読書ノート

日本人のための第一次世界大戦史

第一次世界大戦を知らない人はいないと思う。教科書に必ず出てくるし、三国同盟やら三国協商やら覚えさせられる。世界大戦と言えば世界的には第一次世界大戦を指すくらい重要な出来事である。世界史の中でも極めて重要な出来事であり、第二次世界大戦の開戦原因であり、現代の世界のあり方に大きな影響を与えている。

しかし、日本人は第一次世界大戦には詳しくないと思う。第一次世界大戦後の第二次世界大戦の方が戦死者が圧倒的に多いし、主戦場はヨーロッパということが原因していると思う。

また、第一次世界大戦について書かれている本はたくさん世の中にあるが、日本人の立場から戦争全体を俯瞰した容易に読めるものは無い。そこで著者である板谷敏彦が、「日本人とってあまり知られていない第一次世界大戦とそこに至る第一次グローバリゼーションの時代の歴史を整理したい」ということで日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのかを書いた。

 

戦争技術の発達

第一次世界大戦はそれまでの馬や刀槍、銃の戦争に代わって「20世紀の戦闘システム」が出現した戦争だと言われている。ここでは、軍艦と鉄道、銃器の歴史を追いながら、アヘン戦争からドイツ統一戦争までを述べる。

グローバリゼーション

坂本龍馬が暗殺された1865年に南北戦争が集結した。1867年には蒸気船によるサンフランシスコ―横浜―香港間の定期船航路が開設された。

1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が開通した。それまではサンフランシスコからニューヨークに行くのは、船でパナマまで南下して鉄道でパナマを横断して、大西洋側に船に再び乗り換えて北上する必要があったが、大陸横断鉄道で時間が大幅に短縮された。

この年にスエズ運河も開通し、南アフリカの喜望峰周りと比べて時間は大幅に短縮した。1871年に普仏戦争が終了してフランス国内の鉄道網が旅行に利用できるようになった。もはや世界一周のために残る障害はインドの横断鉄道だけになった。

また、このの時代にドイツやフランスが金本位制度を採用し、主要国の通貨制度は金を基準に定められた。為替リスクがなくなり、活発に貿易や資本取引が行われるようになった。ロンドン金融市場では電信ケーブル網を利用して世界のニュースが集められ、世界各国の国債や鉄道債、株式が取引されるようになっていった。

1870年から1914年の第一次世界大戦までの約半世紀は、英仏露伊などの列強が覇権を争う「帝国主義」と呼ばれる一方で、世界が急速に接近した「第一グローバリゼーション」の時代とも呼ばれるようになった。

1805年のトラファルガーの海戦において、ナボレオンのフランス・スペイン連合艦隊を打ち破って依頼、イギリスは覇権国家になった。世界の金融市場はロンドンを中心に動き、通貨は英ポンドが基準になった。ナポレオン敗北後の世界は、パスク・ブリタニカ(イギリスによる平和)と呼ばれ、イギリスが繁栄を極めた時代だった。

フランスは平野部の多い大国だった。

一方、ドイツは山がちな地形で、当時はプロイセンとハプスブルク家を中心とするドイツ諸邦として小国に分かれていた。しかし、ナポレオン戦争以降の徴兵制や義務教育による識字率の向上、新聞の普及、また鉄道や電信の発達によって国家統一への機運が盛り上がった。その結果、1871年に集結する普仏戦争によってドイツ帝国として統一を果たした。伊の統一が1860年、ドイツや伊などの列強の国家統一は、日本の明治維新と同じ頃だった。

統一されたドイツは、人口増加と急激な経済成長によって、フランスを凌駕し、ロシアやイギリスなどの周辺国への驚異となった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、経済力を背景に陸軍の規模を拡大し、やはて大海軍を建設してイギリスの覇権に挑戦した。

軍艦

ペリー司令官は、2隻の蒸気船と2隻の旧式な帆船を率いて浦賀に現われた。船体を防水・腐食防止用のタールで黒く塗っていた木造船のため「黒船」と呼ばれた。帆船用の帆を備えていながら、蒸気ボイラーの煙突があり、船体の両横には蒸気機関で回転する大きな外輪が設置されていた。

大砲は鉄の塊である砲弾の他、金属片を飛散させる榴散弾、命中すると火薬が爆発する炸裂弾も装備されていた。炸裂弾は木造船を破壊炎上させるだけではなく、要塞の壁を破り内部で爆発する破壊力がった。一撃で船が飛び散ることもあったらしい。

帆船の移動は風まかせのため、風向きや潮流などの自然条件に大きく左右されるため機動力はなかった。しかし、蒸気軍艦は目的地に短時間で移動できた。

アヘン戦争

清国の沿岸にそって展開されたアヘン戦争は、一部は湾内、河川に入り組んで戦闘になったため、高い機動力が要求された。それゆえに風向きや潮流などの自然条件に関わらず、目的地に短時間で移動できる蒸気軍艦が優位だった。イギリス軍は陸上に布陣した清国の大舞台を避けて上陸地点を任意に選択することができた。鉄道が普及する前の陸上部隊の移動速度は蒸気船にかないません。さらに戦闘前の歩兵の移動は肉体的な疲労にも繋がり清国に不利に働いた。1842年に、イギリスと清国の間で終戦のための南京条約が締結された。イギリスは軍艦の力で賠償金をせしめ、いくつかの港を開港させ、香港島を割譲させた。

1853年、浦賀に現われたペリー艦隊の旗艦サスケハナとミシシッピの搭載砲は炸裂弾の発射が可能だった。イギリスの軍艦が揚子江を遡り南京に迫ったごとく、ペリーが望むのであれば黒船艦隊は風向きや両龍をものともせずに東京湾奥深く侵入し、江戸を火の海することができた。

ペリーはフィルモア大統領の親書受け取りを渋る幕府に対して、「親書を受け取らないのであれば江戸湾を北上して兵を率いて上陸し将軍に直接手渡しすることになる」と迫った。

黒船の恫喝によって目覚めた日本人は、島国であるがゆえに軍艦を持つことこそが力の源泉であると認識して国造りに取り組んでいくことになる。

蒸気機関

戦列艦は木造帆船の階層化された舷側(船体の横側)に積めるだけの大砲を装備し、備砲の数で等級が決められていた。大砲の有効射程距離はたかだが300メートルほどで、狙って撃つというより、全砲一斉の水平射撃が基本だった。鉄の塊である弾丸を撃ち合い、木製の船体を傷つけ、マストを折り、砲弾・弾丸の破片で敵艦上の戦闘員を殺傷して戦闘能力を奪う。マストに狙撃兵を登らせ至近距離にある敵艦の将兵を狙撃する。最後は接舷して、海賊映画さながらに敵艦に乗り込んだ。

蒸気船が実用化したのは、こうした中世以来の海戦が戦われている頃だった。1807年、アメリカ人のフルトンが、イギリスのジェームス・ワット社から輸入した蒸気機関を河川用の小型船に搭載し、船の横にとりつけた外輪を回転させることで船を動かした。

順風に乗った帆船に比べてさして速いわけではなかったが、天候や風向きに関係なく定時運行が可能となり、時刻表が作れるようになった。

とはいえ、イギリス海軍が蒸気船を採用するのはそれから随分経った1832年になってからだった。初期の蒸気船は両舷に大きな外輪がついており、戦列艦は舷側にできるだけ多くの砲を搭載しなければならないため、外輪は面積を占有する分だけ邪魔だった。至近距離の水平射撃で撃ち合う海戦では外輪は簡単に破壊される。戦闘開始と同時に動力を失うのではどうしようもない。アヘン戦争で活躍できたのは、相手が外輪を攻撃する力のない中国のジャンク船だったからである。軍艦が蒸気機関を採用するには、もう一段の技術革新が必要だった。

蒸気船の普及以降、民間では船の速度を勝負した。蒸気船の技術は民間部門によって鍛え上げられた。そして旅行者は「予定」というものを作れるようになった。

炸裂弾

トラファルガーの海戦までは、砲撃は鉄の塊を撃ち合うだけで、目的は敵艦を鎮めることではなく、船体の部分的な破壊と乗員の殺傷によって繊維をくじくことにあった。それまでは海軍と言っても海賊とあまり違いはなく、敵艦を捕獲すれば乗組員は分前が貰えたからである。そのため敵艦を破壊し尽くすインセンティブは薄かった。

木造軍艦の最大の弱点は火災であり、最も効果的な攻撃砲は敵艦を焼き払うことだった。鉄玉を炉で赤熱して大砲で発射すれば着弾点で火災が発生するが、戦闘中の船内でそうした危険な作業をすること自体が自殺行為だった。導火線で火をつけた砲弾を発射することも考えられたが、火薬の詰まった砲弾を発射するというのも技術的に難しい作業だった。

これを解決したのがフランスのペクサンという将校だった。彼は1822年に「新しい海軍と砲術」という本を書き、ペクサン砲と呼ばれる炸裂弾を発明した。ペクサン砲は砲弾が目標に命中すると中の火薬が爆発して木造の外板を容易に破壊し、可燃物があれば引火して火災を発生させた。

蒸気機関と炸裂弾の組み合わせは小型艦船から採用され始め、まずは植民地であるインドや東アジアの河川域の戦闘で効果を発揮した。

蒸気機関は進化して商用の大型船への採用は進んだが、大型軍艦である戦列艦への採用には、まだ大きな外輪が障害になっていた。

スクリューと走行軍艦

外輪船の場合、外輪の回転軸は水面上にあり、これであれば水漏れの危険は少ない。それに比べて船体の水面下にある穴を穿たなければならないスクリューは、船乗りにとって本能的に不安だった。

イギリス海軍はスクリューの存在を知っていたものの、採用にはなかなか踏み切れなかった。そこで、外輪船とスクリュー船の間でどちらの牽引力がつい良いのか、実際に綱引きさせるという実験をした。その結果、スクリュー船が勝利し、それ以降は次第にスクリュー船が主流になっていった。

外輪を使用しないのであれば、従来の戦列艦を蒸気船に改革することはそれほど難しくなかった。イギリス海軍もフランス海軍も既存の木造帆船の戦列艦に蒸気エンジンを積み込み、スクリュー推進とする改造を施すとともに、新たな最新型の蒸気戦列艦を建造した。

シノップの海戦

1853年、黒海南岸シノップの港に停泊するオスマン帝国艦隊に、ロシア艦隊が襲いかかった。オスマン帝国側は旧式の帆船木造戦列艦を中心とする艦隊で、ロシア側はペクサン砲による炸裂弾を搭載した戦列艦に蒸気軍艦が随行した。

結果は一方的だった。オスマン帝国の木造戦列艦の外板は簡単に打ち破られ、炸裂弾は船体内部で爆発し搭載している火薬を誘爆させた。ロシア艦隊はオスマン艦隊を全滅させ、陸上の港湾施設や市街地まで砲撃して破壊して炎上させた。そのため、この海戦は「シノップの虐殺」と呼ばれた。

「虐殺」という言葉は一人歩きをして、英仏のロシアに対する宣戦布告への世論換気に使われ、戦争に乗り気ではないヴィクトリア女王や首相を動かし、ジャーナリズムが形成する世論によって英仏両国は翌年、ロシアに大して開戦することになった。王族や貴族が戦争を始めるのではなく、市民の力が認識され始めた戦争だった。

シノップ海戦の最大の戦訓は、木造の戦列艦の外板は炸裂弾に大して全く無防備であったということ。そのためにこの海戦以降、木造の船体を鉄板で装甲した装甲艦という艦種が登場する。

鉄製の船体の優位はその後の南北戦争(1861〜1865年)でも実証され、いよいよ動かぬものとなった。

鉄道と戦争

鉄道は、炭鉱や工場内で重量物を運ぶために、人力や馬を動力とする専用鉄道として作られた。

イギリスには馬車の時代からターンパイク(有料道路)が数多く存在した。この最初の公共鉄道も有料道路と同じ様に利用者が自分の鉄道馬車を持ち込む「線路貸し」の形態だった。1825年になると、持ち込みの鉄道馬車に混ざって鉄道会社が保有する蒸気機関車も同時に走らせるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通、今ではこれが鉄道の始まりだとされている。1830年には貸し線路ではなく、鉄道会社の車両だけが走る形態の鉄道が開業した。

鉄道はその機動力から一見攻撃的な兵器のようだが、実際には、防御側にとって圧倒的に有利な要素となった。

攻め込む側は、鉄道を使用して攻撃地点まで速やかに兵員と補給物資を輸送する。しかしその後が問題であり、ひとたび敵のエリアに入ればロシアやスペインのように線路のゲージが違う場合や、トンネルや橋が破壊されているようなケースがほとんど。その倍には線路の幅を変更する改軌や修理の時間が必要となる。つまり、自国の駅の終点までは鉄道という産業革命の恩恵を十分に享受できますが、ひとたび自国の駅から離れると、補給手段は馬車や人力となってローア時代とさほど変わらなくなる。

反対に防御側は、自国内に退去していくだけなので、常に背後にある鉄道網を利用して人員の補強や糧秣、弾薬の補給を受けることができる。大砲や期間中の発達が敵の歩兵突撃に対する陣地の防御能力を著しく高めると同時に、今度はそうした兵器が大量の砲弾や弾丸などの重量物を運べる高い補給能力を求めて、鉄道がそれに応えた。

また、鉄道の発達に伴う輸送・補給能力の増大は、動員できる軍隊の規模を大きくした。鉄道のない時代の遠征では本国から糧秣が補充されるわけではなく、現地調達が幻想kだった。そたがって歴史的にヨーロッパの人工の稠密化と農業の発展に伴って、言い換えれば農産物の生産力の増大に伴って、移動dケイル軍隊の規模も大きくなっていた。移動しながら少しずつ現地で略奪している間は飢えないが、攻城戦のように1か所に長期停止すると大変なことになった。そして、飼葉を馬で運搬するとなると、今度は運搬する馬自身が飼葉を必要になり、したがって飼葉のいらない鉄道の発明は軍事上または補給上、革命的だった。

「ロジスティクス」は軍事用語における「兵站」であり、その語源は古代ローマの軍の「軍の行政官」に由来する。鉄道の登場が兵站の画期となり大規模な軍隊の動員を可能にした。第一次世界大戦のように数百万人単位の兵力が至近距離で対峙する状況を生み出した。

また延伸する鉄道の線路に沿って電柱が建てられ、折から発達し始めた電信ケーブルが敷設されていった。こうして人や物資ともに、情報も高速で伝達されるようになった。

補給戦

戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る。本書は補給という戦争の勝敗を決する最大の問題に、現代の軍事研究家として初めて本格的に取り組んだ一冊である。

