読書ノート

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーが独裁をした1933〜1945年の12年間をナチ時代といい、第二次世界大戦の終戦とともに終わった。それから70年以上経過した今でも世界中の人々の強い関心を集めている。ヒトラーは、民主主義を公然と否定し、ユダヤ人憎悪を激しく煽り大衆の支持を得て台頭し、政権の座に就いた。やがてヒトラーは第二次世界大戦を起こし、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を引き起こした。

ナチ時代のヒトラーはドイツ国民をその魅力で惹きつけていた。ヒトラーのカリスマ的支配の拠り所がその国民的な高い人気にあったことは、よく知られている。ヒトラーは、国民の歓心を買うべく経済的・社会的な実利を提供し、多くの人々を体制の受益者、積極的な担い手とする「合意独裁」を目指した。このもとで大規模な人権侵害が起き、第二次世界大戦とホロコーストへ向かう条件が作られていった。しかしそれがどのように生み出されたか知っている人が今の日本にどれほどいるだろうか。

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)は、ヒトラーとナチスドイツの最新の研究成果を踏まえながら、ヒトラーがどのようにしてドイツの独裁者になったのか、ヒトラー政権下のドイツで何が引き起こされたのか論じている。

ヴァイマル共和国時代の中央と地方の関係

ヴァイマル共和国時代のドイツは、18の州(邦)で構成される連邦国家だった。首都はベルリンで、そこに共和国政府と共和国議会(国会)が置かれた。各州にも政府と議会があり、州議会の議員は国会との同じように男女平等普通選挙で選出された。州政府代表による共和国参議院もあり、下院にあたる国会とともに、共和国の立法に関与した。

18の州のうち、面積・人口で圧倒的な大きさを占めたのがプロイセン州(州都はベルリン)である。これに次ぐのがバイエルン州(州都はミュンヘン)である。ヒトラーは当初、バイエルン州を拠点に政治活動を展開した。

ナチ時代になると、ドイツはヒトラー政府を中心とする完全な中央集権国家へと変貌した。

ヒトラーの登場

少年時代

アドルフ・ヒトラーは、1889年4月20日に現オーストリアのブラウナウという田舎町に生まれた。ドイツの統帥となるが、実はオーストリア生まれで、ヒンデンブルクと選挙で大統領のポストを争う1932年までドイツ国籍さえ持っていなかった。

父のアロイス・ヒトラーは小学校しか出ていなかったが、田舎から帝都ウィーンに出て職人修業を終えた後、18歳で帝国大蔵省守衛となり、税関職員となった。仕事から住所を転々としたが、堅実に仕事をしたので、地元の人から一目置かれる人だった。家庭では厳しく、ときにDVもしていた。

母のクララはアロイスの3番目の妻で、23歳も年下だった。

ヒトラーは異母兄弟と幼少期を過ごした。父は自分と同じ様に官吏の道を進むように望んだが、ヒトラーはこれを嫌った。父は大学進学を前提とする実科学校に息子を進学させた。しかし、ヒトラーには向いていなかった。成績は悪く、別の実科学校に転校を余儀なくされた。その直後、父が亡くなった。ヒトラーは結局その学校を実科学校を退学することになった。

実家に戻ったヒトラーは、母のもとで父の威圧や学校の束縛から解放され、芸術家への夢を育みながら勝手気ままな、そして平凡な青春時代を過ごした。

1907年、ヒトラーはウィーンの国立芸術アカデミー美術学校の入学試験を受験したが、結果は不合格だった。その後母が亡くなった。翌年の再受験にも失敗した。その後は、ウォーンで浮き草のような生活を送った。

ウォーンでの生活は、孤児年金があり、親の遺産からの収入もあった。他にも絵葉書など水彩画・図案作成のアルバイトもしていた。歌劇や音楽会を楽しむ余裕もあった。

それにも関わらずホームレスのような生活をしていた時期もあった。これは徴兵検査・兵役を逃れるためだったと言われている。ヒトラーは生まれ育ったハプスブルク帝国に忠誠心を抱いていなかった。ヒトラーはハプスブルク帝国が雑多な民族と言語で構成されているのが気に入らなかった。確かにドイツ人に特権的地位が与えられていたが、ポーランド人やチェコ人などが、国民的な自覚を強め、それに適切に対処できない抵抗指導部も好かなかった。そんなハプスブルク帝国に兵役に就くなどありえないことだった。

1913年にヒトラーは国境を越えてドイツ帝国南部のバイエルンの中心都市、ミュンヘンに移住する。これも徴兵を逃れるためだったらしい。1914年8月、ヒトラーはミュンヘンで第一次世界大戦勃発の報を聞いた。そしてドイツ帝国陸軍の志願兵として従軍した。ヒトラー25歳の夏のことだった。

戦場のヒトラー

ヒトラーは2ヶ月の訓練を受けた後、西部戦線のフランドル方面に出陣した。ヒトラーは上等兵に昇進し、同時に連隊司令部付きの伝令兵となった。

第一次世界大戦はヒトラーにとって自己覚醒の場となった。過酷な塹壕戦の中で生じた無二の戦友愛と自己犠牲。階級や身分、出身地を超えて固く結びつく兵士の勇敢な戦い。後に政治家となったヒトラーは「民族共同体」という概念を唱えていくが、その原風景はここにあった。

しかし実際の戦場のヒトラーは科目で、自ら友達を作るタイプではなかった。周りからは変人だと思われていた。何度か勲章を授かったとから伺えるように、上官の覚えは悪くなかったが、統率力が乏しいことを理由に、下士官への昇進は認められなかった。後に首相の座に就いてからのヒトラーは、「指導者ヒトラー」のイメージを左右するため、激戦を生き延びた連隊の戦友が戦場の自分の戦いぶりついてどのように語るか神経を尖らせた。多くの戦友はヒトラーの勇敢さを褒め称えて見返りを得たが、そうしない者には迫害と弾圧をした。

戦争が宗教を迎えた1918年9月末、フランドル地方に向かい、イギリス軍の独学攻撃を被った。ヒトラーはこれで目を負傷したらしい。ヒトラーは北ドイツの病院で治療を受け、そこでドイツの敗北(休戦)を知った。

ドイツ国民は軍のプロパガンダ情報で正確な戦局を聞かされていなかった。アメリカ参戦は聞いていたが、ロシア革命でロシアが東部戦線を撤退していたため、むしろドイツは勝っていると思っていたため、大きな衝撃を受けた。

日本人のための第一次世界大戦史

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。歴史からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代を正しく理解するということ。まず第一次世界大戦という基本的な史実を知らなければならない。

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ヒトラーが病院にいた頃、出撃命理を拒否した水兵が反乱を起こした。全国に広がった兵士の反戦運動に労働者が合流して労兵評議会がドイツ各地に組織された。労兵評議会は、軍部や行政当局に替わって各地で権力を握った。

