昔のモンゴル人は文字を持たなかったし、生まれ年の概念すらなかったので、チンギス・カンの実像は見えにくい。チンギス・カンの子孫に整復された人々の記述に頼るしかなく、文字で書かれた史料は、モンゴル語を漢字表記し漢文訳を付した「元朝秘史」と、イランに君臨したモンゴル政権のフレグ・ハン国で、宰相のラシード・アッディーンが編纂した「集史」の2つぐらいしかない。
堺屋太一が解く チンギス・ハンの世界は、そんな実像が見えないチンギス・カンの生涯を詳しく説明している。ここまで詳しくチンギス・カンや遊牧民について詳しく語っている本は他にない。
チンギス・カンはなぜ強かったのか
父親のイェスゲイ・バートルがテムジンの幼い頃に死んだ。テムジンの生活環境は、貧困と孤独に変わったが、テムジンは読みと心房と幸運で乗り切った。そしてやがて、ときの実力者ケレイト族のトーリル・カンに取り入り、それとの同盟によってジリジリと勢力を伸ばす。
モンゴル軍がチンギス・カンの時代に限って強かった理由は、思想とシステムにある。チンギス・カンは目的の単純化と主君に対する忠誠を重視した。
チンギス・カンは、「地の上に境界なく、人の間に差別ない」世界国家の創設を目指した。軍事行動の目的は唯一勝利、勝つためには見栄も体裁もなく、攻め、逃げ、散り、集まった。伝統にも信仰に囚われずに戦術や装備を変えた。モンゴル軍は騎馬散兵戦を得意とする一方、中国や西域では城攻めでも強みを発揮できた。投石機などの大型攻撃兵器を大量に利用したのもモンゴル軍が最初である。
また、命令必行・約束厳守を徹底した。南北1,000キロの幅で3,000キロ余りを進撃して大した齟齬もきたさなかった。この秘訣は、1)命令権者は明確にただ一人とする、2)命令は単純明快にする(伝令を覚えやすい韻文にする)、3)一度決めたことはめったに変えない。
さらに、鉄の普及と物量も大切にした。鉄は古くからモンゴル草原にも伝わっていたが、希少で高価だったため、刀剣や槍矛などに少量の留め金にしか使えなかった。ところが、唐末に中国で石炭利用技術が進歩し、鉄の生産量が飛躍的に増えたため、チンギス・カンが成人するころにはモンゴルでも安価で豊富に手に入るようになった。その結果、至近距離から発射する大型の鉄の鏃の付いた接近戦用の矢が開発された。騎馬民族の戦いは物量を必要とする。チンギス・カンのモンゴル軍は一日の戦いで各兵士が50本ほど矢を射たという。1万人で50万本、2、3日の長期戦なら100万本を軽く消費する。この補給にモンゴル軍の後方兵站部は忙しかった。
チンギス・カンはモンゴルの鞍は5キロの重さがあり、雨に濡れても大丈夫なように皮の部分に羊の脂肪が塗り込まれていた。鞍は座るための形をしておらず、鞍から知りを浮かせて、ほとんど直立姿勢で騎乗した。両足でしっかりと馬の胴体をはさめば、フリーハンドになることが可能だった。
また、モンゴルの馬にはめずらしい特徴があった。多くの馬が左右の足を同時に前に出して走るのに対し、人間と同じ様に左右の足を交互に出して走った。この走り方は乗っていて上下の揺れが非常に小さかった。揺れの非常に少ない状態で狙いを定めるため、矢を驚くべき命中率で次々と連続発射し、次々と敵を倒した。また、小柄なモンゴル馬は素早く反転することができた。ヨーロッパ騎士たちは、馬上から矢を射ることは考えもしなかった。馬と一体になってすさまじいスピードで屋を放ってくるモンゴル軍を前にひとたまりもなかった。
チンギス・カンの記憶したい15の戦い
ボルテ奪還の戦い(セレンゲの戦い)
テムジンの最初の勝利は、誘拐されていた妻ボルテを救い出した、vsメルキト戦だった。
イエスゲイのマブダチのトーリル・カンに助けを求め、バイカル湖の南を流れる7つの河川の一つとして知られるセレンゲ川畔でメルキト軍を奇襲攻撃して、打ち破った。
十三翼(クリエン)の戦い
セレンゲ川の戦いでともに戦ったジャムカはマブダチだったが、ジャムカの弟がテムジン配下の遊牧民の家畜を略奪しようとし、射殺される事件が起きた。これをきっかけに仲が悪くなった。さらに、キヤト族がテムジンをカンに推薦しようとして対立は決定的になった。こうしてモンゴル族の中で二つの勢力が敵対し、そして戦争へと発展した。
この戦いは十三翼(クリエン)の戦いと呼ばれた。クリエンとは遊牧民がゲルを設営する時に敵襲を防ぐために作る円陣のことで、「部隊」の意味として使われる。この戦いでは双方が十三クリエンを動員し、激しい戦闘となった。最終的にはテムジンは敗北した。しかし、トーリル・カンと同盟を組み傘下に入り勢力を大きく伸ばした。戦いには負けたが、政治的には勝利した。