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電信の金融市場への応用

電信は思わぬ効用をもたらした。同時刻の各地の気象情報を1か所に集められるようになった。各地の晴雲雨、気温、気圧、風向きなどの情報をリアルタイムに地図上に書き込めるようになり、天気図が誕生した。これが各方面で戦闘中の軍隊の状況報告に活用され、戦闘を統括する司令官が宣教全体をリアルタイムに把握できるようになった。

しかしこの道具を活用したのは株式市場の相場師たちであった。1869年、22歳のトーマス・エジソンは株価情報機器ティッカー・マシンを改良して特許を取得した。これが4万ドル(現在価値で数億円)で売れて、その後の発明家への元手となる資金を手に入れた。

ティッカー・マシンは巻取り式の紙テープに電信で送られた文字や数字の型の穴をあけることによって株価と出来高を伝えた。情報の即時性と共に、時間と株価の記録が残ることになった。取引成立ごとに印字されたので、市場が活発に成り、出来高が増えるとテープの送り速度が加速した。また閑散な市場ではテープの流れは遅くなった。英語で「閑散な取引」を"Slow Market"というのは、このテープの印刷速度が「スロー」だったから。また会社名をフルネームで送信するのは時間と紙の無駄なので省略形が考えられた。ゼネラル・モーターズをGMに、フォードはFとなった。これがティッカー・シンボルである。ティッカーは専用線や電信網にのって全米にリアルタイムで株価を伝えた。

26文字に会社名を省略できない漢字文化の東京市場は、ティッカーではなく銘柄コード番号を選択した。

ドイツ統一と鉄道

ナボレオン戦争後のヨーロッパの体制を決めるウィーン会議では、戦前の状態を復活させるべく応酬の大国の勢力均衡が図られた。ドイツ諸邦は、オーストリアとプロイセンの2大国を中心とする25の王国・公国と4つの自由都市に分割されていた。しかし、ナポレオンに屈服させらたことで、民族としての解放戦争を経験したドイツでは、統一と自由を求める様々な運動が展開された。おりからの鉄道や電信の普及が、山間部や湖沼地帯などの交通上の障害の多い地勢上の問題を克服してドイツ統一への一助となった。

ドイツは、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争の3つの戦争を経て統一された。

1866年の普墺戦争では、デンマーク戦争で獲得した土地の管理を巡ってプロイセンとオーストリアが戦った。この戦争で圧勝したプロイセンはドイツ諸邦の主導権を握った。オーストリアは国内問題から国制を改造せざるを得ず、この戦争以降はオーストリア=ハンガリー帝国となる。

1870年の普仏戦争はドイツ諸邦がフランスを共通の敵として叩くことで、分裂していたドイツ民族統一を図った、統一の仕上げの戦争である。ビスマルクによって企画され、計画通りにフランスに勝利してドイツ帝国が成立した。この時に大モルトケという人物が参謀総長が登場する。彼は近代ドイツの父と呼ばれる。「大」モルトケとなっているのは、後に甥も参謀総長となるためである。

ドイツ統一戦争

プロイセン王ヴィルヘルム一世は、摂政時代の58年に、大モルトケを参謀総長にして、翌年にローンを陸軍大臣に登用すると、徴兵制度を強化して陸軍を改革した。また、63年にはビスマルクを宰相に指名し、ビスマルク、ローン、大モルトケの3人の逸材を得てドイツ統一戦争に取り掛かる。

普墺戦争でプロイセンが圧勝した結果、ドイツ諸邦の主導権を掌握するとともに、ドイツ人国家の中でライバルであったハプスブルク帝国は求心力を失った。

プロイセンが普墺戦争で参謀本部に指揮系統を一本化することができたのは、鉄道と電信というテクノロジーの発達によるところが大きい。大モルトケは「新規の鉄道開発はその全てが軍事上の有利に繋がる国防のためには新たに洋裁を建設するより、数百万を費やして我が国の鉄道を完成させるほうが遥かに有利である」と主張して、参謀本部内に鉄道専門の部署を新設した。また、電信舞台を設置して各野戦軍に同行させ、プロイセン軍は電線を敷設しながら進撃した。

電信は戦闘中もさることながら、後方の兵員の動員時にも威力を発揮した。プロイセンは国民皆兵の一般兵役義務のシステムの中で、電報(電信)を用いて、各地方に分散している予備役兵に速やかに動員通知を送った。その上で、予め各地方で準備していた制服や装備品を予備役兵に配給して完全装備の兵士に仕上げ、そのまま鉄道で戦地に送り届け、速やかに正規軍を補充できるシステムを確立した。

普仏戦争

プロイセンは普墺戦争での勝利によって、ハプスブルク帝国からドイツ連邦諸国のリーダーシップを奪取したが、宰相ビスマルクはバイエルンなど、南ドイツの諸邦を含むドイツの統一までは、もう一段階、民族的統一のプロセスが必要と考えた。そこにはドイツの民族意識を高揚させる「外敵」が必要で、その外敵とはナポレオンによる侵攻以来の恨みがあるフランスだった。

普仏戦争は7月19日に開戦、9月2日になると、早くもセダン要塞に籠るフランス元首の皇帝ナポレオン三世は10万の将兵とともに降伏した。プロイセン軍を中心とするドイツ連合軍は、その後も大きな抵抗にあうこともなく首都を目指して侵攻し、9月13日には早々とパリを包囲した。年が明けて1月18日、ドイツ連合軍によるパリ包囲下のベルサイユ宮殿において、プロイセン王はバイエルン公国など諸邦を併せた統一ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム一世として即位した。これ以降、ドイツ建国式典の行われたベルサイユ宮殿の鏡の間は、フランス人にとって屈辱の場所となった。

動員システム

ドイツの勝因は、ビスマルクによる卓越した外交と高性能な大砲、国民皆兵制度と連携した鉄道による動員システムであった。

プロイセンでは国力以上の戦力を維持するために、厳格な国民皆兵制を採用して、平時の財政負担が少ない予備役兵を多く確保していた。鉄道と電信によるっ効率的なロジスティクスが、全国に分散して生活する予備役兵の戦時の集中有効活用を可能にした。

現代の鉄道路線図にもその名残があるが、フランスの鉄道は中央集権国家の特質として、全てがパリに向かっている。このため軍隊をドイツ国境に向かわせるには各地方からやってくる招集兵を一度パリに集める必要があった。一方、諸邦に分かれて鉄道が発達したドイツでは現役兵、予備役兵の動員の起点となる諸侯の連隊本部(諸侯の首都)を経由する形で、東西南北のグリッド状に路線が発達していた。特に対フランス戦を想定して6本の鉄道が国境に向けて整備され、参謀本部では動員と侵攻用に兵員、弾薬、馬匹、糧秣輸送などの詳細なダイヤが組まれた。

開戦時に国境に配置した兵力は予備役兵を効率的に動員できたドイツ軍48万人に対してフランスは現役兵中中心の20万人。ひとたびドイツ軍がフランス領に入り鉄道や道路を支配すると、今度はどの路線も自動的にパリに向かって進軍することになった。

国民国家意識の醸成

ドイツ統一戦争の勝因の一つに、懲役制度と連携したドイツ参謀本部の鉄道による動員システムがあった。ここでは懲役制度や、それと深く関係した国民の教育や識字率の向上、またその結果国民が読むことになった新聞ななどのメディアは大酒家する過程で国民にどの様な影響を与えたのかを述べる。

徴兵制度 〜国民皆兵〜

近代的な徴兵制度は18世紀終盤のフランス革命から始まった。周辺諸国は自国への影響を恐れて干渉戦争を仕掛けたが、フランス革命政府はこれを国家的危機と捉えて、各階層の国民から平等に徴兵を行う国家総動員令を発令した。当時のフランスは若年層の人口増加に加えて、凶作と不況にあえいでいたので、徴兵によって食にありつける無職の若者も多かったらしい。

徴兵によって100万人にも達したフランスの圧倒的な戦力は、王家のためではなく、自分たちの自由とフランスのために戦うというスローガンの下、今で言う国民国家意識に目覚めた軍隊であった。

しかし国民皆兵の問題点は軍隊維持のためのコストだった。それぞれの職場を離れた兵士は国内経済に貢献する生産活動を止める一方で、糧食や給与は国家が支払わなければならない。国家財政の観点から平時に維持できる陸軍兵力の規模は自ずと制限された。

軍事国家のイメージがつい良い19世紀のプロイセンにおいても実際の徴兵率はせいぜい20%程度だった。徴兵対象者5人のうち1人が採用されるレベル。しかしこれでは大きな兵力を持てない。これを克服するために考え出されたのが予備役の制度だった。

兵力維持とコストの問題から感が出された、現役3年(兵舎で合宿し訓練を受ける)→予備役4年(社会に出ても定期的に訓練を受けていつでも徴兵に応じられる待機する)→後備役5年(予備役のさらにバックアップ)の制度では、戦闘技術を習得する現役期間は3年と短いものの、毎年採用できる人数を多くすることができた。同じ予算の下でも予備役、後備役を合算した潜在的な訓練済みの兵隊の延べ人数は12年分という年齢層を確保することができた。こうした条件下にプロイセン参謀本部の鉄道を利用した巧みな動員方法が加わり、緒戦における兵力にフランスに対して大差をつけたことが、普仏戦争におけるプロイセン勝利の大きな要因だった。

国民の軍隊

普仏戦争後、軍隊経験者が予備役となり、市民社会に戻って地元の人々に軍隊での体験を伝えるようになった。戦役などを通じて体験を共有する者たちが増えると、国民の国事への参加意識が高まった。

軍隊はスポーツなどにおけるナショナル・チームのような存在になり、悲惨なん世界大戦を経験するまで、大衆やそれに支えられたメディアはナショナル・チームへの応援を煽る好機的な存在だった。

こうした国民意識と国家が結合したものが国民国家という考え方である。国民国家とは英語でNationstateであり、「ネーション」とは、共通の言語、文化、宗教、歴史、晋wな、アイデンティティなど、あるいは「運命を共有している感覚」などの組み合わせを持つ人々の集団である。ステートとは主権国家のことで、その国家以上の権威を持つ主体が存在しないことを意味する。

徴兵制は国民国家の形成に一役かうとともに、国家は兵士の質=国民の質を向上させるために教育(識字率)いも配慮するようになった。

識字率と軍隊

軍隊が組織化されると末端においても記録などの書類関係の仕事が多くなり、兵器の取り扱いや地理的な位置の把握、簡単な演算など文字を読む能力が必要となり始めた。

1814年にフラン軍に倣い徴兵制を実施したプロイセンでは、兵役を学校教育の仕上げ段階と位置付けた。そのため、兵役の前段階である初等教育を世界で初めて義務教育とした。1850年前後のプロイセンの識字率は80%になった。100%ではないのは、国の厚生人種がドイツ人だけではないから。

後に第一次世界大戦勃発の直接のきっかけとなるオーストリア皇太子暗殺事件の実行犯は、文字が読めたからこそ民族主義者のテロリストとなたった。識字率音上昇は国民国家意識、民族主義、軍隊の強さも規定したが、当時に自由思想や社会主義思想の普及にも重要な役割を果たした。

識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験

江戸時代の社会システムや寺子屋の普及などにより、日本は昔から識字率が高かった。本稿は日本の識字能力と識字率の推移を推測するためにいくつかの歴史的資料を検討している。

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メディア 〜新聞の役割〜

プロイセン王国の宰相ビスマルクは、普仏戦争に際して、戦争準備を万端に整えた上で、フランスによる外交上の非礼を演出して、新聞を通じて仏に対するドイツ民族の敵愾心を煽った。政治が新聞を利用した。

フランスの新聞が売らんがためにドイツに対抗して大衆を煽りだすと、その翌時にはパリで「ドイツを倒せ」と要求する大規模なデモにまで発展した。熱狂する大衆に流されて挙国一致体制が成立し、ドイツに対する宣戦布告へと一気に走った。フランスは大衆と一体化した新聞が主体となり、政治と外交を動かした。

当時の政治に関する国民の情報源は新聞であり、有権者は国民的な合意形成の場を新聞に求めるようになった。

新聞は勧善懲悪的な単純明快な論理を優先した記事を書いて大衆を煽り、大衆は小難しい理屈や細部よりも、そのわかりやすさを喜んだ。政府は階級闘争など国内を分離するような事件が起こると、新聞世論を操作して海外に敵を作った。国民の怒りの矛先を変えて国民の不満を解消する手段は現代の国際政治でもよく見かける。

こうした過程で、同じ地域に住み、同じ言語の新聞を読む民衆によって、国民国家としての意識が醸成された。国旗制度や国歌斉唱、国民記念日の制度、国家としての伝統は、古来からのものではなく、この時代に創出されたものが多い。政治家や軍人の中には、議会における艦隊建設や師団増加など軍事費の確保を目的に、仮想敵国に対する敵愾心を煽り、意図的に大衆の単純な愛国心を利用する者も現れるようになった。やがて、民衆の単純で明快な怒りや、他国を卑しむ真理が新聞を通じて世論として形成されるようになると、今度は逆に作られた世論が政治や外交を動かしていくようになった。

識字率の上昇とともに大衆が本や新聞を読むようになり、都市化による人工集中や鉄道の発達が印刷物の配送エリアを広げると、新聞の読者層は大きく広がった。また石油が採掘されたことによる安価な石油ランプの普及やエジソンによる電球の発明は夜の闇を明るくし、昼間働いている労働者たちの読書時間の確保に繋がった。夕刊紙の普及もこれに連動している。

印刷物の入った津に数日を要した時代には、日刊紙の需要はコーヒーハウスなど印刷所に大会狭いエリアだけだったが、鉄道による配達可能地域の拡大とともに日刊新聞紙のニーズが高まっていった。

兵器産業の国際化と戦艦

各国の国民国家意識が醸成されていく一方で、蒸気船や鉄道などによる輸送手段の発達や金本位制による為替リスクの減少は、四歩にどうや貿易を通じてグローバリゼーションを進展させた。兵器産業も国際化され、競争にさらされた技術革新は「戦艦」という特別な軍艦を生み出した。

金本位制

ナボレオン戦争中のイギリスは、金貨と紙幣との交換を停止していたが、戦争が終わると、基準となるソブリン金貨の純度を決めて紙幣との交換を法律化した。この貨幣法では、1)王立造幣局は決められた価格で金を無制限に売買すること、2)イングランド銀行はいつでも紙幣と金貨の交換に応じること、3)イギリスは金の輸出入には制限をかけないこと、が決められた。これが法制上の金本位制の始まり。