帝都ベルリンでは、1918年11月9日、社会民主党の代表が「ドイツ共和国」の発足を宣言した。これが翌年にヴァイマル共和国となる。ヴィルヘルム二世は軍の支えを得られないと知るとオランダに亡命し、証明し、ドイツ帝国と各地の王国はあっけなく崩壊した。社会民主党のエーベルトが、臨時政府=自民代表政府の首班となった。これがドイツの「11月革命」である。

戦争が終わった後もヒトラーは軍に残ることを望んだ。軍に残るほうが、寝食と仕事、安定した俸給が得られるからである。国境警備か治安業務を志願すれば除隊を免れると知ったヒトラーは、捕虜収容所での監視兵勤務を願い出て認められた。その後は復員業務に従事した。

政治家への転向

30歳の誕生日を迎える1919年4月に兵営内の選挙で兵士評議会の一員に選ばれた。

翌月の5月にヴァイマル共和国政府が動員した反革命右翼義勇軍に打倒され、粛清委員会が設置されると、ヒトラーはその委員に抜擢された。任務は連tナイナイの革命分子に関する調査・摘発だった。ヒトラーはそれを淡々とこなし、上官の評価を得た。

次の人生の転機は、ミュンヘンを拠点とする第四集団司令部からもたらされた。戦争末期に軍記が乱れ、兵営が反戦・革命運動の温床となったことへの反省から、将兵に対する民族主義的、愛国主義的な政治教育・思想教育の必要性が説かれていた。ベルリンではそのための特別な教育課程がすでに導入されていたが、ミュンヘンではこれからだった。

カール・マイヤー大尉はその責任者だった。マイヤーはヒトラーの隠れた弁論の才能を発掘し、ヒトラーを「第一級の国民的演説家」に育て上げた。マイヤーが開いた研修コースでは、名のしれた保守派・右派の論客ばかりだった。ヒトラーはここで反ユダヤ主義を開眼した。ヒトラーはここでの研修で弁士として研鑽を積み、帰還兵を相手に「教育将校」としてデビューした。

また、新聞・雑誌などのメディアの動向や政治集会、政党活動の様子など、軍をとりまく世情を監視・調査することもヒトラーの重要な任務だった。

ドイツ労働者党への入党

1919年9月12日、ヒトラーは視察・調査を目的に、ナチ党の前身、ドイツ労働者党の集会に赴く。

ドイツ労働者党は、1919年1月、革命騒乱が続くミュンヘンに雨後の筍のように生えた半ユダヤ主義的極右政党の一つだった。ヒトラーが視察に来た時、党員はわずか50名ほどの無名弱小政党だった。

創設者のひとりアントン・ドレクスラーは国有鉄道向上に勤める職人だった。第一次世界大戦が終局を迎えた時に労働者の大規模な反戦ストライキが起きた頃に危機感を強め、労働者に国民的自覚と戦争協力の徹底を訴えた。戦後は社会でふかっ弾階級的分裂の克服を求めて、国民社会主義の理念を掲げていた。

ドイツ労働者党の月例集会での講演者が「バイエルンはドイツから分離してオーストリアとひとつになるべきだ」と訴えた時、聴衆席にいたヒトラーは反論する、という思わる展開になった。雄弁を振るい、ドレクスラーに見初められたヒトラーは、ドイツ労働者党への入党を決意する。

そもそも現役軍人が政治活動をすることは許されていなかったが、ヒトラーは解体寸前の旧軍兵士だったので誰も気にしなかった。マイヤーは自ら育てた有能な弁士が地元の政界で活躍できれば、それは軍の利益にもなると考えていた。こうして1920年3月31日の除隊日まで、軍務を続けながら政治活動を行った。

ナチ党の発足

ヴェルサイユ条約はドイツを二度と立ち直れないようにする強制講話だった。領土の13%と約700万の人口、植民地・海外領土を失った。東プロセインはポーランドに与えられるために切断された。フランスとの国境沿いのザール地方は国連(実質的にはフランス)の管理化に置かれ、ライアンとは連合国に占領された。さらに徴兵制は禁止され、参謀本部は解体、兵力は陸軍10万、海軍1.5万に制限された。賠償金もとてつもない額を支払わされた(2010年まで返済していた)。

ドイツ国民はヴェルサイユ条約を拒絶すべきだと訴えたが、拒否すれば戦争再開の恐れがあった。やり場のない怒りは、この条約を受諾したヴァイマル共和政府に向かった。社会民主党を中心を中心とするヴァイマル共和政府は一気に支持を失い、代わりに旧体制の支持勢力が息を吹き返した。

ところで、ドイツ労働者党が本当に弱小政党だったため、ヒトラーは党員獲得のために宣伝活動が必要だと思い、そのために公開集会が効果的だと考えていた。しかしハラーが目の前に立ち塞がった。ハラーはドイツ労働者を政党というより秘密結社のように捉えていたため公開集会に消極的だった。ハラーが党を外部からコントロールするかのような行動に出たため、ヒトラーはドレクスラーと共にハラーを離党においやった。

ドレクスラーとヒトラーは公開集会を開いて、党名を「国民社会主義ドイツ労働者党(通称NSDAP、ナチ党)」に改名した。ここにナチ党の名が歴史に現れた。

1920年2月24日、党の「25か条綱領」が発表された。綱領はドレクスラーとフェラーが中心となって作成したが、それを対外的に華々しく発表したのはヒトラーだった。

軍隊のペレー度を模した隊列を組んでの街頭行進、トラックの荷台に制服に身を包んだ党員数十名を乗せて行う示威行動、共産主義運動のシンボルカラーである赤を基調色とするビラやポスター、こうした派手な主砲は人目を引いた。党の公開集会も毎週のようにミュンヘンのどこかのビアホールで開かれ、会を重ねるたびに入場者数が増えた。目玉はヒトラーであり、その演説は聴衆を惹きつけた。

集会では暴力沙汰が日常茶飯事だった。ヒトラーはユダヤ人の入場を許さなかったが、共産党や社会民主党といった左派を引き入れ、集会を公開討論の場とした。乱闘騒ぎが起きたり、警察が介入したりしたが、平穏無事に終わる集会やり、党の催しが世間の注目を集めるほうが良いとヒトラーは考えていた。

ナチ党は次第に軍の大物や地元ミュンヘンの要人の知己を得ることができた。ヒトラーの評判を聞いて党の集会に参加し、浸水した実業家・資産家の中にはヒトラーに寄付を申し出る者も現れた。こうしてヒトラーは、ナチ党になくてはならない人物になった。

ナチ党権力の掌握

ヒトラーはナチ党の主導権を握るメンバーの一人だったが、党内基盤はまだ弱かった。1921年夏、ヒトラーは党のあり方をめぐって党内対立をし、苦境に陥った。

ナチ党はハプスブルク帝国に期限を持つ政党を友党としようとした。これにはドレクスラーも支持した。しかしヒトラーはこれに反対した。合同すればナチ党が吸収されてしまい、これまでの努力が水の泡に帰すると考えた。

