもなおさずカール五世の時代ともいうことができる。
アウグスブルクの帝国会議
30歳の頃にアウグスブルクの帝国会議が開かれた。カール五世の子供の頃からの悪癖というべき暴飲暴食は一向に改まることがなく、カール五世は朝から冷たいビールを飲み、好物の蛙のもも肉、サージン、鰻のパイを食べ、食欲は旺盛だった。そのため早くも痛風の徴候が現れ始めていた。手足に激痛が走り、カール五世の思考も鈍るほどだった。肥満気味のカール五世の行動はやや傲慢で、痛風の痛みが走るとなおそれが目立った。
1521年のヴォルムス帝国議会から10年が経っていた。それまではスペインの統治とフランソワ一世との抗争、ローマ教皇クレメンス7世との軋轢に明け暮れて神聖ローマ帝国の問題に専念する余裕と時間はなかった。そのためプロテスタントは順調に発展することができた。
アウグスブルク帝国会議は1530年6月20日に開会の運びとなった。「宗教問題」が主要議題となった。前回はルター一人の「異端児への尋問」で終始したが、今回は、神聖ローマ帝国のかなり多くを占める君主、貴族、騎士、都市の支持する「新しい教義」の検討に様変わりしていた。ルターは今回の会議には参加していない。前回の会議で帝国の保護の外に置かれたので、帝国議会のような公の場に出席する資格を剥奪されていたからである。
帝国の将来を気遣うカール五世は、いかなる手段にせよ両者が歩み寄れる道はないものかと、検討を続けた。しかもカール五世はオスマン・トルコ帝国がいつ襲ってくるかも分からなかったため、武力によってプロテスタントを抑えることはできなかった。もし、トルコと戦うことになると人員が必要で、宗教問題でプロテスタントを刺激したくなかった。
しかし、カトリックの神学者たちは少しでも自分たちの権利が犯されるのを恐れて、かたくなな態度を崩さなかった。
結局、アウグスブルク帝国会議では何一つ結論を出すこともなく終焉した。
それから長い年月が経った、1555年9月25日、カール五世の名のもとに、アウグスブルク信条がほぼそのまま採択され、新旧両教徒の同権を承認して終幕した。
プロテスタントもカトリックも互いに相手の立場を尊重しあい、その信仰を妨害することも、領地に侵入することも許されず、帝国の統治、官職の任命や裁判権においても平等の扱いを受けることが約された。プロテスタントとカトリックのどちらを選択するかは各領邦君主あるいは都市などの自由裁量とされた。あくまでも君主の信仰の自由であり、その臣下や居住民はお殿様の選ぶ宗教に従わねばならなかった。これによって、ルターの教会批判に端を発した約40年に及ぶ宗教論争に、けりがつけられたことになる。それはカール五世の時代の終焉を意味した。
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ヨーロッパは、「ヨーロッパは一つ」という観念が定着して、ヨーロッパ共同体(EC)ができあがり、ヨーロッパ連合(EU)に発展した。このEUの思想の淵泉をたどってみれば、「ヨーロッパ各国、各民族の融和」というカール五世が実現を目指した理想にたどり着く。
また、カール五世の歴史的意義は、スペインの黄金時代を築いたということに留まらず、ヨーロッパが始めて新大陸と接触し、イスラム教徒と真っ向から渡り合ったというばかりでもない。ヨーロッパの精神世界を二分するプロテスタントとカトリックの角逐に直接関与した人でもあった。
カール5世―中世ヨーロッパ最後の栄光は、新大陸での出来事や当時の社会経済状況、ドイツの農民戦争などについてはほとんど触れていないが、カール五世という皇帝のおおよその輪郭を知ることができる。