1871年には普仏戦争での賠償金をもとにドイツが金本位制を採用しイギリスに同調すると、フランスを始め各国はこれに追随した。当時、金本位制の採用とは先進国の証であり、「承認の印章」であると考えらえるようになった。1897年にはロシア、日清戦争でのポンド建ての賠償金を元手に日本が金本位制を採用し、両国は事実上先進国の仲間入りを果たした。この時の金本位制の採用がなければ日本の日露戦争時の資金調達はきっと不可能だった。

先進各国が金本位制を採用し、金の勝ちに基づいて通貨価値を決めるようになると、各国通貨間の決済において為替変動リスクがなくなり貿易や資本取引がしやすくなった。

銃の大量生産

火縄銃は火薬に着火してその爆発力で弾を発射する構造である。これは1発撃つたびに火薬と弾の装填に手間がかかるので、どんなに熟練した兵士でも1分間に3発の発射が限界だったらしい。ナポレオン戦争も、火縄銃同士の戦いで、3列ほどの横隊の歩兵が整列し、隠れもせずに向かい合って撃ち合う戦い方が主流だった。

現在に至る銃の進化には、構造上、2つの大きな技術的な革新があった。それは方針内部の「旋条」と弾の装填を手元で行う「後装」で、これは口径の大きい大砲でも同じ。

小銃における「旋条」とはマスケット銃の銃身の内側に旋盤によって渦巻状に溝を刻み、錐の実型の弾丸を回転させながら発射する仕組みのこと。弾丸に回転がかけられて直進性と飛距離が伸びる仕組み。フランスのミニエー大尉が考案したので、当初はミニエー銃と呼ばれていた。従来型のマスケット銃は射程距離は200メートルだったが、ミニエー銃の射程距離は1キロだった。

もう一つの確信が「後装」。これは手元で弾を込める方法で「元込め式」とも呼ばれた。反対は火縄銃のような「前装」で、銃身の先から弾を入れる方法だった。

プロイセン軍は、この後装式でかつ旋条されたドライゼ銃を開発して、1840年には全軍医装備するために生産を開始した。ドライゼ銃は弾丸と紙の薬莢が一体化しており、兵士は自分の身体を敵にさらすことなく、伏せた状態や物陰に隠れたまま手元で速やかに弾丸を装填できた。横隊を組んで整然と前進してくる的に対して物陰から射撃できたたために、ドイツ統一戦争においてプロイセン軍はこの銃で敵を圧倒した。

この銃の技術が発達し、後に機関銃など銃の自動化につながっていく。

戦艦の登場 〜ロイヤル・ソブリン級戦艦〜

1840年のアヘン戦争では小型蒸気軍艦の機動力が認識され、1853年の露土戦争シノップの開戦では炸裂弾の登場によって伝統的な木造戦列艦の時代が終わった。こうして1860年代以降は、鉄製軍艦の時代となるが、蒸気機関の信頼性はまだ低く、燃費の問題も合って、しばらくは風力による帆走を捨てきれないでいた。

1980年代に入ると、上記期間は箱型の煙管式ボイラーから高圧蒸気に耐える水管式ボイラーに進化し、八世察せた蒸気を効率良く使い回す錬成期間が実用化された。すると、出力と燃費効率が上昇して、品質の向上から信頼性も増した。また銑鉄を鋼にするベッセマー法などの新しい製鋼技術の進歩や、新型火薬の発明などにより大砲が大型化、砲身が長くなりその重量が増してきた。こくなると艦に搭載できる砲の数も制限されて、従来の軍艦のように舷側に一列に並べるようなレイアウトが物理的にとりにくくなり、限られた数の大砲を主砲として艦中央部に配置するようになった。主砲が艦の中心に搭載された旋回式の砲塔になると、帆走用のマストも邪魔になり、信頼できる蒸気機関とともに軍艦の姿が大きく変わった。

帆走用のマストが取り除かれ、大口径の主砲とそれに耐えうる装甲を持つ艦種こそが軍艦(Battleship)と呼ばれる新しいクラス(基準)とになった。

日本ではどんな軍艦も「戦艦」と言う習慣があるが、現代の各国海軍では、中国も含めて、戦艦を現役の実染料として保有している国はない。19世紀末の「ロイヤル・オヴリン」からベトナム戦争までの限定された期間の、当時の国際政治に対して大きな影響力を及ぼした兵器が軍艦である。軽巡洋艦や武装艦は軍艦ではない。

世界から見た日露戦争

坂の上の雲で有名な日露戦争は、後の第一次世界大戦に大きな影響を与えらている。アカデミックな領域では「第0次世界大戦」とまで分類されていたりする。

ヴィルヘルム二世の即位

普仏戦争を経て統治されたドイツ帝国は、プロイセンが主導権を持ちつつも25の邦国からなる連邦制の立憲君主国家であった。普通選挙による帝国議会を持ち、議会には政府提案の法律案を審議して予算案を承認する権限があった。

統一後のドイツでは人口増加や経済成長、工業化による急速な都市化が進んだ。すると劣悪な都市環境で働く賃金労働者が大量に発生して、こうした層が社会主義勢力の基盤となった。

ビスマルクは民法法典の統一や金本位制の採用、関税撤廃など当時の欧州の経済思潮であった自由主義を中心に経済発展を促したが、ひとたび政治的な流れが変わると脳工業製品を守るために保護関税を採用するなど、柔軟な政策対応をした。社会主義勢力に圧力をかける一方で疾病・労災・老齢など社会保険制度を充実させて大衆を懐柔する。これらは被保険者自らも基金に拠出する形態で、先進的な制度設計だった。

普仏戦争後、ヴィルヘルム一世が統治して宰相ビスマルクが国家運営を託されている間のドイツは、国力増強に力を注ぎ、拡張的な外交政策は採らず、国際関係における現状変更の野心は見せなかった。それでもドイツは人口増加と鉄鉱や電機、化学など、当時の先端分野のおける工業化とともに、国際社会における存在感を増していった。戦争などせずともやがてはヨーロッパでの経済覇権を握っていたと思われている。ドイツの資本家帯もそう考えていたらしい。

1888年、29歳の若いヴィルヘルム二世が即位した。彼は恒例でそりの合わない宰相ビスマルクを退陣させると、ドイツの外交政策はヴィルヘルム二世の意思を体現した帝国主義的で拡張的なものに変わっていった。

1880年代ごろからドイツでは社会民主党が議席を増やした。保守政党が次第に勢力を失い、不安定化する国内政治の中で、皇帝がイニシアティブを発揮して、なおかつ国民の合意を得たのが愛国心に訴える「世界政策」とも呼ばれる体外膨張制作だった。

ビスマルクは、将来のドイツが東西両面での戦争を避けられるように、またフランスを孤立させるためにロシアとの間に独露再保障条約を締結していた。ところが、1890年になって、バルカン半島においてロシアと、ドイツの盟友であるハプスブルクの対りうが鮮明化するとヴィルヘルム二世はこれを理由に、ロシア側が希望したにも関わらず条約の期限延長を更新しなかった。

インフラ投資の資金不足に悩むロシアは、翌年から軍事的観点に加えて外資の導入も見込めるフランスと公称を開始して、1894年には軍事同盟である露仏同盟を締結してしまった。ドイツにとってフランスとロシアという東西両面の敵の出現は、本来一番避けなければならい事態で、ヴィルヘルム二世には予想外のことだった。

一方でロシアはフランスの資本が導入されることによって、鉄道などのインフラ整備が進展した。1891年のシベリア鉄道着工はその一環。ロシアでは、ドイツ製に替わってフランスの鉄鋼や機械、兵器が輸入され、ドイツとは経済的にも次第に疎遠になっていく。ドイツ国内では、軍事的にロシアとフランスに包囲されているという危機意識が醸成されていった。ドイツはハプスブルク、イタリアとの間に三国同盟を結んでいたので、ヨーロッパ世界はドイツを中心とする三国同盟、露仏同盟、「栄光ある孤立」を守るイギリスという、3局の勢力構造になった。

シーパワー

この頃、アメリカの海軍大学好調であるマハン大佐が「海上権力史論」を出版した。マハンは、商業圏の確保は国家衰退の要諦であり、国旗を代表する海軍力こそがこれを可能にすると説いた。

シーパワーの確保には大艦隊の建設が必要。世界中の野心的な皇帝、政治家や海軍軍人たちは、大海軍を整備して海を制することこそが、貿易を制し経済を発展させる祖国繁栄への途であると、自分たちに都合よく理解した。

世界の指導者の中でも、等にこの本に激しく反応したのが「世界政策」を標榜するドイツ皇帝ヴィルヘルム二世だと言われている。彼はこの本を枕元に置き、毎晩のように愛読していたらしい。元はと言えばヴィルヘルム二世は大英帝国ヴィクトリア女王の孫であり、大艦隊の保有は子供の頃からの夢だった。

1892年にイギリス海軍が戦艦「ロイヤル・ソヴリン」級を就役させ、従来の軍艦とは違う圧倒的な威力を持つ近代的戦艦の原型を示すと、各国は、これをモデルに戦艦艦隊を建造するようになった。

ヴィルヘルム二世は1897年に大艦隊の保有を主張するテルピッツ少将を海軍対人に抜擢し、本格的にドイツ艦隊の建設に着手した。ドイツにとってイギリス海軍は規範であり仮想敵国だもあった。

イギリスはいつかドイツに追いつかれるかもしれないという「恐怖」が芽生えていった。

パスク・ブリタニカ

イギリス海軍の使命は世界に広がる大英帝国の植民地を守り、翻刻とのシーレーンを確保することにあった。またアヘン戦争やクリミア戦争、ボーア戦争などのように、遠隔地の紛争地に他国の干渉を受けることなくピンポイントに兵力と兵站を送り込める海上輸送力の維持だった。これこそが広大な植民地を抱えるパスク・ブリタニカを支えた海上覇権だった。

しかしイギリスが切り開いた自由貿易の時代は、結果として欧米各国の経済成長を促し、技術的なキャッチアップを赦すことになった。島国故に海軍を中心に据えて、大きな陸軍を持たなかったイギリスは、次第にヨーロッパの中で相対的な影響力を低下させ始めた。

大西洋においては、イギリス手ゃスペインに対して同情的になったにも関わらず米国への配慮から1898年の米西戦争への干渉を控え、1903年のアラスカとカナダのビリティッシュ・コロンビア州との境界線策定においては米国に対して妥協を見せた。もはやイギリス海軍は、北大西洋においてアメリカ海軍に対抗してカナダを守ることは困難だったと判断した。

極東方面では、1894年の日清戦争後に三国干渉によってドイツが青島に進出し、ロシアが旅順を拠点に太平洋艦隊を充実させ始めた。ロシアによるユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の開通は、ロシアが極東に海軍拠点を持ち、ヨーロッパから陸上経由の補給が可能で、極東において展開可能な陸軍の大部隊を持つことを意味した。

そこでイギリスは1902年にそれまでの外交方針である「栄光ある孤立」を捨て、海軍力と同様に強力な陸軍兵力を持ち始めた日本との間に、日英同盟を結んだ。新興国である日本は旅順に進出したロシアを仮想敵国として、1896年に戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻の艦隊建設を決めて、戦艦群をイギリスに発注していた。

地中海では露仏同盟が締結された結果、イギリス海軍は両国の合同艦隊との不足の対決を避けるためフランスに接近し、日露戦争が始まった1904年には英仏協商を結んだ。こうしてイギリスは限られた資源の中でドイツとの建艦競争に集中できるようになった。

日露戦争と鉄道

1890年にドイツがそれまでの独露再保障条約の更新を拒絶すると、ロシアは、豊富な資本料を持つフランとの間で露仏同盟の交渉を始めた。この交渉はやがて軍事同盟として1894年に成立しますが、その交渉過程での成果の一つがフランス資本の協力による1891年のシベリア鉄道の着工でした。

シベリア鉄道が、欧州からロシア領内を通過してハバロフスクを経て、そのまま南へウラジオストックへと至るならば、他国が異議を挟む余地はなかった。

ところがロシアが近道として清国領内のハルビンを経由して不凍港である旅順要塞に鉄道を直結するのであれば話は別です。これはロシアという協力なランドパワーによる清国の進出を意味する。満州の権益がロシアに独占され、さらに列強が持つ既存の清国のり券が犯される恐れがある。また不凍港である旅順要塞への鉄道の延伸は、ロシア艦隊の太平洋への海軍拠点構築を意味した。

そして、その懸念を裏付けるかのように、ロシアは1900年の義和団事件を機に東清鉄道南満州支線沿い陸軍部隊を常駐させ、事件後も満州から兵を引こうとしなかった。こうしてロシアが万種を実質的に軍事占領するに及び、日本は防衛上の、英米は中国利権に対する脅威として捉えた。

1904年、日露戦争開戦時のシベリア鉄道は全線開通直前の状態だった。日本陸軍としては、ロシア群の欧州からの兵站線が完成して、大量の兵員や物資が極東に輸送される前に、ロシア軍を朝鮮半島から駆逐する必要があると考えた。日本陸軍は韓国領内のロシア軍を簡単に掃討すると、旅順と遼陽の間に上陸して旅順要塞へ至る鉄道線を遮断することによって要塞を孤立させた。

戦艦ドレッドノート

マハンの影響もあって、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、日本なども競って海軍を拡張して戦艦を建造したので、イギリスはかつての海上覇権を失いつつあった。そこでイギリスは戦艦の数だけを競う建艦競争に見切りをつけて、イギリスの技術的優位を活かすべく画期的な新型戦艦の建造を企画する。これが後に全ての戦艦のベンチマークとなる戦艦「ドレッドノート」だった。

世界初の近代的戦艦同士による日露戦争の海戦は、格好が国家予算をかけて艦隊を建設中だったがゆえに世界中の耳目を集めた。特にイギリス海軍にとって、日本の保有するイギリス製戦艦とアメリカ、フランス、ロシア製の戦艦との対決だったので、砲撃の効果、被弾状況やその他細かいデータ収集の絶好のチャンスだった。

日露戦争の調査の結果、主砲照準の観点から「多数の同一経口の主砲による一斉射撃が効果あり」という結論が導かれる。砲弾の着弾は砲の個体差、火薬の量や品質、風の影響などによってバラつくので、同性能の大砲を数多く揃えて同条件で多数の弾丸を発射すれば命中弾が増える。これが破壊力の大きい大型の大砲をできる限り多く積むという大艦巨砲主義の始まりであり、従来からのフィッシャー提督の信念でもあった。