ドレクスラーは、ヒトラーの反対を無視して、合同を決めて新党の本部をベルリンに置くと表明した。ヒトラーはこの決定に憤慨し、ついに離党を宣言した。

看板弁士を失ったナチ党幹部はヒトラーの離党に困った。ヒトラーが別の党を作って活動するのではないかと不安になった。そしてナチ党幹部はヒトラーに戻るよう説得した。ヒトラーは、「臨時党大会をただちに開催し、議題は党委員会の総辞職。ヒトラーには第一委員長のポストに就ける。そして第一委員長には独裁権を付与する」と復党の条件として突きつけた。ドレクスラーはヒトラーに屈服し、ヒトラーは復党し、第一委員長になった。これによりナチ党の一員にすぎなかったヒトラーが、第一委員長となり、党首として党に関わる全ての決定をくだすことができるなり実権を握った。ナチ党は組織的にも民主主義とは無縁の指導者政党へと変貌した。ヒトラーのナチ党がここから始まった。

ドレクスラーは就寝名誉委員長に祭り上げられ、実質的な影響力を失った。ヒトラーと対立した他の党委員会メンバーは党を去った。

突撃隊

ヒトラーが最初に取り組んだ課題は、党員の出身階層を中間層から労働者層に広げることだった。ドイツ労働者党以来、党にまとわりついていた名士の集まりとしてのイメージを払拭し、大衆政党に発展しようとした。

ナチ党は、他のどの党よりも街頭での活動を重視した。集会に次ぐ集会を開き、演説を通して無数の聴衆を味方に引き入れようとした。集会では敵の望外を覚悟しなければならなかった。集会を守るとための警備隊はすでに設置されていたが、ヒトラーはこれを準軍的な武装組織である突撃隊(SA)に作り変えた。

突撃隊隊員の資格は25歳までの若者だったが、退役軍人による軍事教練のおかげでたくましくなり、労働組合や左翼政党の集会を教習し絵政敵を混乱に陥れるようなことを平気でやってのけた。

突撃隊の武装化に一役買ったのが、レームである。レームは結党直後のナチ党に入り、ヒトラーの盟友となった。当時、軍備制限を逃れるために軍は大量の武器弾薬を隠匿していたが、レームは軍人としてそれを扱える立場にあった。レームはその立場を利用して、ナチ党のような急進右翼組織に軍事物資を調達していた。突撃隊の武装化は、ナチ党が直接行動主義=暴力路線を突き進むきっかけとなった。ヒトラーはやがて武力によるクーデター構想を抱くようになった。

クーデター(ミュンヘン一揆)

そもそもほとんどの州ではナチ党は活動を禁じられていたが、バイエルン州にはナチ党のような急進右翼を受け入れる土壌があり、自由な活動が許されていた。1922年、33歳のヒトラーは、その人気から「バイエルンの王」と呼ばれるようになった。ヒトラーは弁論の才、有形無形の軍の支援、ナチ党の宣伝活動のうまさが貢献した。

1922年10月、イタリアで国民ファシスト党が決起した。党首ムッソリーニは政権奪取をめざして党の武装部隊「黒シャツ隊」による「ローマ進軍」を敢行した。政府は進軍を阻むため国王に戒厳令の発令を要求したが、国王はこれを拒否してムッソリーニに組閣命令を下した。ここにファシスト政権が誕生した。

ヒトラーはこの報せに衝撃を受け、ドイツで同様の可能性を探った。

1923年はフランス・ベルギー連合軍のルール占領で幕が開いた。ルールはドイツ随一の工業地帯である。ドイツが賠償支払い要求に応じないため、両国が現物取り立てに踏み切った。

ヴァイマル共和国発足以来、最大の危機に見舞われたクーノ首相は、いっさいの引き渡しを禁じ、占領軍への協力を拒否するよう命じた。経済は麻痺したが、共和国政府は紙幣の増刷で聴きを乗り切ろうとした。しかし、これがまずかった。空前のインフレが起きた。マルクは1ドルが4兆2000万丸くまで下落し、中小企業や小売焦点の倒産が相次ぎ、貯蓄や年金を当てにしていた国民の生活が破壊された。

外国軍の占領にドイツの世論はキレた。占領から4ヶ月後に武装闘争を試みた若者が、フランス軍の軍法会議にかけられ処刑されると、国民の怒りは共和国政府に向かった。クーノ首相は退陣し、代わって首相になったシュトレーゼマンは「消極的抵抗」を中止した。この時、しばらく野に下っていた社会民主党が政権に返り咲き、これには右翼がキレた。こうした混乱の中でヴァイマル政府は国民の信用を失い、議会と政府を廃して軍部独裁を樹立する動きが進んだ。

右翼の牙城であるバイエルン州では、ミュンヘンで挙兵して首都ベルリンへ攻め上がる「ベルリン進軍」が計画された。

この頃、ナチ党の党員数は5万人を超えていたが、まだ単独で政権奪取を狙える実力はなかった。しかし、手をこまねいていては台頭のチャンスを失う。そう考えたヒトラーはレームと協力して、軍と保守派の連携を図り、右翼団体と共闘組織を作った。

しかしクーデター実行のキーマンであるカールは、軍の最高司令官ゼークトが動かないことを察知して、クーデター実行の先送りを決めた。

これに納得できないヒトラーは無理やりクーデターを実行した。これがミュンヘン一揆と呼ばれる事件である。バイエルン州政府はビアホールで3,000人規模の首魁を開いていた。その会場にピストルを持ったヒトラーが乱入し、天井に向けて発砲、「国民革命」を宣言した。

しかし、順調に進んだのはここまで。バイエルン州創刊がクーデター鎮圧の命令を下した。翌朝には戦車部隊が現れ、投降を促した。ヒトラーとルーデンドルフは形勢逆転を狙ってデモ行進をしたが、機関銃を構えたバイエルン警察隊が行く手を阻んだ。デモ隊との間で銃撃戦が始まり、警官が4名、ナチ党側は16名亡くなった。こうしてナチ党を挙げてのクーデター計画は無残な失敗に終わった。そしてナチ党はバイエルンを含む、全ドイツで一切の活動を禁止されることになった。

ナチ党の台頭

時のヴァイマル共和国の首相シュトレーゼマンは、ミュンヘン一揆の翌週に、大胆な通貨改革を断行してハイパーインフレを収束させた。翌年、ドイツの賠償支払いの軽減と経済再建を目的とするドーズ案を導入した。これは、ドイツは8億マルクの外債をアメリカから得て経済を活性化させ、賠償支払いを行う、というものである。ドーズ案が導入されると、米国資本がドイツに流入し、経済は回復期を迎えた。外交でもシュトレーゼマン首相の国際協調主義のもと、ドイツは国際社会に復帰して国際連盟に加入(1926年)した。こうしてヴァイマル共和国は1924年から5年あまりで政治的にも経済的にも比較的安定した平穏な時期を過ごすことになった。

