日本人が普通に読んでいる「三国志」は羅貫中が書いた「三国志演義」のことである。三国志演義は蜀をヒーローに、魏を悪役に、呉を道化役にしたフィクションであり、孟獲の七縦七擒とか、フィクションがいたるところに散りば混られている。
「三国志」というのは、三世紀の歴史化である陳寿が書いた歴書であり、中国歴代の史実を綴ったいわゆる正史のひとつである。
中国の歴史04 三国志の世界で扱っている陳寿の三国志を使って三国志の世界を解説している。
三国志
三国志の世界に入る前の漢は、呂后から始まった外戚と、宦官、国境にした儒教にしたせいで誕生した清流(官僚)がいた。王様が権力を持っていた時は良かったけど、幼帝が10代続いた時に外戚と宦官、官僚によるドロドロとした権力争いが発生し、恐ろしく腐敗していく。
宦官が権力を握った時に「党錮の禁」という官僚を無実の罪で投獄する事件が発生した。こんな感じで腐敗していたので、民衆は疲弊していて、張角をリーダーに黄巾の乱が起こる。それを知った朝廷は外戚の何進を大将軍に任命して、反乱の平定を行うことにした。この時に15年続いた党錮の禁を解除した。黄巾の乱自体は、孫堅や袁紹、劉備によって平定された。劉備は三国志演義では関羽らと勇敢に戦っとされるが、史実では死んだふりして逃げ回っていた。反乱が収まったころ、袁紹が官僚を皆殺しにした。
曹操は宦官の孫で夏侯氏と親戚だったので、良い家の生まれで力を持っていた。孫堅は海賊退治で力を付け、南側で力を持っていた。劉備は何も逃げ回っていたので、力は持っていなかった。劉備は曹操のような血縁や孫堅のような地縁がなかったので、集団をまとめるためには漢王朝の復活、という大義しかなかった。
黄巾の乱は収まったけど、各地で反乱が発生した。これを押さえるために各地で力のある者が各地を治めたのが三国志に入る前の群雄割拠の時代に入っていく。
官渡の戦いの後、劉備は三顧の礼で諸葛亮と出会い、天下三分の計を実行する。天下三分の計は、呉と同盟を結んで魏を弱め、三国時代を作ろうとするもの。ということで赤壁の戦いが起こる。赤壁の戦いは、曹操軍の20万人と周瑜の3万人の戦いである。黄蓋の偽りの降伏と周瑜の火攻めによって曹操軍は大敗した。これによって曹操の南方進出の野望が立たれ、この直後、魯粛の進言により孫権が荊州を劉備に貸したことにより、諸葛亮が計画したように三国時代の基礎ができた。
赤壁の戦いの直後、呂蒙の策略により関羽が殺され、関羽の弔い合戦の準備中に張飛が部下に暗殺される。更に関羽の弔い合戦を無理矢理仕掛けた劉備は戦いの最中に病死する。
曹操もその直後病死した。曹丕が後を継いだ。
劉備亡き後は、諸葛亮が蜀をまとめ、北方征伐を目指したがことごとく失敗した。んで、2年間は戦争するために兵糧を溜め込み、満を持して北方征伐を目指す。これが五丈原の戦い。五丈原の戦いの最中に諸葛亮は病死する。
劉備と諸葛亮が死んだので、蜀をまとめる人がいなくて、蜀は権力争いで勝手に弱まっていき、劉禅が魏に降伏して蜀はあっけなく滅びる。その魏も司馬懿のクーデターで滅び晋が天下を取る。その後も晋が孫権がいなくなって勝手に弱まった呉を滅ぼして三国時代が終わる。
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横山光輝の三国志などやゲームなどでは蜀に、蒼天航路などでは魏に焦点を当てて、呉に焦点を当てている作品は少ないが、中国の歴史04 三国志の世界は三国志の「キーマンはむしろ呉だ」ということで呉についてもしっかり記述している。