タタル族との戦い
タタル族は金の同盟国だった。しかしタタル族は次第に勢力を伸ばしたために関係が悪化した。金はタタル族に討伐軍を送った。これにテムジンは参加し、タタル族を撃破した。この戦いでの功績を認められ、テムジンは百戸長という称号を与えられた。こうしてテムジンは金の後ろ盾もあり勢力を伸ばした。
コイテンの戦い
清涼を拡大していたテムジンをよく思わなかった遊牧民が連合を組みテムジンに戦いを宣告した。両軍は谷間のコイテンと呼ばれる地でまみえた。この戦いの結果、テムジンらの連合軍はモンゴル高原東部を平定した。
西夏攻略(1205年)
テムジンはナイマン族とメルキト族を破り、ついにモンゴル高原の全てを支配下においた。そして1205年にテムジンは初めて西夏へと遠征する。この戦いでの目的は、臣下に与える財宝などの褒美を略奪してくるためだった。
西夏は強かったので攻略に苦労し、西夏を支配下に置くまでには相当な年月を必要とした。長年の攻撃に疲弊した西夏は、1209年に講和を結んで実質的な支配下となった。
この戦争と並行して、各部族の代表者を集めてクリルタイを開き、全員の支持を受けてカンに選出された。
第一次金攻略
金を攻略するために、金の支配下の契丹族とオングート族を味方にした。オングート族は金の馬を管理していたので、大量の馬がモンゴル側に提供され、逆に金からは馬がいなくなった。
モンゴル軍派5年かけて金の中都を兵糧攻めにして、陥落させた。しかし、金が完全に陥落するのは、オゴデイ・カンの時代である。
クチュルク討伐
金との戦い後、2年の休養をとった後に西への大遠征を開始した。
大西征(中央アジア征服戦争)
クチュルク討伐と同じ年に通商再開を目的に中央アジアに通商隊を派遣した。この時に欲に目がくらんだホラズム王国の地方長官がモンゴル人を皆殺しにしてしまう。これにキレたチンギス・カンが20万の軍隊を率いて、ホラズムへ攻め込み、またたく間に首都サマルカンドを制圧した。
インダス川の戦い
クチュルク討伐で逃げた王様の息子、ジェラール・アッディーンが3万のモンゴル軍を全滅させてしまう。これにキレたチンギス・カンは現在のバーミヤンの近くの年を次ぐ次と破壊しながら南下した。
カルカ川の戦い
次にロシアも制圧した。モンゴル軍は、ロシアの騎士たちを捕らえ、地面に全員を寝かせてその上に材木を置き、その上で大宴会を開いて騎士たちを圧死させたと伝えられている。
西夏再討伐
この戦いの最中にチンギス・カンは亡くなる。
モンゴル帝国の滅び方
チンギス・カンが生きている間に物心ついた孫たち(バトゥ、フビライ、フレグら9までは、このコンセプトとシステムを良く守り、大帝国の結束と繁栄は揺るがなかった。しかし、その子や孫になるとこれが崩れだす。その第一は、宗教による差別の発生と文化介入である。
14世紀に入ると、イスラム教やキリスト凶、仏教に熱中するものが現れた。これには地元の信仰深い女性が皇室に入った影響が大きい。やがて宗教起因の戦争や反乱が起こり、また、宗教は文化への介入が強まり、、軍事力が分散して大量報復も実行されなくなった。さらに皇室と行政は宗教にのめり込み、経済重視の幻想を忘れ、宗教による差別も広まった。反乱は交易を妨げ、通貨の需要を減らした。紙幣の増発に頼ってきたモンゴル政府は、一気に財政破綻、軍事による物量作戦も不可能になった。
更に中東から入ってきたペストが追い打ちをかけた。
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実は、チンギス・カンが世界を征服しようとした理由は分かっていない。少なくとも、チンギス・カンは経済的理由、つまり「物欲」のためには戦ってはいない。チンギス・カンとその傘下のモンゴル人が豊かに暮らすだけなら、中国の一部か、西夏かウイグル王国かのどれか一つを占領すれば十分だった。契丹族の遼も、女真族の金も、それで満足したはずだ。
また、チンギス・カンの征服戦争で重要なのは、自らの信仰や週間、つまり「固有の文化」を征服地に広めようともしていなかった。たいていの征服者は、自らの文化を誇り、それを全世界に普及することに使命感を持つが、チンギス・カンは違っていた。遊牧民の文化を農耕民や都市住民に押し付けることはしないし、モンゴルのシャーマニズムを多民族に普及しようとしたこともない。
堺屋太一が解く チンギス・ハンの世界は、チンギス・カンの生涯とその時代のモンゴルの歴史を説明している。図解も多く大変良書である。