しかし、1929年に突発した米国発の世界恐慌の煽りを受けて、ドイツの経済が再び深刻な危機に見舞われると、ナチ党はその機に乗じて支持者を増やし影響力を拡大させた。

ヒトラー裁判

ミュンヘン一揆が失敗してヒトラーの逮捕後、ナチ党はドイツ全土で禁党処分を受け、突撃隊など関連組織も解体された。

ヒトラー裁判は1924年2月26日から4月1日まで続いた。

冒頭から3時間半にもおよぶ被告陳述を、ほとんど中断されることなく許されたヒトラーは、ナチ党の宣伝家として鍛えた弁舌と論法で、後半を政治宣伝の場に変えた。ヒトラーは自らの責任をはっきりと認め、そのうえで国家反逆罪の容疑を否定し、反逆罪は自分ではなく、国民の信頼を裏切り続けるヴァイマル共和国政府にあると述べて、世論の共感を得た。

判決は1924年4月1日に下され、ルーデンドルフには無罪、ヒトラーには5年の要塞刑が言い渡された。

要塞刑は名誉刑とも呼ばれ、受刑者の名誉を奪うことなく執行される禁固刑のことだった。面会も飲食も自由だった。監獄とは思えない恵まれた環境で仮釈放される1924年12月までの日々を過ごした。

この間、外見上はナチ党に見えないが、実質的にはナチ党を継承する偽装組織がいくつも誕生した。逮捕直前のヒトラーから党首代理を委ねられたローゼンベルクにそれらを統括する力はなかった。偽装組織はリーダー間の協合と反目、線路の違いから、互いに敵対する小集団に分裂していった。それでも旧党員たちのヒトラーへの崇敬の念は失われていなかった。法定での演説はヒトラーの声望を高め、右翼急進勢力を束ねることのできる指導者としての期待が集まっていた。

監獄には毎日のように同志が面会に来た。ヒトラーは敢えて支持を出さずに対立が深みにはまるのを傍観した。自分に行動の自由が戻り、カリスマ的指導者として再登場できる時まで、運動の再生を引き延ばそうとした。

我が闘争

「我が闘争」はヒトラーが世に出した唯一の本。

ランツベルクを出獄した翌年の1925年に「我が闘争」の上巻が出版された。下巻は1927年に刊行された。上下巻とも価格が高くほとんど売れなかったが、上下巻を1冊にしたポケットサイズの廉価版(8マルク)を出したところ徐々に販売部数を伸した。1932年には1年で9万部、1933年には108万部が売れた。最終的にはナチ時代を通して累計1245万部という空前絶後の売上を記録した。もちろん、買った人がみな中身を読んだわけではない。

原稿は、ヒトラーが獄中で自分でタイプライターを叩きながら執筆した。タイプ打ちに習熟しておらず、左右の人差し指で交互にたどたどしくキーを打ちながら進めた。

ヒトラーが我が闘争を出版した理由は、裁判での被告弁論を準備するために何度も筆をとったが、公判で自分が主張したことに根拠を与え、それを「真実」とするためにも本の形で公表することが必要だった。もう一点は、ナチ党が目指す目標をヒトラー自身が示すことで、党内の諍いを収め、再建後のナチ党に求心力を付与しようとしたことである。党の組織原理や今後の運動のあり方について、自分の考えをはっきりと述べて、党員にそれに従うように求めた。

このような狙いをもって執筆された我が闘争は、虚実をとりまぜて語るヒトラー一流のプロパガンダの書となった。監獄では上巻の原稿しか仕上がらず、下巻は釈放後に書いた。

ヒトラーの政治思想にはオリジナリティはなかった。当時の反民主主義思想に「何一つ独自の貢献」をしていないと言われるくらい、思想的には純粋な亜流だった。

我が闘争はナチ時代が終わって70年以上経った現代でもドイツでも禁書措置を受けている。

ヒトラーはどのようにナチ党を再建したか

1924年のクリスマスを前にヒトラーは刑期を4年も残して仮釈放された。ヒトラーは年明け早々、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトに対して、ナチ党は法を遵守しながら活動を行う旨を伝え、ナチ党の禁党処分が解かれた。

党の再建にあたり、ヒトラーは、1)党の路線転換、つまり非合法な武闘路線から選挙を通して政権を目指す合法路線への転換を確実に行うこと、2)党の指導券が再びヒトラーの掌中に完全に帰するようにすること、3)大同団結を求める急進右翼勢力の働きかけを拒否し、ナチ党の自主独立を確保することの3つである。

出獄したヒトラーには行く手を阻む恐れのある人物がいた。ミュンヘン一揆の共謀者で軍の大物、ルーデンドルフである。ルーデンドルフは裁判で無罪となっていたが、獄中のヒトラーを意識しつつ急進右翼勢力の結集に野心を抱いていた。帝国参謀本部次長の経歴を持つこの男の影響力を削ぐことは容易ではない。

しかし、ここでもヒトラーは幸運に恵まれた。ヴァイマル共和国初代大統領エーベルトの突然の死を受けて、第二代大統領選挙が政治日程に上った。ヒトラーはルーデンドルフに支援を約束して出馬することを勧めた。カトリック教会と対立していたルーデンドルフに勝ち目がないことを見越した上での厄介払いの戦術だった。案の定、ルーデンドルフは惨敗し、これで政界を引退した。この大統領選挙で最終的に当選を果たしたのは、第一次世界大戦の英雄ヒンデンブルクだった。

全国政党への展開

綱領論争を決着させたヒトラーは、ナチ党の全国進出に着手した。

全国政党への足がかりとして、大管区が設置された。ドイツ全土が30余りの大管区に分けられた。大管区に任命するのはヒトラーだった。大管区はヒトラーだけに責任を負うとされたため、大管区内で強い影響力を講師することができた。

大管区は更に郡―支部―細胞―ブロックへと階層化され、最小単位のブロックには10名から50名の党員が所属した。全てのレベルに指導者が置かれ、指導者原理に貫かれた上意下達の全国組織が1929年末までに作った。

大管区長にはミュンヘン一揆に参加した同志、要は筋金入りのナチ党員が任命された。また、大管区長などがヒトラーの威を借りてミニ・カリスマとして振る舞うことを防ぐために、党本部が全国組織の動きを隅々まで監視できるような査察員制度を導入した。