続く1905年5月末の日本海海戦では日本艦隊がバルチック艦隊を撃破するという快挙を遂げて、格好の海軍関係者のみならず世界中の大衆を、まるで自国の海軍が勝利したかのように魅了した。

1905年10月、年初から新型戦艦建造委員会を立ち上げていたフィッシャー提督はこれらの戦訓を取り入れて新型戦艦「ドレッドノート」を起工した。起工というのは工事を開始したという意味で、就役は1906年12月と、わずか1年2ヶ月という短期間での完成は、イギリスの卓越した工業技術と建艦能力の高さを世界に向けて証明することになった。

ドレッドノートの革新性は主砲配置だけではなく、エンジンもそれまでの退席の大きなレシプロ蒸気エンジンから、コンパクトで高出力なタービン・エンジンへと進化した。これにより機関室の天井が低くなり防御能力が増すとともに、従来の戦艦に比べて3ノット速い21ノットまで出せるようになった。

ドレッドノートは、その後の世界の戦艦のベンチマークとなり、海軍関係者は同クラスの戦艦を、所属国を問わず「弩(ド)級戦艦」と呼ぶようになった。そして、それまでの近代的戦艦を「前弩級戦艦」と呼んで、陳腐化した戦力として明確に区別す量になった。映画の宣伝なので「超ド級作品」と呼ぶのはこの優れたドレッドノートをさらに超越する「超弩級戦艦」が由来。

世界中が予算を振り絞って、競って建造していた前弩級戦艦は建造中のものも含めて、この時全てが陳腐化された。速度が遅く、1隻あたりの主砲が少ない前弩級戦艦では弩級戦艦に対する抑止力にはならなかった。各国はもう一度ゼロから海軍予算を積み増して、新たな艦隊を建設する必要に迫られた。

1906年のドレッドノートの登場によって、主要各国はそれまで建設してきた既存の艦隊が陳腐化したために、艦隊建設を根本からやり直さなければならなかった。度の国も予算は議会で審議される。普通選挙が普及してきた時代に予算獲得には大衆の合意が必要だった。

イギリスには民間の海軍協会という圧力団体があり、ドイツにはクルップ社やエッセンの兵器会社たちが設立した同様の教会が存在して、大衆に対して防衛上の危機感を執拗に煽っていた。どちらも大海軍主義者と呼ばれる一群の海軍士官と政治家、そして新聞を売りたいジャーナリストが加わり世論を動かしていた。こうして実際の兵器としての戦艦そのものの脅威よりも、効果な戦艦群の建造予算獲得のために演出された隣国に対する脅威が、戦争に至る国民の憎悪や恐怖を育んでいった。

ファショダ事件

1875年にスエズ運河の権益を確保したイギリスは、1882年に軍事介入によってエジプトを事実上の保護国にした。その後、ナイル川沿いに鉄道を敷設しつつ南下して白ナイルの水源であるヴィクトリア湖を目指したが、最終的な目的は、アフリカ最南端のケープ植民地(現南アフリカ)と、大陸を南北に縦断する鉄道を敷設することだった。鉄道の軌間は狭軌で統一していた。

一方フランスは、イギリスに負けじと、紅海沿岸に仏領ソマリランド(現ジブチ)を確保して、大陸の反対側、大西洋岸のダカール(現セネガル)から東西の連絡を接続しようとていた。

この2つの大運動が交錯したのが1898年のファショダ(現南スーダン)事件。フランス軍がナイル川の源流を扼する要衝ファショダを先に占領して、遅れて北から登場したイギリス軍と対峙した。

対峙した両軍は、英仏関係に深慮して、戦うかどうかは是非お互いに翻刻に問合せようではないかと提案して、偉大な探検隊であるフランス軍舞台の命と名誉を守った。

ところがこの両軍接触のニュースは、イギリス・フランス両国のメディアが大げさに取り上げて、あたかも、南北に進むイギリスと東西に進むフランスがアフリカ中央部で激突したかのように報道された。しかしこの時のフランスは、ユダヤ人将校ドレフュス大尉に対する冤罪スパイ事件、すなわちユダヤ人差別問題で、軍の腐敗を巡って国論が二分されていたので、イギリスと事を構える力など残っていなかった。

しかし長年ヨーロッパの覇権を巡って対立してきた英仏両国はここに至り和解した。キッチナーの深慮は、両国の国内政治おいて影響力を持つビジネスマンや銀行家に対する配慮であったに違いない。彼らは、戦争は商売に悪影響を及ぼすと考えていた。

この事件以降、イギリスとフランスは互いに融和策をとるようになった。ドイツという共通の敵が現れたことと、なによりも、もはや地球上には両国が争って確保すべき場所がなくなってしまった。

タンジール事件

1904年2月に日露戦争が勃発すると、日英同盟を結ぶイギリスと、露仏同盟を結ぶフランスの間で、偶発的に戦争が勃発する可能性が増した。それを避けるためもあって、両国は開戦間もない4月に英仏協商を結んだ。この時に互いに植民地に関する利権を調整して、エジプトでのイギリス利権の承認と交換にフランスはモロッコでの利権を認められた。

日露戦争の最中の1905年3月、ロシア軍が奉天で日本軍に惨敗すると同盟国フランスのドイツに対する対場は弱くなった。ドイツはこの事態を前にロシアは登用に釘付けで、イギリスはボーア戦争の影響で疲弊しており、フランスは戦争準備が整っていないと考えた。そこでヴィルヘルム二世はフランスの抵抗度合いをテストする意味で、いわば威力偵察としてジブラルタル海峡に面した要衝であるモロッコのタンジール港を突然訪ねた。皇帝はここで英仏協商を牽制し、フランスの利権を否定する発言をしたためにヨーロッパ中に緊張が走った。これがタンジール事件である。

1907年になると、日露戦争と革命に伴う国内問題で疲弊したロシアがイギリスと露英協商を結び、ロシア、フランス、イギリスの三国協商体制となる。一方でドイツは自分たちの三国同盟があるものの、英仏露によって包囲されていると強く意識することになった。

20世紀の新しい産業

石油はアメリカのドレーク大佐がペンシルベニア州タイタスビルで石油を掘り当てた1859年がその始まりとされている。「大佐」という称号は、アメリカの物語によく登場するが、軍隊の正式の階級ではなく、ケンタッキーフライドチキンのカーネル(大佐)・サンダースのように州の名誉称号であったり、箔付けのあだ名のようなものだった。ドレーク大佐と呼べば聞こえも良く、知らない土地で仕事がやりやすかった。

当初の石油の用途は効果な鯨油の代わりで、主に照明用の灯油に使われた。1853年のペリー艦隊来航は日本に捕鯨船の補給基地が欲しかったからだと教えられた。実はその直後に効果な鯨油は灯油に取って代わられ、北太平洋では鯨油を採取する捕鯨船の採算が合わなくなっていった。1862年の灯油の生産量はすでに50万トンに達し、各家庭の石油ランプを灯して庶民階級の夜の読書を可能にしていた。

石炭から石油へ

戦艦ドレッドノートは、かつてない強力な主砲配置とともに、主機関を従来の蒸気レスプロ・エンジンから蒸気タービンに転換して高速化したことが画期的だった。

蒸気レシプロ・エンジンとはボイラーで発生させた蒸気をシリンダーに送り込み、ピストンを上下させ、その上下運動を、クランク軸を介して回転運動に転換しスクリューを回す仕組み。レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」の出航直後のシーンでは、回転数を上げる蒸気レシプロ・エンジンが精密に描写されている。一方、タービン・エンジンでは回転軸を中心に放射線状に並べられた無数の翼(ブレード)に高圧蒸気をあてて直接回転運動をさせるので船は高速を出すことができる。

実は1912年就役の「タイタニック号」のエンジンは、いかにも過度期の船らしく2基のレシプロ・エンジンに1基のタービン・エンジンという両方備えた動力構成だった。しかしレシプロは巨大なピストンが上下する様子が豪快で絵になる一方で、タービンはカバーをつけてしまうと地味すぎて映画には登場させてもらえなかった。

レシプロ・エンジンからタービン・エンジンへの転換は高圧蒸気を要求し、ボイラーの性能の向上を促した。性能では石油ボイラーのほうが上。

しかし当時のイギリスは国内に油田がなく、したがって海軍への燃料供給を確実なものにするため、制海権下に油田と輸送ルートを持つ必要ができた。そこでイギリス海軍が目をつけた石油生産の根拠地が中東だった。これ以降、中東はイギリス海軍の存在、ひいてはイギリスという覇権国家にとって必要不可欠な地域となった。

内燃機関

19世紀後半、石油は鯨油に代わる家庭用ランプの燃料として広く普及したが、すぐにライバルが登場した。

ひとたび電線が工場や家庭に引かれれば、ユーザーはランプよりも、スイッチひとつで簡単に点灯・消灯ができて、火事の心配がない電球を選んだ。

電球が普及していく一方、今度は石油の需要を革命的に増大させる発明があった。ガソリン・エンジンやディーゼル・エンジンと呼ばれる内燃機関の発明である。

蒸気機関は燃料をボイラーで燃やして水を沸騰させ蒸気を発生させる。そしてその蒸気をシリンダーに圧入することで動力を得ていた。シリンダーの外で燃料を燃やすから外燃機関と呼ぶ。原子力発電も炉内で蒸気を発生させて、その蒸気の力でタービンを回すから外燃機関である。

一方で内燃機関ではシリンダー内に気化した燃料を送り込み、これを燃焼(点火爆発)させてピストンを動かして動力を得る。

内燃機関は熱効率のロスが少なく、また蒸気機関のように重くて嵩張る大きなボイラーも、蒸気を発生させるための水タンクも必要ない。小型軽量ですぐに起動できるエンジンは小型船舶あるいは鉄道、自動車、航空機にとって欠かせない動力となった。

ガスを使う内燃機関も試されて、ガソリン・エンジンの先駆となったが、そうした試行錯誤の時代が長い間続いたので、自動車の発明者を特定する事は困難なのです。

各国で自動車産業が盛り上がる中、産業革命の先進国イギリスは、1865年に出された赤旗法(自動車に対して厳しく速度を制限して、かつ赤旗を持った人の先導を義務付けた馬車屋という既得権益者を守る法律)が障害となって、1896年にこの法律が失効するまで自動車の開発は活発に行われなかった。そのためイギリスは鉄道では世界をリードしながらも、自動車の生産についてはドイツやフランスに対して10年ほど遅れを取ることになった。現代の自動車会社の世界シェアと合わせて考えると興味深い史実である。

ディーゼルエンジン

20世紀初頭時点でのデータは、外燃機関である蒸気機関の熱効率(燃焼による熱を力に変える効率)は10%、これに対して内燃機関ではガソリンが15%、経由や重油を使うディーゼルエンジンは26%もあった。現代ではこれらの数値も改善されて、ガソリンが32%、ディーゼルは46%。

ディーゼルエンジンでは空気を圧縮して、そこに経由や重油を噴射して着火するので、高圧に耐える仕組みが必要になる。精密な機械工作が要求されたのでガソリンエンジンに比べて実用化が遅れた。また高圧縮のせいで振動騒音が大きくなるというデメリットもある。ディーゼル自家用車がガラガラと少しうるさく感じるのはそのためである。

しかし乗り心地をを追求する自家用車ではなく、軍用としてのディーゼルエンジンの最大のメリットは燃費性能とともに燃料の引火点が低いことだった。戦闘中に被弾しても爆発しにくいのである。

また1904年には潜水艦であるUボート用のエンジンとして初めてドイツ海軍に引き渡されている。潜水艦は英語ではサブマリンだが、ドイツ海軍では「アンダーシーの船」の略称であるUボートと呼ばれた。

速度が要求される軍艦の世界ではディーゼルエンジン普及後も、最新のガス・タービンも含めて戦艦「ドレッドノート」由来のタービン・エンジンが主力です。現在でも海上自衛隊では速度が重要な戦闘艦はタービン、補給艦などには経済的なディーゼルエンジンが装備されている。

電動機(電気モーター)

潜水艦が実戦で初めて戦果をあげたのは南北戦争時の南軍の「H・L・ハンレイ号」である。動力は人力で乗組員9名中8名が遊園地にあるペダルボートのようなペダルを漕いで艦を推進した。当時すでに蒸気機関はあったが、酸素消費量の多いボイラーを密閉して、水中を潜航する潜水艦に持ち込むことは不可能だった。

また酸素補給ができず、排気ガスを放出できない水中で、ガソリンやディーゼル・エンジンを使用することもできなかった。そうしたわけで水中の潜水艦の動力は排気用の煙突を持たない電動機の開発を待たなければならなかった。

1873年のウィーンの万国博覧会ではジーメンス社のゼノブ・グラムという人物がダイナモ発電機のデモを展示しようとしていた。蒸気機関でダイナモを回して電気をつくるところを見せようとした。

ところが2台あるダイナモを助手が間違えて配線したために蒸気機関に接続していなかった方のダイナモも同時に回転し始めた。これはどういう意味かというと、本来は発電用のダイナモであっても、逆に電気を通せば今度のは電動機として作動することが分かった。これが巷間伝えられるモーターの発明の瞬間だった。

潜水艦は水上航行の際にはディーゼルエンジンを回して航行しながら充電して、潜航時はバッテリーと電動機で推進する仕組みだった。

航空機の登場

ウィルバーとオービルの「ライト兄弟」は街の発明家だった。ライト兄弟は今でいうと手作り製造販売の自転車店を経営していた。ライト兄弟は職人技で自転車を製造しており、機体制作の基本的な技術を持っていた。

当時、エンジンは存在していたが、エンジンは空を飛ぶには重すぎた。飛行機に積むには、エンジンに要求される出力重量比(馬力/エンジン重量)が重要だった。したがってライト兄弟は自分たちでスペックに見合う軽くて馬力のあるエンジンを作らなければならなかった。

ライト兄弟はそれまでの風洞実験やグライダーによる実験、あるいは先達の研究成果から自分たちの飛行機の離陸に必要な速度を毎秒10メートルと正確に計算し、そのために必要なエンジンは重量が83キロ以下で最低でも8〜9馬力と見積もっていた。要するに彼らは大企業ではなかったが、先人たちの各種研究成果を伝統的職人芸と組み合わせた結果、飛行機を発明することができた。

1903年12月17日ノースカロライナ州キルデビルヒルズの砂丘でライトフライヤー号は12秒間で37mほど飛行した。これは日露戦争のまさに直前だった。

それから飛行機は発展し、第一次世界大戦前の1914年時点で、フランスは156機、イギリスは150機、ドイツは231機保有していた。これが終戦時の1918年11月にはフランスは3437機、イギリスは3800機、ドイツは2898機に達していた。飛行機は第一次世界大戦を通じて次世代の兵器として確立された。

