16世紀は、関ヶ原の戦いが1600年なので日本でいうと戦国時代である。日本でちょんまげ頭の人たちがホラ貝を吹いて甲冑着て合戦をしている時、ヨーロッパではハプスブルク家とヴァロア家が戦争していたり、宗教改革が起こっていたり、キリスト教とイスラム教が戦争してたり、スペイン・ポルトガルが大航海時代の幕開けをしてたりと、これまで以上に異質の文明や異文化に接して歴史を動かしていた。
歴史が動く時にはお金も動く。その背景で何らかの経済的な要因があるからである。お金を通して歴史を眺めると、様々な歴史的な出来事が、より立体的に見える。
フッガー家は南ドイツのアウクスブルクを本拠地にして活動していた、ヨーロッパ最大の商人であり、銀行化であった。フッガー家の財力はハプスブルク家とカトリック陣営の有力な資金源であったために、宗教改革や大航海、スペインの覇権などの歴史的大事件に密接に関わっていた。フッガー家の時代は、16世紀に一番お金を持っていたフッガー家の商業と金融業を紹介している。
フッガー家
フッガー家がヨーロッパ屈指の商人・銀行家になったのは、ローマ教皇庁やハプスブルク家と結びついて、公信用と鉱山業の分野で非凡な商才を発揮したからである。
当時の南ドイツで成功した商人は、まず都市で手工業に加入して、遠隔地間商業で利益を上げ、これで獲得した富で領地を購入して土地所有貴族になる者が多かった。フッガー家もこれと似たようなコースをたどっている。フッガー家も手工業を続けた後に、地中海貿易でヴェネツィアに行き、香辛料や珍しい高価な織物、綿花などを買付け、地元に卸す商売を始めた。そして儲けたお金を、ローマ教皇庁や王侯貴族、高位の聖職者相手に貨幣・信用取引を始め、それと引き換えに獲得した特権を利用して鉱山業(銀や同の採掘と精錬、地金や加工品の販売)に乗り出して成功を収めた。
フッガー家をいち商人からヨーロッパ屈指の商人・銀行家に引き上げたのは、ヤーコプ・フッガーだった。彼は、少年時代に聖職者の道に入ったが、19歳の時に還俗し、家業に携わることになる。それから10年後に実質的な原動力になった。そして、1511年に2代目の当主として会社を引き継ぎ、死ぬまでワンマン経営的起業家として会社を指揮し、商業界に君臨した。彼は17年間で会社の資本金を10倍以上に上げ、利益率は927%、年平均54.5%であった。
そしてヤーコプ・フッガーの死後、三代目を継いだアントーン・フッガーは資産と営業資本を更に2倍にし、「商業界の王者」となった。
しかし、アントーンの晩年になると、将来を託すになる後継者おらず、さらにハプスブルク家からの限度を超えた借金の要請により、フッがー会社の経営状態に暗い影が広がった。最終的にはアントーンは1546年には社員の間で会社を解散することを決め、1548年に利益金の70%余を社員に分配した。
フッガー家の資産から負債を引いた「営業資本」は510万グルデンだった。この当時、一般市民の一家族は50グルデンあれば1年間暮らすことができたと言われている。あまりにも富を持っていたので、「これほど大きな王者にも相当するような財産が山のように蓄積されるということが、しかも神の御旨にかなっていると同時に合法的になされているということが、果たしてありうるであろうか」とルターが抗議したりしている。
フッガー家はこの財力と情報網にものを言わせて、各国の君主や有力者を操り、16世紀前半のヨーロッパの歴史に舞台裏から強い影響を与えていた。ハプスブルク家のカール五世も、ヴァロア家のフランソワ一世やアンリ二世も、テューダー家のヘンリー八世も、フッガー家の操り人形みたいなものだった。
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戦争のためのお金は、通常の歳出と違って、時と場所を問わずに突発的に生じて、即刻必要で、しかも全額を現金で用意しないといけなかった。戦場が遠隔地の場合には外国への送金も必要だった。君主は戦費を賄うために商人や銀行家からの借金に頼るしかなく、また、国先的な取引網を持つ銀行家に外国への送金を依頼しなけらばならかった。
そうなると王室と商人・銀行家との間が信用の授受と利権の書くという太いパイプで繋がり、16世紀はヨーロッパの覇権争いの資金調達をめぐって、銀行形がしのぎを削る国際金融の戦国時代でもあった。
お金を通して歴史を見ていくと、「歴史上の事件」がとても人間臭く、現実味を帯びて見えてくる。フッガー家の時代を読むと、16世紀のヨーロッパ史がそう見えてくると思う。