全国展開と並行して、ナチ党はさまざまな職業分野に触手を伸ばし、支持者の拡大に努めた。職業団体としては、ナチ法律家、ナチ医師同盟、ナチ教師同盟、ナチ文化闘争同盟、ナチ経営細胞組織などがあった。それら以外にもナチ婦人団、ナチ学生同盟などもあり、ヒトラー運動の裾野を広げた。また、ドイツには合唱団や射撃協会、体操クラブなどの非政治的な自発的な協会組織が各地にあったが、ナチ党はここにも進出した。ドイツの市民層はもともと反ユダヤ主義的な傾向が強く、ナチ党がつけいる隙は十分にあった。市民層の多くは、労働者階級の利益代表=社会民主党が力を持つヴァイマル共和国に批判的でもあった。

ベルリン攻略

ナチ党はバイエルン州では有名だったが、まだ全国区ではなく、特にヴァイマル共和国の首都ベルリンでは苦戦していた。このベルリンにゲッベルスが送り込まれた。

ゲッベルスはベルリン大管区長に任命された頃は、ベルリンの党員は400名程度。しかも党内左派が多かった。突撃隊との関係もぎくしゃくしており、党本部の意向に従う者は少なかった。更にプロイセン州政府には1つも議席も持っていなかった。

人口400万人の大都会攻略の手がかりをつかめないゲッベルスは、メディアを徹底的に利用する戦術をとった。

ゲッベルスは突撃隊とともに大きな騒ぎを起こし、それを新聞が報道することで党が世間の注目の的となることを目論んだ。騒ぎの陰にどんな不条理が潜んでいるのか、ゲッベルスは党の集会で熱弁を振るい、記者のインタビューに応えて持論を展開した。

ゲッベルスは富裕層や市民層の存在的な反共主義や反ユダヤ主義に働きかけて、ナチ党の存在意義をアピールした。ベルリン警視総監は暴力をエスカレートさせるナチ党に禁党処分を下し、ゲッベルスを演説禁止にした。しかしゲッベルスは徹底抗戦のスローガン「禁じられても死なず」を掲げ、週刊誌の刊行を始めた。

ベルリンでのナチ党禁止は1928年の総選挙直前に解かれた。この頃にはヒトラー公開演説禁止も解かれ、ナチ党は初めて国政選挙に挑んだ。しかし、結果は得票率2.6%で惨敗した。当選した12名のナチ党国会議員の一人がゲッベルスだった。

親衛隊と突撃隊

レームが突撃隊を去った後、突撃隊はいったんナチ党大管区長のもとにおかれ、その再建はしばらく先送りされた。この間、それまで突撃隊内にあってヒトラーの身辺警護を旨とした「突撃部隊ヒトラー」が親衛隊(SS)として独立した。

親衛隊は、独立したと言っても、突撃隊の下部組織であることに変わりはない。それでも突撃隊と違ってナチ党の介入を受けず、ヒトラーだけに付きそう少数精鋭のエリート組織とみなされた。

親衛隊がナチ党内外で存在感を示すようになるのは、ヒムラーがヒトラーにおyって第三代親衛隊全国指導者に抜擢された後のことである。ミュンヘン工科大学で農学で修めたヒムラーは、1923年にナチ党に入党し、ミュンヘン一揆ではレームの指揮下にいた。そんなヒムラーのもとで親衛隊は、ナチ党の諜報活動・反対分子の摘発といった「党内政治警察」の役割を担うようになる。親衛隊は、やがてナチ時代にホロコーストに深く関与する。

武装SS

本書は、武装SSの膨張発展史と、SSの思想と行動に関する諸稿をまとめ直し、ナチ時代に象徴した武装SSの組織と人間と運動についてまとめている。

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弁士養成学校

ナチ党は全国進出にあたり、弁士不足という問題に直面していた。演説はナチ党の宣伝の要であり、優れた弁士は集会に欠くことはできない。確かにヒトラーは有能な弁士だが、一人しかいない。そこでナチ党・オーバーバイエルン大管区長ラインハルトが南ドイツ・アマゼー湖畔のヘルシングにヒトラー後任の弁士養成学校を開校した。通信制商業学校の校長という経歴を活かして、ラインハルトは弁士養成プログラムを立ち上げた。

1930年9月の国会選挙では、選挙戦最後の4週間に3万4,000回の選挙集会が予定された。鍛え抜かれた「話す言葉」の達人たちが1人残さず投入され、ゲッベルスが指揮をとる党本部宣伝局が創意工夫して作り上げた巧みな選挙演出とひとつになって効果をあげた。

ヒトラーをカリスマとして神格化する宣伝局の取り組みは、すでに完成の域に達していた。党員の挨拶としてのナチ式敬礼「ハイル・ヒトラー!」も、政敵との抗争で落命した党員を殉教者として崇敬する儀式も、この頃に定着した。

この選挙でナチ党は、国会第二党へと躍進した。弁士養成事業で名をあげたラインハルトも、このとき国会議員に選出された。ラインハルトは税務行政のも明るく、後のヒトラー政権下で財務省時間に抜擢sレ、失業対策で名を残すことになる。

ナチ党はどんな場所でもユダヤ人を引き合いに出し、不満をユダヤ人に向ける扇動を行った。そしてどの地域でも、現下の苦境の原因はヴァイマル共和国の議会政治家にあるという批判を展開し、議会制民主主義の打破を訴えた。ナチ党は徹底した抗議政党であり、責任政党でないがゆえに厳しい批判と要求を住民の気持ちにそって政府に突きつけることができた。結果的に、ナチ党はおよそ全ての社会階層に支持された。

躍進するナチ党

1930年9月の国会選挙では得票率18.3%を取って、国会で第二党に躍進した。前回の選挙では2.6%の票しか集められなかったナチ党が、いまや107名の国会議員団を擁する一大政治勢力になった。共産党を抜いて最大野党となった。

ナチ党は、政府を激しく批判し、大衆の支持を得た。過激な反政府運動に危機感を抱いた政府は、ナチ党の宣伝活動を公共の安寧と秩序を損なうとして取り締まったが、ナチ党の勢いはかえって強まった。

1932年3月には任期満了を迎えた共和国大統領選挙が実施され、ブリューリング首相はヒンデンブルクの再選を訴えた。ナチ党はヒトラーを擁立した。社会民主党は、自前の候補者を立てられず、ヒンデンブルク支持に回った。一次投票で当選者が決まらず、決選投票で53%を得たヒンデンブルクが、第三代共和国大統領に再選した。

ヒトラー政権の成立

1933年1月30日はドイツ史の転換点となった。この日にヒトラーがヒンデンブルク大統領によって首相に任命された。そこあらヒトラーはヴァイマル共和国の議会民主主義に終止符を打ち、ヒトラーを最高指導者とする独裁体制を築いた。ヒトラーが反ユダヤ主義社であり、レイシストであり、民主主義を蔑視する扇動家であったことは広く知られていた。ヒトラーが首相になれば、ドイツの信用が台無しになると思っている人も多かった。しかも、ナチ党は国会で第一党の地位にあったが、ヒトラーを首相に推す国会議員は4割以下で、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命しなければならない必然性はどこにもなかった。