第一次世界大戦勃発

日露戦争によってロシアが疲弊する中で、欧州各国の勢力バランスが微妙に変化し始めた。イギリスとフランス、ロシアが接近して、ドイツはハプスブルク、イタリアと三国同盟を結びながらも孤立感を高めていく。高まる国民国家意識の中で人種の坩堝であるバルカン半島を起点に、いよいよ戦争が始まる。

アガディール事件

当時ドイツで伸び盛りだった投資家ウォーバーグ商会は、個人商店ゆえに財務諸表の開示から免れ、豊富な資金を使って政府の秘密行動にしばしば参画していた。

ウォーバーグは政府の意向に沿ってドイツのモロッコへの進出機械を探り、1910年にハンブルグ・モロッコ教会を設立すると、今も現存する鉄鋼会社マンネスマンと組んでモロッコ・マンネスマンという子会社を作った。ただし実態はまだ何もなかった。

1911年5月、モロッコ現地部族の反乱鎮圧にフランスが出兵して首都フェズを占領すると、ドイツ外務省は条約違反だと避難して、これを機会にマンネスマンが進出予定の鉱山があるモロッコ南部を頂戴しようと画策した。「恫喝」すればフランスはいくばくかの利権をよこすだろうと考えたからであった。

外務省はウォーバーグに依頼して、モロッコの銅資源はドイツにとって軍艦を派遣して守らねばならぬほど「死活的な権益である」とでっちあげのレポートを書かせると、現地のドイツ人保護のために砲艦パンター号を派遣することにした。

実は、ドイツ外務省にはもうひとつの大事な仕事があった。モロッコ南部にはドイツ人が一人もいなかったので、荒れ狂う現地部族に殺されそうな、可哀想で保護すべきドイツ人もわざわざ派遣する必要があった。パンター号は7月1日にモロッコ南部のアガディールに進出するので、それまでにこの「殺されそうなドイツ人」も現地に到着しているように指示が出された。ドイツ外務省はドイツ人が現地で残虐行為にあっていうrとフランスを避難して軍艦派遣を正当化し、モロッコ南部の権益を確定しようとした。また対外強硬策を主張することが多いドイツの新聞各紙も、ありもしない架空の残虐行為を記事に仕立ててヒステリックに騒ぎ立てた。

ドイツの見え透いた行為に対してフランスの投資家がドイツ市場から資金を引き上げて、そのためにドイツで株式市場が暴落すると、ヨーロッパ中に戦争近しという興奮が広がった。この1911年7月に置きたアガディール事件は多くの歴史家が第一次世界大戦の端緒であると指摘している。

6年前のタンジール事件の頃のイギリスは、ボーア戦争での財務的影響を引きずっており、フランスと共に叩く余力はなく外交交渉に頼ったが、今回は具体的な戦争の準備に入った。

アインクライズング

この騒動は、11月に入って外交的に収束されたが、英仏独、どの国民にも不満を残し、それぞれのメディアや、これを機に軍備拡大を狙う右翼団体がナショナリズムを盛り上げて国民の間に敵愾心を醸成した。フランス国民はいつまでも普仏戦争の勝者としてふるまうドイツの恫喝に自尊心を傷つけられ、大国意識を持つドイツ国民は国際情勢の中で自身の地位が低下したと考えた。さらにイギリスがフランスに寄り添う態度にドイツは孤立して「包囲(アインクライズング)」されているという意識が強くなっていく。

ドイツ陸軍大増強ドイツ陸軍大増強

アガディール事件を契機に、格好は国民の支持を得て予算を投じて具体的な軍備の拡充を始めた。

フランスとロシアの関係も強化される。7月にはフランス首相ポアンカレがロシアを訪問し、貧弱なロシアの鉄道インフラに対して軍事目的用に50億フランの無利子借款を約束した。またロシアはこの時、独仏開戦時には2週間以内に背後からドイツを攻撃すると約束した。

11月には英仏両海軍が戦時の行動範囲の取り決めをした。ドイツと海戦した場合、フランス海軍は地中海に集中し、イギリス海軍は英仏海峡から北海に及ぶフランス北辺の防備を担当することになり、これで英仏協商は、事実上お軍事同盟になった。

もはやどの国の軍隊も近うちに戦争があるだろうと考え始めた。

オスマン帝国 〜欧州外交の調整弁〜

オスマンは拡大するロシアの南下に伴い、少しずつ領土を失いながら露土戦争と呼ばれる長い戦いを続けました。露土戦争は広義には17世紀末から19世紀末にかけてロシアとトルコの間で戦われた一連の戦争で、ギリシャのオスマンからの独立戦争(1821年)やクリミア戦争(1853年)もその一環である。

戦争はキリスト教対イスラム教のような単純な構図ではなく、クリミア戦争ではロシアの拡張を警戒したイギリスとフランスがオスマン側についてロシアと敵対したように、ロシアやハプスブルクを背後から牽制する勢力として、オスマンは列強の陣営にも加えられた。

オスマンは中央に税収が集中しない制度的な問題もあり、1875年には国家破産を宣言して国際的な発現量を低下させることになった。オスマンの領土はヨーロッパ外交の調整弁として切り取られた。

東方問題

ナポレオンが敗れ、1815年にヨーロッパの勢力均衡のためのウィーン会議が開催されて以降、普仏戦争を含むドイツ統一戦争こそあったが、ヨーロッパ全体を巻き込む大きな戦争は約1世紀の間途絶えた。しかしその一方でオスマン帝国の領土は露土戦争やバルカン戦争を通じてヨーロッパ外交の調整弁として切り取られ続けた。これをヨーロッパでは東の紛争問題として「東方問題」と呼んだ。

ヨーロッパがオスマン領のヨーロッパ部分を分前として切り売り可能な「分銅」のように取り去った後、バルカン戦争の後、ヨーロッパ外交はその先に大経典を模索し、分かち合える分銅を失ってしまった。

第一次世界大戦の起点となったサラエボ事件は、ハプスブルクのセルビアに対する宣戦布告を引き起こしたが、その実態は領土拡張を求める第三次バルカン戦争だったともいえる。しかしヨーロッパが調整弁としての分銅(オスマン領)を失った以上、それは調整不能な世界大戦に展開せざるを得なかった。

サラエボ事件: 宣戦布告

1914年6月28日、ハプスブルクに併合されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエボでハプスブルク皇太子がセルビア民族主義者によって暗殺された。これが第一次世界大戦の引き金となるサラエボ事件である。

ボスには・ヘルツェゴビナはもともとオスマンの領土だった。スラブ系で正教徒のセルビア人、セルビア人ながらイスラム教に改宗したボシュニャック人、その他クロアチア人などモザイク上に分布する多数の民族がオスマンの緩やかな統治の下に長年暮らしてきた地域です。

ところが露土戦争の戦後処理の結果、1878年にハプスブルクの保護領となり、1908年には、国境を接するセルビアやその援助にまわったロシアの反対にも関わらず、ハプスブルクによって強引に併合された。こうしてハプスブルク領内に取り込まれたボスには・ヘルツェゴビナに住むセルビア人は、隣国セルビアの民族主義者たちと結びつき、独立を目指してテロ活動を行った。

ハプスブルクにとって、セルビア国と連携した領内のセルビア人によるテロ活動の鎮圧は政治的な課題になっていた。こうした状況下で、サラエボ事件が発生した。ハプスブルク政府はこの事件を単なる報復処置だけではなく、懸案であった政治的課題の解決に利用しようと考えた。その解決方法とは隣国セルビアを併合してしまうことだった。この事件は併合に向けた良い機会だと考えられた。

事件を受けて、ハプスブルクの老皇帝フランツ・ヨーゼフ一世はドイツのヴィルヘルム二世に援助を請う書簡をしたためた。ハプスブルクが、セルビアの併合を強行すれば、セルビアを援助するロシアが干渉してくるに違いない。ロシアとの戦争をも辞さぬ準備のために「もしハプスブルクがロシアと戦争をするのであれば味方につく」という確約が必要だった。

ハプスブルクは開戦準備に手間取り、7月23日になってよっやくセルビアに最後通牒を突きつけた。この最後通牒は併合を意図したもので、はなから受け入れ不可能なもんだった。スラブの盟主を自認するロシア皇帝は激怒した。セルビアの後ろ盾であるロシアが舐められた、「名誉」が著しく傷つけられたと感じた。「墺塞事件」が既に風化し知恵た日本の新聞にも忽然と「露帝激怒」の文字が並び、欧州で緊張が高まったことを伝えている。露は、ドイツと海戦した場合のフランスの援助を確認s塗ると戦争を辞さぬ構えをとった。

7月25日、セルビアからの回答があり、それはハプスブルクの要求を呑むような体裁は極力とりつつも、大半の要求を拒否するものだった。セルビアの併合をもくろむハプスブルクにはさいy祖から回答を受け取れる気はなく、7月28日にセルビアに対して宣戦布告をした。

ハプスブルクとセルビアが戦争になれば、両国の後ろ盾となっているドイツとロシアが戦争に巻き込まれ、ロシアが巻き込まれればその同盟国であるフランスも巻き込まれる。

大規模な世界戦争の危機が高まっても、金融市場は開いていた。ナポレオン戦争以来100年間にわたりヨーロッパ全土を巻き込むような大戦争は起こらなかった。各国の経済は証券市場や貿易を通じて複雑に絡み合い、戦争をすることに経済的な合理性など全くない。金融市場をリードする大物たちは、自分たちの階層が持つ国際的なネットワークから、この危機は最後には誰かが必ず調整するものだと信じていた。

総動員令発令

二度と引き返せない一線を越えたのは7月30日だった。ロシア皇帝は全軍に動員令を発令した。イギリスはいざ戦争になっても中立を守っていほしいというドイツの要望を拒絶した。

現実の戦争勃発を目前にして、ヴィルヘルム二世はようやく危機感を持った。親戚であるロシア皇帝ニオライ二世に連絡して、総動員令を停止して部分動員に縮小するよう交渉した。しかし時既に遅く、ドイツも実質上の総動員をかけていて、すでに戦争への歯車は回り始めていた。

もはや主導権は皇帝たちではなく、実務を担当する軍部が握っていた。鉄道時代の総動員例は精緻な時刻表によって管理されているため、途中で計画を変更すれば作戦に混乱が生じる。本当に戦争を回避できるのならばともかく、もしそれが敵の罠であれば、緒戦が不利になる。ロシア軍部もドイツ参謀本部も一度始めた総動員は止められないと皇帝に伝えた。

31日には、ドイツがフランスに最後通牒を送付すると、独仏に挟まれた中立国ベルギーでは、早くも郵便配達人が各課知恵に召集令状を投函し始めていた。

8月1日ないると、ドイツが正式に総動員令を発令してロシアに宣戦布告、フランスも総動員を開始して、同日午後7時にはドイツ軍のいち部が早くもルクセンブルクとの国境を侵し始めた。

フランスに対する最後通牒の期限である8月3日、ドイツはフランス対して宣戦布告した。この日ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入すると、翌4日、これを理由にイギリスがドイツに宣戦布告、6日にはイギリス陸軍の大陸派遣を決定した。各国とも戦争は一気に勝敗がつくだろう、財政的な理由からも短期間で終了するだろうと考えていた。動員された兵士たちは「クリスマスには故郷に帰れる」と信じて出征していった。

こうして誰も望まない戦争が始まった。

誰も戦争を望まない

当時、戦争は伝統的な外交戦略で回避できると思われていた。

約1世紀の間、ヨーロッパでは外交によって大戦争が回避されてきた。しかし計算外だったのは大衆の持つ力の増大だった。国家主義者や右翼団体、さらに新聞などのメディアによる、大衆に受けの良い愛好的なプロパガンダは国民感情を盛り上げた。こうした国民感情は「火をつける」ことは容易だったが、制御することは困難で、外交政策に大きく影響を与えた。

また、どんな戦争もすぐに終わるだろうと思われていた。知識層においては、国家予算に制約がある以上、金のかかる近代戦は規模の限界があるので、すぐに終わると思われていた。大衆レベルではどうせすぐに終わる戦争ならやっても良いと誤解していた。国民全員が関わりを持つ、総力戦のような戦争は想像ができなかったので、まさか自分も銃を持たされるとは思わなかった人も大勢いた。しょせん自分以外の誰かが戦う、他人事だという幻想を抱いていた。

塹壕戦

エーヌ河沿いに対峙したドイツ軍とフランス軍はどちらも塹壕を掘り、少しでも占領地域を広げようと互いに東西に延伸した。塹壕は当初の上半身だけが隠れるようなものから、戦線の固定化に伴い、次第に深さ3メートルで居住区域もあるようなものに進化した。

塹壕の後方は鉄道や軽便鉄道によってロジスティクスが確立され、大量の砲弾や機銃弾の補給、重点地域への兵員の速やかな移動が可能になった。攻撃する側が歩兵突撃のために準備砲撃を加えても、塹壕によって効果は薄く、突撃する歩兵は自軍の塹壕を出た途端に敵塹壕から軌間中の餌食となった。また攻撃側が砲撃などに時間をかけている間、防御側は攻撃地点を察知し、後方の鉄道による兵力転換によって反撃準備をすることができた。

こうしてロジスティクスが結びついた塹壕戦においては攻撃側よりも防御側が圧倒的に有利な状況になった。ここに至って開戦前に支配的だった果敢な突撃攻撃重視の短期決戦志向は、あっさりと否定された。

塹壕はフランス領に食い込む形で、東はスイスから西は北海まで700キロにわたって構築されて、西ヨーロッパを二分して西部戦線を形成する。

プロパガンダ合戦

ルーベン図書館炎上事件をきっかけに「精神の世界大戦」と呼ばれるプロパガンダ合戦が繰り広げられた。

ドイツ軍に両手を切断されたベルギーの赤ん坊という「クールベック・ルー虐殺事件」や、ドイツ軍は死体でグリセリンを製造しているという、まるで見てきたような残虐な記事がタイムズで報道されたが、これらは戦後になって虚偽であったことが明らかにされている。このために、第二次世界大戦でナチスによるホロコーストが置きた時、タイムズの読者は「また、例のあれか」となかなか記事を信じなかった。

ベルギーにおける残虐行為の報道を受けて、連合国やアメリカでは、ドイツ人は次第に悪魔化された。ドイツとの関係を少しでも示唆するものがあれば、人々は消したがるようになる。例えば皇帝ヴィルヘルム二世の愛犬であるダックスフント種はイギリスから姿を消し、ジャーマン・シェパードはアルサティに改名された。バッテンベルク家はマウントバッテン家に、イギリス王室もこの時に、ザクセン・コーブルク・ゴータ家、通称ハノーバー家からウィンザー家に改名されて現代に至っている。