そのため、ヒトラーが首相になったのは、選挙に勝ったからではない。ヒンデンブルク大統領が任命したからだ。国会第一党とはいえ、三分の一の議席しかなく、しかも低落局面にあった党の党首を、ヒンデンブルク大統領は首相に任命したのだ。

下降局面に入ったナチ党

ヒトラーは破竹の勢いで選挙戦を勝ち進んだが、党勢の拡大には限度があった。選挙のたびに議席数と存在感を増やしていたナチ党は、1932年7月の国会選挙で第一党になった後、党勢が伸び悩み、この年の二度目の11月の国会選挙では200万票余りを失い下降局面に入った。

伸び悩んだ一番の原因は、ヒトラーのカリスマ性の限界だった。ヒトラーは新しい国民的な大衆運動の指導者として、多くの有権者に希望を与えたが、まだ何一つ成果を示すことができないでいた。国民をリードするカリスマ的指導者になるためには、期待に応える業績、つまり偉業を示さねばならない。だがいつまでも政権に就けないままだったので、ヒトラーを見限る人々が出てきたのだ。

しかし、国会第一党とはいえ、三分の一の議席しかなく、しかも低落局面にあった党の党首を、ヒンデンブルク大統領は首相に任命した。

ヒンデンブルクが成立させたヒトラー整形ンはナチ党の単独政権ではなく、ドイツ国家人民党という伝統的な保守政党とナチ党の連立政権であった。ヒンデンブルクが成立させたヒトラー政権は国会に多数派の基盤のない「少数派政権」であった。

ヒンデンブルクとは何者か

ヒンデンブルクは、ヒトラー首相指名当時、既に85才だった。ドイツ統一戦争にプロイセン陸軍将校として従軍した経験を持ち、第一次世界大戦では緒戦のタンネンベルクの戦いでロシア軍を全滅させた名称として国民的な任期を博した。戦争中の1916年にルーデンドルフと共に軍部独裁を樹立し、「勝利の講話」に向けて国民総動員体制の構築に力を奮った。

ヒンデンブルクは、第一次世界大戦後の裁判で、「ドイツ軍はそもそも戦場では敗れておらず、ただ国内の反戦平和主義者・労働者運動・ユダヤ人の『背後からの一突き』(裏切り)のせいで敗れたのだ」と述べた。帝政を崩壊させて、ヴァイマル共和国に道を開いた彼らこそ、戦争責任を追うべき真の犯罪者だと主張した。

ヒンデンブルクは1925年に第二代大統領に選出された。任期は7年。ヒンデンブルクは軍人らしくどの政党にも所属していなかった。

大統領内閣

国会に多数派を持たない「少数派政府」を率いたのは、ヒトラーが初めてではなかった。ヴァイマル共和国末期の3名の首相はいずれも議会に基盤らしい基盤を持たず、ヒンデンブルク大統領の緊急令に依拠しながら政権運営にあたっていた。こうした内閣は「大統領内閣」と呼ばれる。

大統領緊急令とは、ヴァイマル憲法が定める大統領大権のひとつ。「公共の安寧と秩序」が著しく脅かされるなど国家が危急の事態に陥った場合、大統領はその自体を克服するために「必要な措置を講ずる」ことができた。大統領緊急令は法律に代わるものとみなされたから、首相が大統領を動かして緊急令を発令できれば、首相は国会から独立して国政にあたることができた。しかも非常時に関する明確な規定がなく、大統領はこれを自らの責任で解釈する余地があった。国会には大統領緊急令を廃止する権限があったが、それを行使すれば解散すれば解散を覚悟しなければならない。

ブリューリングが首相の時、野党の勢いが国会で増していたため、打ち出す制作はどれも反発を招き暗礁に乗り上げた。首相は大統領緊急令にますます頼らざるをえなかった。

こうした「大統領内閣」ものとで国会の会期日数は著しく減少した結果、議会政治は空洞化した。国の政策が大統領に近い官僚・専門家によって策定され、これを国会で審議すること無く、大統領緊急令として施行する統治スタイルが定着した。

議会の開会期間が短いため、各政党は国会の外に政治活動の場を見出し、集会を開いて国民の支持を訴えた。この時ナチ党は、そもそも議会政治に興味ないので、過激な宣伝戦を展開し、街頭を、暴力を伴う政治闘争の場にしようとしていた。ナチ党の下部組織、突撃隊は隊列行進を繰り返し、労働者街に乗り込んで挑発的なアジテーションを行ったり、敵の集会に潜んで演説を妨害したり、政敵と思しき者を取り囲んで威嚇・殴打するなどの目に余る行動を働いた。

シュライヒャーとパーペン

ヒンデンブルクの周囲には、大統領との個人的なつながりを頼りに権力に頼ろうとする取り巻き連中が暗躍した。その中で特に大きな影響力を持ったのが、ヒンデンブルクの息子の友人、シュライヒャー将軍である。

シュライヒャーはヒンデンブルク大統領に帝政時代のような権威主義政治の実現を働きかけた。そして、その道具としてナチ党に接近することを進言した。

1932年にヒンデンブルクは、ブリューリング首相の要請に応じてナチ党の暴力活動を抑えるためにナチ党に突撃隊・親衛隊を禁じるt大統領緊急令を出した。しかし、ヒンデンブルクにとってこれは本意ではなかったので、ブリューリング首相を更迭させ、シュライヒャーの進言にそってパーペンを首相に任命した。これは、ヒトラー首相就任の半年前のことである。

パーペンの支持基盤は国家人民党だけだったので、ナチ党が政府に反対しないようにヒトラーに約束を取り付けた。ヒトラーはそれに引き換え、ヒトラーの要求に応じて国会を解散し、突撃隊・親衛隊の禁止令を解いた。

ヒンデンブルクとヒトラー 〜議会制民主主義の崩壊〜

ヒンデンブルクは無所属だったが、右派勢力の全面的な支持の上に、議会を排した権威主義統治が行えればと考えていた。そのためヒトラーは利用できる存在だった。

ナチ党が国会第一党となった段階で、大統領はヒトラーを副首相としてパーペン内閣に迎え入れることを決意した。ヒトラーを国政の責任ある地位に就けることで過激な反政府運動から牙を抜き、ナチ党を与党にすることで不人気な大統領内閣に国民的な支持基盤を創り出そうとした。

1932年8月13日、ヒンデンブルクはヒトラーに会い、副首相のポストを提供する旨を伝えた。しかし、ヒトラーはその場で拒否した。国民が支持しない首相にナチ党の党首が仕えるなどありない、というのだ。しかも、ナチ党が政権に参画してパーペンの配下に置かれることは、ヒトラーは頂点とする党の指導者原理に矛盾する。ヒトラーが求めたのは「全面的な指導権」、つまり首相の椅子だけだった。

9月になっって内閣不信任がナチ党などの三世で可決成立すると、パーペンは大統領とともに国会を解散した。そして2ヶ月後の11月に国会選挙の日程を設定した。こうして議会なき大統領統治が続き、世論の反発はいっそう強まった。ベルリンでは労働者のストライキが起き、これにナチ党が参加したため、ドイツの首都は騒然たる雰囲気に包まれた。

11月の国会選挙の結果、ナチ党は後退したが、共産党は躍進を続けた。国会は引き続き完全な麻痺状態にあったが、同じ首相のもとで続けて三度目の解散はできず、大統領は首相を更迭する他なかった。

シュライヒャーは第一次世界大戦時の軍部独裁を実現したかった。自分が首相と国防省を兼任し、大統領・陸軍元帥ヒンデンブルクを担いで新たな軍事独裁の可能性を追求し始めていた。選挙でナチ党が退潮したことで、後継首相と言われたシュライヒャーが、この機に乗じてナチ党の分裂を画策した。

シュライヒャーは当時のナチ党のナンバー・ツーであるシュトラッサーに副首相として入閣するよう要請した。シュライヒャー首相は動揺するナチ党を分裂させ、シュトラッサーと党内左派を自らの政権の支持基盤に組み込もうとした。そして、同時に労働組合にも触手を伸ばし、全国労働同盟の代表者を閣僚として迎え入れようとした。

ヒトラー政権の成立

年が明けて1933年1月、シュライヒャー首相が軍部独裁の可能性をまだ探っていた頃、パーペン前首相は、新政府の樹立に向けてヒトラーとの接触を断続的に続けていた。財界からは、ヒトラーの首相任用を求める請願書が既にヒンデンブルクのもとに届けられていた。1932年11月の国会選挙で交替したナチ党を尻目に、16.8%、100議席を得て躍進を続ける共産党の存在は、財界人にとって大きな脅威となっていた。

ヒトラーを首相にするといってもナチ党の独裁を認めるわけではない。パーペンに言わせれば、政権に「ヒトラーを雇い入れる」のだ。「用が済めば放り出せば良い」と考えていた。

ヒトラーを首相として、パーペンが副首相となりヒンデンブルクの信任を得た保守派の領袖が閣僚としてヒトラーの脇を固める。ナチ党からの入閣は最小限に抑える。そのような態勢ができればヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命すると考えた。

パーペンは上記の内容でヒンデンブルクの合意を取り付け、パーペン自ら作成した閣僚名簿をヒンデンブルクに手渡した。

1933年1月30日、大統領はヒトラーを首相に任命した。大統領が読み上げた閣僚リストはパーペンの名簿通りだった。

ナチ体制の確立

1933年に成立したヒトラー政権は、ナチ党の単独政権ではなく、ナチ党と国家人民党との連立政権であった。ナチ党は国会第一党の地位にあったが、葬儀席数の三分の一を占めたに過ぎず、国家人民党の議席と合わせても過半数に届かなかった。つまりヒトラー政権は、先行するブリューリングとパーペン、シュライヒャーの各政権と同様、国会に多数派をもたない少数派政権であり、大統領内閣であった。

ヒトラー政権では、首相と内相を除く主要閣僚ポストを非ナチ派、つまり国家人民党の大物か保守系無所属の大臣経験者が占めた。経済復興、失業対策、軍縮交渉など新政権がただちに取り組むべき課題は、所管の保守系大臣が手動するだろうからヒトラーは結局、彼らの手玉に取られ、成果をあげられないまま用済みなるだろう、と考えられていた。

合法的に独裁権力を手に入れる

ヒトラーは陸海軍司令官を前に、新政府の任務と課題について、2時間に及ぶ非公開の演説を行った。ヒトラーはは、ヴァイマル憲法を否定し、ヴェルサイユ条約を無視する意図を表明した。ここまであからさまに表明した首相は今まで損刺しなかったため、将官たちは驚いたが、軍の利益を擁護する政治家の登場に大いに期待を寄せた。異論や反論は全く出なかった。

ヒトラーは最初は総統なろうとは思っていなかった。ヒトラーは、国会を解散して選挙を実施し、ナチ党が単独過半数を取り、国会=議会政治を葬り去り、マルクス主義を一掃し、州政府を服従させることを、合法的あるいは表面的にそう見える手段を達成することを考えていた。

ヒトラーは1933年3月に選挙を行うことにした。解散して選挙後に国会が招集されるまでの約2ヶ月を利用して、大統領緊急例の力を借りてこれらの眼目を達成しようとした。

ヒトラーはヴァイマル憲法には条文の解釈と運用次第で独裁的権力が生じる可能性があることを知っていた。ヒトラーは自分が法を利用して、独裁的検量を手に入れ、合法的に民主主義を掘り崩し、反対清涼を一掃する、そう考えていた。

この時の選挙戦は、それまでの選挙戦といくつかの点で様相が著しく異なっていた。宣伝の手段として、ラジオ放送と飛行機がフルに利用された。野党にはラジオ放送を使わせなかったから、宣伝効果は抜群だった。飛行機で大空を雄飛するヒトラーの姿は、新時代の幕開けにふさわしい、若き指導者のイメージを醸成した。

また、集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動等を禁止した。共産党をはじめ、野党勢力はナチ党の口汚い攻撃に応戦しようにも自由な意見表明ができなくなった。

さらに、ナチ党の組織である突撃隊と親衛隊をプロイセン州の「補助警察」として州政府のち庵組織に組み込まれた。補助警察は先の大統領緊急令を執行すべく、反対派の弾圧に猛威を振るった。

ヒトラー政権下で国家検量を手にしたナチ党は、政敵に対して容赦なく暴力を用いて襲いかかった。共産党や社会民主党の要人が路上で突撃隊に殴打・暴行されても、警察が制止することはなくなった。共産党本部に大掛かりな家宅捜索が入り、党職員が連行された。東京の監視の網をくぐって開かれた社会民主党の選挙集会には爆弾が投げ込まれるなど、全国各地で酷たしい流血の惨事が続発した。

議事堂炎上事件

選挙戦が終盤に差し掛かった頃、ベルリンの国会議事堂が何者かの手で炎上した。一応、事件当日のうちに、現場にいたオランダ人の共産主義者が逮捕された。

だがヒトラーはこれを共産党による国家転覆の陰謀だと決めつけ、非常事態宣言を出させ、共産党の国会議員をはじめ急進左翼運動の指導者を一網打尽にした。プロイセン州だけで約5,000人が数日のうちに逮捕された。突撃隊も便乗して赤狩りに乗り出し、かねてから目をつけていた活動家を学校や兵舎、党酒場のち過失に拉致して、殴る蹴るの膀胱を加えた。