日本参戦

欧州で戦争が始まると、列強が不在となった中国大陸は、日本にとって様々な「中国問題」を解決する絶好の機会を提供した。日英同盟に参戦義務はなかったが、日本はドイツを相手に宣戦布告し、権益の拡張を図った。一方で、ドイツは日本が近代化の手本とした親しい国で、宣戦布告には葛藤もあった。

当時の日本国内における最大の出来事は開戦2年前の1912年11月の明治天皇崩御だった。日本は明治天皇と共に維新後の国家の大目標であった西洋諸国にようやく追いついた。日本はちょうど第一次世界大戦を前に新しい「大正時代」を迎えた。

宣戦布告

1914年8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、袁世凱政権下にあった中国は、交戦国が中国内に戦闘を拡大しないよう各国大使に要請した。そして局外中立を宣言するとアメリカに対してアジア地域の中立化に関して依頼した。これは日本の行動を警戒してのものだった。これ以降中米は連携して、日本にとっての中国外交にはニチベイが以降の要素も加わることになる。日本が中国に対して何かをすると必ずアメリカが出てくるようになる。

一方で、開戦に際しての日本外交にとってさいだいの直接的な関心事は日英同盟の存在だった。日英同盟は攻守同盟だったが、地域はインドを含むアジアに限定されていたので、とりあえず参戦義務は発生しない。これに沿って戦域の拡大を避けたいイギリスからは8月3日に日本に対して参戦無用の通知があった。

ところがこれを受けた日本政府は8月4日、局外の欧州各国や中国が示した中立表明ではなく、日本は平和を祈念するが日英同盟次第では参戦もありうると表明した。当時の大隈内閣の大隈首相や加藤外相、陸海軍の一部ではドイツの敗戦、しかも短期間での戦争終結を予想して、参戦による権益拡張を求めた。

ここでの権益とは主に3つ。1)当時「中国問題」」と呼ばれたもので、日露戦争後のポーツマス条約でロシアから継承した権益の期限は以外に短く、旅順・大連の租借期限が1923年に、満鉄経営権は1939年に失効する。2)金のない日本が中国に対する影響力をいかに確保するか。清朝滅亡後の袁世凱政権に対して、列強は借款によって中国権益の確保に走ったが、金がなくて出遅れた日本にとって、ドイツ植民地である「山東半島確保」は絶好の機会であると捉えられた。3)仮想敵国となりつつあった対米戦に備えて、太平洋のドイツの植民地である「南洋諸島を確保」して海軍の前進基地としたい。これは特に海軍が要望した項目である。

大隈内閣は閣議を開き、この戦争は「日英同盟の義戦であり、三国干渉に対する復讐戦」であるとして、戦争に対する大した大義もなく、御前会議も軍統帥部との調整も、さらに議会にかけずに参戦を決めた。そしてイギリスの要求以上に、陸上にまで戦域を拡大し、山東半島青島要塞のドイツ軍に対しても攻撃を仕掛けることにした。

戦線膠着

ドイツ軍の快進撃で始まった戦争も、西部戦線が塹壕戦になり膠着状態に入ると、両軍とも現状打破のために様々な作戦を実行した。そうした中で、オスマン・トルコ帝国がドイツ側として、またイタリアが英仏露に味方して参戦する。

ガリポリの戦い: オスマン帝国参戦

歴史的にロシアを仮想敵国としてきたオスマン陸軍はドイツと深い関係があった。また開戦時に政権を握っていた青年トルコ運動「統一派」のエンヴェル・パシャも親独派だった。

オスマンは日本と同じ様にイギリスを模範としていて、最新鋭の弩級戦艦をイギリスに2隻発注していた。しかし、当時のイギリスの海軍大臣チャーチルは第一次世界大戦を前にして、オスマンがドイツ側につくかもしれないと、この建造中の2隻の戦艦を発注者であるオスマン海軍に渡さなかった。ただ、やり方が問題で、工事に携わっていたオスマン海軍兵はイギリス兵に銃をつきつけられて艦から追い立てられたので事件になった。

一方で、イギリスは、オスマンとの戦争はムスリム人口の多いインド植民地統治に悪い影響を及ぼすのではないかと危惧していた。またフランスはオスマン国債の60%、社債の45%に投資していたので、両国とも基本的にオスマンとの戦争は望まなかった。

しかしこれを見ていたドイツは、オスマンを味方につけるチャンスだと捉えて、開戦と同時に地中海艦隊の戦艦と巡洋艦の計2隻をイスタンブールに向かわせた。イギリスへ発注したものの強引にキャンセルされた戦艦2隻の代艦としてオスマン海軍に買い取らせることを考えた。

それでもオスマンは参戦には躊躇して、しばらくは中立の立場を守っていた。ところが、順調に進むフランス侵攻作戦、東部戦線におけるタンネンベルクでのドイツ軍圧勝の報を聞くと我慢ができなくなった。17世紀から続く露土戦争によって、これまでロシアに切り取られてきた領土奪回の機会が到来したと考えた。もしもオスマンがドイツ戦勝後に領土の回復を欲するのであれば、ドイツが勝つ前に参戦しておく必要があった。1914年10月29日、ドイツからやってきた2隻の軍艦が黒海にあるロシアのオデッサ海軍基地を攻撃すると、オスマンは連合国側に宣戦布告した。

オスマンは12月21日に、10万人の兵力を投入して、カフカス山脈越えでロシア領に侵入した。しかし戦闘行為に入る以前に、真冬に、鉄道も道路もまともに整備されていない標高5,000メートルの高峯が集う山岳地帯を大群が越えることは無謀だった。翌月には多くの投資者を含む8万6,000人の犠牲者を出してオスマン軍は攻撃をする前に自壊してしまった。

帝国の南ではアラビアの砂漠超えでスエズ運河の占領を目指したが、こちらもナイル川の渡河に失敗して、いとも簡単に衰退した。広大なオスマン帝国領には山岳地帯や砂漠が多く、交通インフラが未整備なためにオスマン軍は近代的な大規模作戦を遂行するだけのロジスティクスを持っていはいなかった。

Uボートの登場

開戦時に出撃可能だったドイツ海軍のUボートは約20隻だった。そのうち半分はまだディーゼル搭載前のガソリンエンジンの艦で、航続距離が短いために偵察用など補助的な兵器だと考えられていた。

ところが開戦約1ヶ月後の1914年9月5日、ドイツの潜水艦「U21」がイギリス軽巡洋艦「パスフィンダー」を雷撃によって撃沈した。これが世界初の潜水艦による近代的な軍艦の撃沈だった。9月22日には基準な排水量わずか500トンの「U9」が1万2000トンクラスのイギリス装甲巡洋艦3隻を一度に撃沈してしまう戦果をあげた。水中に身を潜め、魚雷一本で大型艦を仕留めてしまう、予想外のUボートの活躍に、ドイツ海軍は早速大量のUボートを発注した。イギリス海軍が受けたショックは大きく、しばらくはこの損害をUボートの雷撃によるものとは認めず、機雷に接触したものとして発表していたほどである。

ルシタニア号の沈没

1915年5月7日、ニューヨーク発リヴァプール行きの、イギリスの大海運会社キュナード社所属の大型客船「ルシタニア号」が「U20」によって無警告のまま撃沈される事件が起きた。

英紙「タイムズ」の記事によると被雷から沈没までの時間はわずか18分間しかなく、乗員乗客1,962人中、逃げ遅れた1,201人が死亡した。そしてそのうちの128人が中立国アメリカの民間人だった。

もともと英仏寄りだったアメリカ世論はこの事件をきっかけに明確にドイツに対する味方を変えた。アメリカ大統領ウィルソンはドイツに対して無差別攻撃の即時停止を訴えた。

ドイツ海軍内においても、アメリカの参戦を警戒して、無差別攻撃継続に関する意見は分かれていたが、この語1915年8月にも、アメリカ人乗客が犠牲となる商船撃沈事件がり、ドイツは大西洋でのUボートの無警告攻撃を一時停止することにした。

以前の戦争は軍人同士の比較的限定的な戦争だったが、第一次世界大戦は戦争の長期化もあり、占領地も含めて多くの民間人を巻き込むことになった。

イタリア参戦

イタリアの統一は日本の幕末とほぼ同時期。1860年10月26日、ジュゼッペ・ガリバルディがイタリア半島南部のナポリ王国とシチリア王国を制覇して、サルディーニア王国国王のヴィットーレ・エマヌエーレ二世に占領地を捧げた。これがローマ帝国以来、初めて統一されたイタリア王国の誕生である。

蒸気機関をイノベーションの核とするイギリス発の産業革命に際して、イタリアは列強では珍しく石炭を産出しなかった。このため他の国に比べて工業化が出遅れることになった。

ところが、20世紀の最初の15年間で、イタリアは大きく成長して、経済的に列強の一家うに食い込んできた。石炭は無くとも、イタリア北部ではアルプスからの水力発電を利用して、第一次世界大戦直前には発電量でフランスを追い抜こほどに発展した。

成長のための資金を支えたのは、この15年間に主にアメリカに移民した400万人のイタリア人だった。彼らが翻刻の家族に送金したドルが工場設備や工作機械の輸入のための外貨となった。

既存するフィアット社やランチア社、アルファロメオ社など国際的な自動車会社やタイヤのピレリ社などはこの時期に誕生し、第一次世界大戦中には当時の最先端技術であった航空機を大量生産するほどに工業力をつけた。ジブリ映画の「紅の豚」の飛行機はイタリア製です。

未回収のイタリア

開戦に際して、ハプスブルクは同盟国であるイアリアに対して事前通告もなくセルビアに宣戦布告したので、規約上イタリアには参戦する義務はなかった。国内では、戦争を求めるナショナリストなど少数者の声は大きかったのだが、議会は参戦に消極的で国民のほとんどは無関心だった。

イタリアの参戦派は、早くしないと戦勝国による領土配分に参加できないと考えた。また、度の国でも同じだが、イタリアの真の統一には「国民性の強化」が必要で、そのためには国家のために血を流す戦争という共通のテーマがゆこうだという考え方もあった。

とはいえ戦争には反対で、社会党などは、戦争参加を強く訴えた党員で、後に独裁者となるムッソリーニを除名したほどである。国民の多くは戦争に無関心だった。

「未回収のイタリア」はハプスブルク帝国内の多く存在していた。イタリア参戦への両陣営との条件交渉の中で、同盟国側のハプスブルクは事項領を提供することに躊躇したが、英仏など連合国側にすれば戦後の分前はハプスブルクの領土割譲を約束sればよいだけなので、いくらでも手形を切れた。こうして1915年4月26日、イタリアは首相と外相の一存で英仏露との間にロンドン秘密条約を結び、連合国側に立って参戦することにした。

こうして1915年5月23日、イタリアはドイツを外して、ハプスブルクだけを相手に宣戦布告した。

イタリアは資金不足の軍は糧食が粗末で、給与は悪く休暇もわずかだった。そのために15年の末には一個連隊全体が反乱を起こすような情けない状況だった。また表面上の軍律は厳しく、無理な命令であっても突撃を躊躇するとどうなるのか、見せしめのための罪なき銃殺が舞台内で頻繁に行われた。表面上の軍律が厳しいのは士気が低いことの裏返しだが、兵士には南部イタリア出身の農民が多く、北イタリアのアルプス沿いの土地に郷愁も執着もなかったのである。

消耗戦の中で

戦争も3年目に入ると、人々は進展のない消耗戦にうんざりしてきた。各国では指導者が交代して体制を刷新しようとした。すると終わりのない殺戮の中で、ロシア革命とアメリカの参戦という大きな変化が起きた。

カブラの冬

ドイツでは開戦2戦目から早くも食料の入手が困難になり始め、国民はこれをイギリス海軍による「兵糧攻め」と呼んでいた。

徐々に進行するインフレに対してドイツ人のみならず、大衆は慣れていなかった。こうした中で1916年のドイツでェアじゃがいもが半減するほどの不作から、ルタバカと呼ばれる家畜飼料用のカブが食べられるようになった。これが有名なドイツの「カブラの冬」と呼ばれる食料不足である。

配給料は1日1人1,000キロカロリーにまで減り、特に栄養失調のことを「カブラ病」と呼んで国民の間に飢餓の情報が伝播した。

ツィンメルマン電報

1917年1月17日、イギリス暗号解読班「40号室」は、独ツィンメルマン外傷が在米ドイツ大使に宛てた暗号電報を傍受した。この時点で全ての暗号を解読されたわけではないが、そこにはドイツは2月1日から無制限潜水艦作戦を再開するが、当日までアメリカ政府には通告しないこと、そして以下の命令を在メキシコ公使宛に伝達すr事、と書いてあった。

その命令とは、無制限潜水艦作戦再開の結果、もし米国が参戦してくるようなことがあれば、在メキシコ・ドイツ公使はメキシコ大統領に接して同盟軍として参戦すべく誘うべし。さすれば戦勝のあかつきには、過去に米によって奪われたテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの各州をメキシコに返還するとあった。さらにメキシコに日本を誘わせ、連合軍を離れてドイツ側に立って参戦するべく手配するように、と書いてあった。

ドイツがメキシコや日本を誘ってアメリカと戦おうとなどと、この電報の内容が暴露されれば、当時の反ドイツに染まるアメリカ世論を刺激するには十分だった。アメリカはドイツを敵として、すぐに参戦するに違いない。

しかし、この電報を暴露すればイギリスがドイツの電報を盗み見て暗号を解読していることがバレてしまう。そうするとドイツは暗号を複雑にするなり変更してしまう。それもあるが、それよりもイギリスが電報を傍受した回線は、中立国アメリカの回線で、米ウィルソン大統領がドイツのために特別に使用を許していたものであり、アメリカでさえ盗聴していなかった回線だった。この「ツィンメルマン電報」の内容をアメリカに伝えれば、効果は絶大だが、それと同時にイギリスがアメリカの回線を盗聴していたことがばれてしまう。また、電報の暗号は完全に解読できたわけではない。電報はイギリスが秘匿にしたまま時間だけが経過した。

1月31日、ドイツは命令発行の8時間前になって、ようやくアメリカに2月1日からの無制限潜水艦作戦の再開を伝えた。これを受けて米議会の大半はドイツとの開戦をの望んだが、平和主義社のウィルソン大統領は、ドイツとの外交関係を絶っただけでまだ開戦は回避した。ドイツにとっては望外の結果だが、イギリスには困った事態だった。

イギリス軍による頭頂の事実がバレずに、極秘電報の内容をアメリカ側に伝えるには、在米ドイツ大使がツィンメルマン電報を受けて、在メキシコ・ドイツ公使宛に発信した中継の電報のコピーを盗み出した。この電報のコピーをアメリカ側に渡せば、ドイツの企みを証明できる上に、英による頭頂はバレずにすむ。

こうしたイギリス海軍「40号室」は2月19日に暗号電報の全ての解読に成功すると、2月23日に至って、わざわざ大西洋を渡ってイギリスまで届けられたメキシコ電報局のツィンメルマン電報のコピーを在英アメリカ大使に手渡した。そして2月24日にこの電報のコピーはウィルソン大統領の手元に向けて送られた。

ウィルソン大統領はこれを見て激怒した。電報は米AP通信車を通じて公表され、3月1日朝刊各紙の1面に8段抜きで記事にされると全米が驚愕した。

アメリカ中がドイツに対する怒りで沸騰したが、それでも親独派や平和主義の議員たちは電報の出どころを疑った。こんなできすぎた電報は捏造ではないかと。

メキシコと日本はもちろん電報の存在そのものを否定した。日本にすればいい迷惑だったが、ここで驚くべきことが起こった。3月8日、ドイツのツィンメルマン外相は、記者会見でこの電報が本物であると自ら認めてしまったのです。理解に苦しむところだが、その理由を米国の歴史家バーバラ・タックマンは「どうせ戦争には勝つであろうというドイツの尊大さ」だと説明している。

その後、数週間の間に何隻かのアメリカ商船がドイツのUボートによって沈められると、平和主義者のウィルソン大統領もドイツに対する宣戦布告を決意した。

1917年4月2日に参戦を決意したが、米国は大統領が参戦を決められない。米国議会で4月4日に上院82対6、5日に下院372対50の圧倒的多数で米国は参戦を決めた。それまで欧州に干渉しなかったアメリカが、やがて世界に派遣を唱えることになる「アメリカンの世紀」が始動した瞬間だった。

ロシア革命

ロシア革命は圧政への不満から起こった。ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世が即位したのは1894年。かれはそれまで抑圧的な統治を踏襲したが、即位10年後に始まった日露戦争中に早くもロシア第一革命が起こり、その後も革命の火種が消えぬまま第一次世界大戦に突入した。国民は開戦時こそ一時的にロシア帝国臣民としての高揚感を持ったが、戦争の長期化とともに、長い間くすぶっていた政権に対する不満が再熱した。

1917年3月8日、ペトログラードでの国際婦人デーの女性労働者のデモに男の労働者も合流した。これに対して鎮圧に向かったはずの軍も反乱を起こして、デモに加わった。この自体にドゥーマ(ロシア会議)は臨時政府を設立して、3月15日にはニコライ二世に退位を迫った。もはや皇室への忠誠心は失われていた。これがいわゆる「2月革命」で、英仏と同じ様に、議会が主体の民主主義革命であるはずだった。3月にも関わらず2月革命と呼ぶのは、当時ロシアがユリウス暦を採用してたためのズレである。

臨時政府は戦争継続を宣言して、まずは連合国諸国を安心させた。

同年4月に入ると中立国であるスイスのチューリッヒに逃げていたレーニンが策動し始めた。レーニンは2月革命下のロシアに戻って、ボリシェビキ(共産主義)による革命を起こしたいと考えた。しかしこの当時のロシアは同盟国側に包囲されており、またシベリア経由は正常不安定で危険で戻る手段は限定されていた。

そこで、レーニンは敵国であるドイツ軍参謀長本部に接触して、ドイツ軍の手引によってドイツ領内を通過して、スウェーデン、フィンランド経由でロシア入りした。途中停車がないので「封印列車」と呼ばれた。ドイツ側の思惑はレーニンによってロシアに戦争を止めさせることであった。

新政府が戦争を止めない一方で、レーニンが率いるボリシェビキは「平和」と「パン」を保証することで支持を伸していった。こうして1917年11月8日に、ケレンスキーが失脚すると、ボリシェビキが単独で政権を獲得して、今度はロシアに「10月革命」が成立した。以降のボリシェビキをソビエト政府と呼ぶ。

レーニンは12月6日に同盟国側と休戦し、翌年、1918年3月にはドイツとの単独講和であるブレスト・リトフスク条約を批准して、連合国側の戦列から離脱する。ドイツはこれによって東部戦線がなくなり、西部戦線に兵力を集中できるようになった。

新兵器の登場

1917年、戦線は相変わらず膠着しながらも、新兵器が本格的に活躍を始めた。戦車、飛行機、潜水艦。これららの兵器は第二次世界大戦以降の主力兵器となり、進化を遂げながら現代にまで至った。

ドイツでは、1916年8月に、ヒンデンブルク減衰がドイツ軍参謀総長に就任すると、ルーデンドルフ将軍が参謀次長につき、実質的にはルーデンドルフが戦争指導に当たった。これがルーデンドルフ独裁。

一方、フランス軍では1916年の消耗戦での甚大な損失に、陸軍はもはや国民や兵士たちの信頼を失い始めていた。同年12月、それまでの最高司令官ジョッフル将軍は責任をとってニヴェル将軍へと交替した。ところがこのニヴェルもまたフランス軍伝統の攻勢至上主義者だった。選挙区打開のために、ようやく戦力がととのい始めたイギリス陸軍と共同でドイツ軍防衛戦を突破する大作戦を実行に移す。

毒ガス

「窒息性または有毒ガスの散布を唯一の目的とする投射物の仕様を禁止する」。戦場における毒ガスの使用は、1896年のハーグ会議、1907年の平和会議を通じて禁止されていた。しかし毒ガスはドイツだけではなく、英仏も含む各国がそれぞれ研究を続けていた。最初に毒ガスを使用したのはドイツ軍で、1915年4月のイーベルにおける攻勢だった。

戦車の登場

敵の機関中の前に、生身の兵士の集団突撃は自殺行為だった。塹壕戦となった第一次世界大戦では、一世突撃攻撃のたびに無為に多くの死傷者を出すことになった。この時、歩兵突撃の最大の障害物であった有刺鉄線(鉄条網)は、南北戦争後の米国で、広い牧場の家畜の囲い込み用に発明されたもの。ボーア戦争では障害物として広く歩兵対策に活用され、その後の日露戦争の旅順要塞攻略においても、多くの歩兵が鉄条網を越えられずに機銃掃射を受けて戦死した。敵の機銃弾を弾き返しながら鉄条網や塹壕を乗り越えて、砲弾で掘り返された荒れ地を走行できる万能の自動車が期待された。

第一次世界大戦開始直後から、英海軍航空隊は1908年製ロールスロイスを装甲化した車を保有していたが、車輪では戦場の悪路を走れず、敵塹壕の突破攻撃には適せなかった。

イギリスとのアーネスト・スウィントン陸軍中佐は、悪路を走破して塹壕を乗り越えるために車輪ではなくキャタピラに目をつけた。しかし軍のエリートには騎兵出身者が多く、勇敢な騎兵突撃こそが戦場の華であると考えて、この技術に関心を持たなかった。そのためチャーチル海軍大臣など、むしろ陸軍の専門外の人間が開発の後押しをした。

1915年2月に陸軍ではなく、英海軍本部内にランドシップ委員会が設けられ、陸上を走る軍艦として、次々と試作車が発注された。「タンク」という名はこの時、戦車の開発を人国するために、水タンクとして偽装して名付けられたものである。

大型爆撃機

大型爆撃機という爆撃専門の機種が初めて登場したのも第一次世界大戦である。

1907年に開催されたハーグ平和会議では、民間人は戦争の埒外におくべきだるとの趣旨で、無防備な都市への砲爆撃を禁止した。しかし現実はそうはいかなかった。

結果としてドイツ軍が敗れたために、パリやロンドンへの都市爆撃ばかりが有名だが、フランス軍もエッセンやカールスルーエなどの都市、ルールのクルップ社の工場安堵に爆撃を行っている。カールスルーエでは公演中のサーカスのテントに爆弾が透過され大勢の子供達が死んだ。ドイツ側の発表では戦争中に英仏軍によって1万5,000発の爆弾が民間人に対して投下され、740人が死亡し、1,900人が負傷したことになっている。

第二次無制限潜水艦作戦

ルーデンドルフがドイツの実権を掌握した1916年の後半、西部戦線は塹壕戦となって膠着し、ドイツ軍首脳は陸上戦では英仏軍を屈服させることは不可能だと考えた。その代案として食料や鉄鋼など原材料を輸入に頼る英仏の息の根を止めようと、無制限潜水艦作戦の再開を考えた。

第一次世界大戦では石油を燃料とする船舶、また航空機、自動車、戦車など内燃機関を使った兵器や輸送機器の急増に伴って石油需要が急増した。ガリポリでの敗退は、連合国にとって、将来的にロシア産の石油が輸入できなくなったことを意味した。

石油は米国から輸入しなければならないが、そのためのタンカーが圧倒的に不足していた。無制限潜水艦作戦開始後の1917年5月にはイギリス海軍の石油備蓄が3ヶ月分を割り、タンカーを確保するためには、Uボート対策は海軍自身にとっても切迫した事態となった。ルーデンドルフの読みは当たっていた。イギリスの敗北は目の前だった。

終戦へ

1917年8月1日、ローマ法王が世界に向けて和平を呼びかけた。これは以前ウィルソンが参戦諸国に呼びかけていた「無併合無賠償」と同様に、あたかも戦争がなかったかのように世界を元に戻そうという案だった。これにはドイツが少し好意的な反応を示したものの、実際にはどちら側からも相手にされなかった。

ウィルソンも参戦して立場が変わった。すでにアメリカ国民の血と肉体をかけて参戦した以上、「勝利なき平和」などは望まなかった。ウィルソン大統領は、戦争の勝利によってのみ世界に民主主義を打ち立てられるのであって、ドイツ軍国主義の打倒なしでは平和は訪れないと考えを改めた。

ウィルソン大統領は、今や世界で最も影響力を持つ(金を貸している)国家の大統領として、ウィルソン独自の和平案を考えることにした。そこで戦後の世界のあり方を研究するアカデミックな専門家集団のをハウス大佐に指示した。ハウス大佐はこの時リップマンという28歳のハーバードを主席で卒業した天才ジャーナリストを見出してこの職務の中心人物とした。「調査グループ」と名付けられたこの組織は当初5名でスタートしたが、1年後には125名にまで拡大した。この組織は「フォーリン・アフェアーズ」誌を発行する現在の「外交問題評議会」に発展している。

アメリカは戦後の世界の設計図を描こうとしていた。

1917年11月8日、ローマ法王に続いて、今度はロシアの10月革命によって成立したソビエト政府が「平和に関する布告」を発表した。ここでは「公平で民主的な講話」「無併合・無賠償の即時講話」「民族自決」などの項目が含まれていた。我々の知るソビエトとは随分違う。

植民地を多く持つ英仏は当然のことながらこの提案を無視した。ソビエト政府は、その後単独でドイツと講話を結ぶことになるが、その時、彼らの政権の存立を正当化するために、ロシア帝国時代に結ばれた秘密外交を国際社会に暴露した。

アメリカはロシアによる秘密外交の暴露を受けて、「アメリカは秘密外交によって成立した今日k亭に一切拘束されることはない」と宣言したが、この宣言もまた英仏日伊など連合国側からは無視された。

アメリカはドイツに宣戦布告したが、英仏を同盟国とみなしたわけでなくあくまで「共同交戦国」として扱った。したがってアメリカがどうするのか、全てを彼らに相談する必要もなかった。

こうしたり湯からハウス大佐が組成した「調査チーム」は他国からの影響を受けることなく独自の平和構想の完成を目指すことになった。そして発表されたのが「14か条の平和減速」である。

戦争の敗者にすればこの終戦の条件は穏やかで受け入れやすいものだったが、言い換えれば勝者にとっては話にならない条件だった。しかしアメリカが参戦して、アメリカ人の死傷者が増えていく過程で、ウィルソンの気持ちも次第に変化していった。戦争では理想主義だけでは済ませられないものだった。

瓦解する同盟国

多民族で構成されるハプスブルクは、既に経済的な疲弊が激しく、帝国内各民族の独立の機運も盛り上がり、これ以上の戦争継続にドイツとの共通利益を見いだせなくなっていった。もし同盟国側が勝ってもハプスブルクはドイツの保護国のような立場に組み入れられることは必定であり、仮に負ければ、ウィルソン大統領の民族自決の考えに沿って帝国は解体される。1916年11月に68年間即位して崩御したフランツ・ヨーゼフ一世の後を襲ったカール皇帝は、早々とドイツに見切りをつけて、フランスとの間で極秘に平和交渉を始めた。

オスマンは1917年を通じてパレスチナとメソポタミアの戦線に集中していたが、ロシア革命の進展とともに、カフカース地方ではロシア軍が引き上げて、同地のアルメニア人、アゼルパイジャン人、グルジア人がトランス・コーカシア共和国を作った。しかし元々互いの仲が良いとは言えない民族集団は長続きせず、1918年に入るとオスマンはこの地域を制圧してしまう。

ハプスブルクは疲弊し、オスマンは北に攻めてはいたが、南から攻め込まれていた。いずれにせよドイツにとって頼りになる同盟国ではなかった。

ドイツ国内情勢悪化

ドイツでは食糧不足が深刻だった。じゃがいもだけがタンパク質の代わりに摂取されていた。民間だけではなく、軍隊も飢えていた。ナポレオンは「軍隊は胃袋で動く」と言ったが、糧食が不足するようなグンタは士気も上がらない。

1917年8月、ドイツの軍港ヴィルヘルムスハーフェンで戦艦戦隊の水兵たちによる反乱が発生して、処刑される者も現れた。ロシア革命の思想的な影響もあるが、根本原因は食料だった。

特に将校と水兵の待遇の格差に不満が集中した。ドイツ海軍では身分による差別がとても大きい。

1918年1月には軍港のあるキールと首都のベルリンでも食料をめぐるストライキとデモが発生して、戒厳令が布告された。ユトランド沖海戦以降、出撃しない海軍の士気は著しく低下していた。

軍隊が食糧不足だったので、一般の国民はさらにひどい状況にあった。食料を求めて配給を待つ人々の列は、暇つぶしの会話を通じて、政府によって統制された情報以外の不満を拡散した。これがやがてストライキと成り、ロシアのように革命の原動力となりかねない。

愛国主義が支配していたドイツ帝国も、1916年に「カブラの冬」を過ごし、1917年の冬に至ると、それまで無制限潜水艦作戦によって辛うじて繋いできた勝利に向けての一体感を次第に失いつつあった。イギリス海軍による海上封鎖は食糧不足というダメージを、ロシア革命は思想的な影響をドイツ国民に与えた。

1918年の夏までにアメリカは100万人の戦力を準備するだろうと考えていた。参戦した米国兵が大挙ヨーロッパにやって来るまでに英仏を屈服させないといけなかった。

ドイツ軍春季攻勢

ドイツ軍はアメリカ軍100万人が到着する夏までにイギリスとフランス軍を屈服せねばならない状況だった。これがドイツ軍最後の大攻勢、皇帝の戦いとも呼ばれる1918年の一連のドイツ軍春季攻勢である。

しかし、空腹の軍隊は英仏を屈服させることができず、そうこうしているうちに65万人まで膨れ上がったアメリカ軍がいよいよ戦闘に参加し始めた。体格は欧州人よりも大きくて、陽気で、ガリガリのドイツ兵に比べて、なにより栄養満点で、どう見てmお強そうな兵士たちだった。

もしも講話の交渉ができるのであれば、ルーデンドルフにとってはこの頃が潮時というものだった。しかしルーデンドルフは攻撃を続けた。

ドイツ軍は制空権も確保できなくなり、作戦の企図は連合軍偵察機によって見透かされていた。

インフルエンザが流行の兆しを見せ、栄養不良のドイツ軍兵士を蝕み始めていた。8月5日はアメリカ軍を含む連合軍が奪われあ突出部を奪還し、ルーデンドルフは予定されていた更に次の北部への攻撃を断念せざるを得なかった。

こうして米軍と夏の訪れとともに、ドイツ軍最後の春季攻勢は終わりを告げ、ルーデンドルフにはもはや打つ手は無くなってしまった。

9月29日に至って同盟国側のブルガリアが休戦に調印すると、連合軍はバルカン半島を制して、今やコンスタンティノープルまで侵攻する可能性が高くなった。西部戦線が崩壊寸前の中で、ルーデンドルフは東方に、つまりボスポラス海峡を失うと黒海が開放されてハプスブルクが崩壊し、ドイツの東国境に新たな戦線が登場するのではないかと不安になった。もしもそんなことがあればドイツはもはや持ちこたえられない。ここがルーデンドルフの限界であり、軍事的敗北を認めたポイントなった。

反撃のための休戦

9月29日、ルーデンドルフはヒンデンブルク参謀総長に伴われて大本営のあるスパにヴィルヘルム二世を訪問した。そして西部戦線のドイツ軍は今や崩壊の危機に瀕していると上申した。これまでに戦況を詳細に知らされていなかった皇帝は2人を激しく叱責した。そして皇帝臨席の下で政府・軍指導部は英仏ではなく、アメリカ大統領ウィルソンに対して休戦と講和交渉を要請することを決定した。

皇帝ヴィルヘルム二世は、10月3日にルーデンドルフの示唆に従い、英仏において比較的人気があったマクシミリアン・フォン・バーデン太公子を帝国宰相に指名すると、皇帝は彼にアメリカとの間で休戦交渉に入るべく指示した。同時にバーデン大公子は帝国議会の多数派政党の信任を受けたが、これは帝国議会初のことだった。新内閣には社会民主党からの入閣もあった。

これまでの帝国の総力戦を統括し、事実上ドイツを差配していたルーデンドルフ次長は、ヒンデンブルク参謀総長ともども現職にとどまったままで、降伏(休戦)の交渉は文民である首相にやらせたのであった。

ドイツ降伏 〜独裁の終焉〜

10月22日、バーデン大公子は帝国議会でウィルソンの14か条の平和原則と、その14番目の国際連盟構想を受け入れることを表明したが、これに対してドイツ国民は驚いた。

食糧事情の悪化や脱走兵の噂などから、戦況の不利こそ感じてはいたが、参謀本部による強力な戦勝プロパガンダのためにドイツ軍が負けているとの意識を持つ国民は多くなかった。首相が変わった時、これで戦争は終わったと考えただけで、この先、敗戦国に降りかかるであろう苦難などは想像ができなかった。

「再起のための休戦」を模索していたルーデンドルフはこの要求に対して講和交渉を停止して戦争継続を主張したが、もはやルーデンドルフの支持者は少なく、10月26日ヴィルヘルム二世はヒンデンブルク参謀総長を残したまま、ルーデンドルフ次長だけを解任して、後任はヘルム・グレーなー将軍をあてました。ここに1916年8月以来続いてきた「ルーデンドルフ独裁」は崩壊した。ルーデンドルフはスウェーデンに亡命した。

背後からのナイフ

ドイツでは10月28日に憲法が改正され、皇帝の先生敵権限を議会に移すこと、首相は職務遂行に関して議会の信任が必要であること、宣戦や講和条約の締結には議会の同意が必要なことなどが決められた。また納税額累計別に選挙民を3分し、それぞれの区分に対して同じ数の選挙権を付与する不平等な3級選挙法を廃し、婦人参政権を含む普通選挙が導入された。ドイツはアメリカとの休戦交渉を通じて急速に民主主義家が進んだ。

10月30日にオスマン・トルコ帝国が休戦に調印、11月3日にはハプスブルクも休戦に調印した。残るはドイツだけになった。

翌日11月11日、パリ郊外コンビエーヌの森に停車した食堂車の車両の中で、代表のエルツベルガーが休戦協定にサインをして、第一次世界大戦は終わりを告げた。

ヒトラーはこの屈辱を忘れなかった。第二次世界大戦におけるフランス降伏文書調印は同じ場所に停車した「わざわざ探しだした」同じ車両で執行されることになった。

ルーデンドルフは敗戦処理を政治家に委ねることで、敗戦の責任を軍部ではなく、政治家たちに転嫁した。休戦の時点でも連合軍の軍隊はドイツ領内に侵攻していなかった。戦争中の軍によるプロパガンダや報道管制で、劣勢な状況を教えられていない国民は、軍事的に負けたという意識が希薄だった。負けた理由は、突如として政権を担った社会主義者や、革命を図った共産主義者たちのせいだとした。

これが戦後に「背後からのナイフ」伝説として、軍隊は負けなかったが、民主化した政治家が戦争に負けた原因だったい理屈づけされる。後にナチスによって勢力拡大の際のロジックに利用されることになった。小さな火種が後に残された。

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

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戦後に残されたもの

ドイツがベルサイユ条約に調印し、講和会議が終了しても各地で紛争は続いていた。

第一次世界大戦の講和会議ではドイツ代表は呼ばれなかった。

またこの会議では外交文書はフランス語で書かれるのが慣習だったが、アメリカの影響力拡大を反映して初めて英語も公式言語に加えられた。アメリカ政府に対する欧州戦勝国たちの債務は70億ドルまで膨らみ、さらにその半分の金額をアメリカの民間銀行から借りていた。

戦争中は協力的だった連合国諸国も、いざ戦後処理となると利害が交錯した。理想主義者ウィルソンの最重要テーマは、「14か条の平和原則」の14番目、恒久平和のための仕組みである国際連盟の創設だった。対する英仏、特にフランスはドイツ軍を再起不能の状態にせねば国土の安全は保証されないと考えていた。ドイツ軍の縮小、賠償金の支払い、領土割譲こそが優先されるべき会議の目的だった。

ベルサイユ条約

ドイツの軍国主義を牽引した伝統ある参謀本部は廃止され、兵員は志願兵のみの10万人以下と決められた。大砲は大きさと量的な制限を受けて、戦車、潜水艦、航空機、独学などの兵器の所有は禁止された。

フランスアhドイツが国勢的にも可能な限り小さい国になるkとおを希望した。普仏戦争でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌ地方の返還はもちろん、そのライン川下流西岸地域にあたるラインラント地方の独立と中立国家も求めた。またドイツ軍が破壊した仏北西部の炭鉱の見返りとして、ザール地方の石炭も要求した。

さらにフランスはドイツ領のいち部を割譲する形でポーランドの再建を支援した。ドイツ東部国境を軍事的に牽制できる国家が欲しかったのである。

戦後は東欧の多くのドイツ人が分断されることになった。ハプスブルク帝国は崩壊して、ドイツ人居住地域の小さな墺太利が国家として残されることになったが、同民族であるドイツとの統一は認められなかった。

強引な国境の偏向は将来の紛争の種になる。普仏戦争が証明したこの歴史の教訓を、各国主脳は認識していたはずだが、フランスは目の前の国民感情を優先した。後にヒトラーに様々な言いがかりのきっかけを与えることになった。

オスマン帝国の終焉

1918年9月、同盟国側で参戦していたブルガリアが降伏すると、オスマンはドイツ、ハプスブルクとの陸路による補給路が切断され、戦争の遂行が困難になった。そこでオスマンは翌10月に連合国とムドロス休戦協定を結んで降伏した。戦争を始動してきた「統一派」幹部は亡命し、残された皇帝メフメト六世は国家の行方よりも自身の地位の確保に固執した。皇帝は政治家たちが降伏に抵抗すると議会を解放して、義弟を大宰相に据えてオスマンを専制政治に戻した。

国内の治安は乱れた。黒海沿岸でキリスト教徒が襲われる事件が発生すると、連合国側はオスマン自身による治安の維持を求めた。

スペイン風邪

第一次世界大戦では軍民合わせて約1,650万人が死んだ。しかし戦争の最終年である1918年から20年にかけて、世界中でこれをはるかに上回る3,000万人〜5,000万人に及ぶ死者を出した「スペイン風邪」が流行した。

スペイン風邪は、スペインがインフルエンザの発祥地だから名付けられたわけではない。第一次世界大戦の交戦国では、報道管制によって病気や死亡等の情報は制限されていたが、その中で当時中立国だったスペインだけが病気に関する死亡者や患者数などの情報を公開していた。それが各国で新聞記事となって、世界各地で流行しているインフルエンザをスペイン発だと誤解したまま名前だけが残った。また、当時のヨーロッパでは「悪いものは何でもスペインから」と決めつける風潮もあったらしい。世界中がスペイン風邪と呼ぶようになったが、当のスペインでは、病原菌は戦乱の地であり、死体が散乱するフランスからピレネー山脈を超えてやってきたに違いないと信じられていた。

一番最初のスペイン風邪のウィルスの発生は1918年3月の米国カンザス州だと考えられている。アメリカでは1917年4月の参戦以来、徴兵制が布かれて、全米の田舎から若者たちが訓練所に集められていた。全米に数多く作られた訓練所の宿舎は急ごしらえの詰め込みで、ウィルスが伝染すると環境として適していた。

こうしてウィルスを持った若者たちが訓練を終了した順にヨーロッパの戦線へと派遣された。ウィルスが発生した3月の時点で既に25万人の米兵が欧州に渡り、翻刻では138万人が渡航のために待機していた。ウィルソン大統領の理そうである自由と平和を希求するはずの軍t無いが皮肉にも病気の運び屋となっていた。

ウィルスは最初のアメリカ兵79万人が上陸したフランスのブレストの港町から拡散していった。アメリカで発生後わずか1ヶ月の4月にはフランス北部に射たイギリス軍に、そしてヒンデンブルク線の塹壕によって、本来なら物理的に隔たれていたはずのドイツ軍にもなぜか感染した。さらに5月になるとイギリス軍の南に布陣していたフランス軍にまで到達した。ドイツ軍側では当初イギリス軍と対峙したベルギーのフランダース地方で発症したために「フランダース熱」とも呼ばれていたが、すぐtに西部戦線全域のドイツ軍兵士が感染した。そしてその間もアメリカ兵は途切れることなくウィルスとともに続々と西部戦線に到着していた。

イギリスでは6月に軍港の街であるポーツマスで感染、革命中のロシアにも同月に白海のムルマンスク経由で派遣されたイギリス軍によってウィルスが持ち込まれた。アフリカでも石炭補給の港町であるフリータウンから、アジアではムンバイ、コルカタ、そしてカンザスで発生して僅か2ヶ月で中国内陸部奥深く重慶にまで到達した。

アメリカ兵だけが運び屋なわけではない。日本でも6月には陸軍の各連帯宿舎で広がりを見せた。また1918年の大相撲夏場所では風邪による力士の球場が目立ち「相撲風邪」とも呼ばれた。

世界に広がった「スペイン風邪」の流行は3波に分かれていた。最初の第1波では死亡者は少なく、3日程度の発熱で回復するところから「3日熱」という呼び名もあった。

インフルエンザ第2波となるウイルスの「変異」は1018年8月に、フリータウン、ブレスト、ボストンと、不思議にもそれぞれ遠く離れた3箇所で同時に起こった。第2波では、感染者は悪性の肺炎を発症してばたばたと死んでいった。見るからに健康そうな若者が38度から40度の発熱を伴い、発症からわずか1〜2時間で動けなくなった。

スペイン風邪の特徴は死亡者の45%が15歳から35歳の一番体力があるはずの若者だったこと。

アメリカでは10月24日に戦費調達のための第4次自由公債の募集があり、それに向けて9月から全国で募集のためのパレードや演説会に大勢の人が集まった。こうしたパレードや集会がアメリカ市民の間にウイルスを拡散させたと考えれれている。

かくして小康状態の後、1919年2月には第3波が伝搬し、アメリカ国内では翌1929年4月までに55万人が死亡した。

しかしこれほど猛威を奮ったウイルスも、1920年の半ばになると、まさに音もなくいずこに消え去ってしまった。

関東大震災を上回る死者

1918年当時の光学顕微鏡では1ミリの1万分の1の大きさの「スペイン風邪」のウイルスは見えませんでした。したがってワクチンなど対策も不適切で、治療といえば風邪と同じで安静以外にはなかった。

病原菌がウイルスだと分かったのは電子顕微鏡が発明された1930年代になってからで、さらに古い人体の組織片からウイルスが分離されるようになったのが1990年代、さらにこの遺伝子が解明されたのはごく最近のこと。今では「スペイン風邪」はウイルス性のインフルエンザ・パンデミックだっと分かっている。また伝染性が強く、突然「変異」することによって強力になることも解明された。

日本のスペイン風邪による病死者は45万人と推計されている。これは1904年からの日露戦争の戦没者8万4,000人、1923年の関東大震災の死亡者10万5,000人に比較しても格段にむごい災害だが、歴史書にはあまり書かれていない。

プロイセンの宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。これは「歴史は同じことを繰り返す」という意味ではない。歴史を学ぶということは多様な過去の出来事からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代の出来事を正しく理解するということにつきる。そのためにはまず、第一次世界大戦という基本的な史実を知っておかねばならない。

 

 

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