警察はこれ以降、「保護拘禁」と称して、司法手続きなしに被疑者を逮捕できるようになった。そして、ヒトラー政府による州政府への介入がこれで正当化された。

また、非常事態下の執行権が軍ではなく、中央政府に委ねられた結果、軍の影響を受けない強大な執行権を政府、とりわけ首相と内相が握った。これは「当面の間」という限定句がついていたが、結果、ナチ体制が崩壊する1945年までずっと効力を発揮した。この議事堂炎上事件がユダヤ人迫害などのナチ体制下の公権力による様々な形の人権侵害に法的根拠を提供した。

授権法

ヒトラーは全てを掛けて授権法を手に入れたかった。

授権法は「全権委任法」とも呼ばれ、この方によって立法権が政府に託される。首相は国会審議を経ずに予算を含む全ての法律を制定できるようにある。首相への権力集中がなされる。しかも政府には「憲法に反する」法律を制定する権限までも与えられ、憲法を改正したり、新憲法を制定したりする必要もなくなる。

すでに述べたように、歴代の少数派内閣を支えてきたのは大統領緊急令だった。特にヒトラーの前任であるパーペン政権時代にはあまりに頻繁に出されたため、大統領緊急令権の濫用、つまり憲法違反の疑義が発せられるようになった。

ヒンデンブルクは大統領緊急令による統治をいつまでも続けるわけにはいかないと考えるようになっていた。そこで浮上したのが授権法だった。

授権法により、国会の立法権を政府に付与し、強い政府を作れば良い、とヒンデンブルクは考えた。国会は有名無実となるが、ヒンデンブルクはかねてより議会政治からの決別を望んでいた。実は、授権法はこれまでにも何度かヴァイマル共和国期に制定されており、憲法改正と同様、国会の3分の2の三世が得られれば成立していた。国会に基盤のない政権にこれを望むことはできないが、ヒトラー首相の下では不可能ではない。

副首相のパーペン、連立与党国家人民党フーゲンベルクも、自分たちが多い描く強力な「新国家」の実現に向けて、必要な政策を容易に実行できる授権法の制定に期待を寄せていた。これが保守派の権力基盤を掘り崩すヒトラーの道具になるとは、全く気づいていなかった。

授権法を国会で可決成立するためには、1)国家議員総数の3分の2以上が出席し、2)出席した議員の3分の2以上が賛成投票すれば良かった。

1)の総数については、警察に拘束されている議員も含まれるし、共産党と社会民主党の全議員が姿を見せなければ要件が満たされない。そこでヒトラーは、議長が認めない欠席を禁じるし、その議員を出席扱いにした。反対派の欠席戦術はこれで未然に封じ込められた。

2)については、議事堂炎上事件で拘束されるか逃亡したため、出席できない彼らを除いた538人の3分の2以上の賛成投票があれば、要件が満たされる。出席できる社会民主党と中央党の国会議員が揃って反対投票しても、可決成立を阻むことはできない。議事堂炎上事件を悪用した、ヒトラーのあざとい戦術であった。

さらに、国会、大統領、州のあり方に触れるものではないと強弁して反対派の不安を取りにぞこうとする一方で、反対すれば政府の断固たる措置を招くだろうといって恫喝した。

法案は、投票の結果、賛成444票、反対94票で可決成立した。結局、反対したのは社会民主党の議員93人だけだった。反対投票した人は突撃隊による激しい弾圧があった。

授権法の威力はただちに発揮された。まず、死刑執行法が制定され、議事堂放火事件の犯人に対する死刑の執行を実施した。これを皮切りに、政府の手で新しい法律=「ナチ法」が続々と制定されていった。

ナチ党が唯一の政党に

ヒトラーは弾圧に次ぐ弾圧により、ナチ党以外の全政党が禁止されるか自ら解散した後、ヒトラーは「政党新設禁止法」を制定し、ナチ党を唯一の政党と規定した。これ以降、ドイツの政党はナチ党だけになった。

さらに「国民投票法」も制定した。これで政府は自らが求める法案な措置を、国会を介さず、国民に直接問う手段を得た。何をどのタイミングで国民投票にかけるかについて規定がなく、国民の大多数の賛成が見込まれる案件をめぐって政府が国民投票を実施できるようになった。

ヒトラーの動きを整理

まずヒトラーは、国会を解散、総選挙に打って出た。次に、選挙戦最中に起きた国会議事堂炎上事件を利用して大統領緊急令を出させ、急進左翼(マルクス主義)勢力、特に共産党を激しく弾圧した。そして言論を統制下におき、国民沖本件を停止して反対派の動きを封じ込めた。

国会選挙後、ヒトラーは国会で授権法を強引に成立させた。そしてただちに一連の法律を制定して、地方の州政府を統治下においた。ナチ党以外の政党、労働組合を解体へ追い込み、政党新設を法律で禁じた。国会は形式上存続したが、ただ政府の意思を承認するだけの賛同期間・宣伝装置へ成り下がった。

こうして、曲がりなりにも14年間続いたヴァイマル共和国の議会制民主主義は、わずか半年で、しかも合法性の装いを維持しながら、ナチ党の一党独裁体制に取って代わった。

なぜ人々は反発しなかったのか

国民の大半がヒトラーの政治弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」と諦め、事態を容認するか、目をそらした。とりあえず様子見を決め込んだ者も大勢いた。

「議事堂炎上令は一時のもので、過激な共産主義者が一掃されればすぐ廃止されるだろう」「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会民主主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離をおいてきた人々の態度を変えていった。そしてナチ党への入党希望者が急増した。

ナチ化が進む社会では、ナチ党員であることが出世の要件とみなされた。人々の中にあったヒトラーを支持することへの躊躇がなくなり、むしろこれを置く前と礼賛するムードが広がった。

高名な大学教授や作家・文化人など知的エリートというべき人々がヒトラーを礼賛する声明文や論説記事を次々と発表したことも、民意のあり方に影響を及ぼした。

ナチスの発明

野蛮で残虐な侵攻や迫害は世界のあらゆる国、あらゆる民族でも行われた。それが最も極端な形で現れたのがナチス(ヒトラー)である。人類は、ナチスが何を思い、何をやったのかを、もっと冷静に、もっと深く知る必要がある。ナチスの時代を真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観は、そろそろ修正されなければならないのではないか。

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突撃隊の急進主義

首相となったヒトラーの最大の危機は、突撃隊によってもたらされた。

マルクス主義が一掃され、一党体制ができあがると、皮肉にも、突撃隊は党内外から「無用の長物」となった。

長いナイフの夜

この頃のヒトラーの一番の関心は、死期が間近に迫ったヒンデンブルクの大統領職を、いかにして自身が引き継ぐかという問題だった。それを実現するために、ヒトラーは軍部の支部を確保するために、ヒトラーはレームの粛清を決断した。軍部が嫌うレームを排除し、軍と競合する突撃隊を無力化することで軍部との信頼関係を確保しようとした。突撃隊の悪評も既に限界を超えてていた。

男色のレームの醜聞をでっち上げ、国家反逆罪の濡れ衣を着せることなど、ヒトラーには簡単だった。ヒトラーは自らの命でレームら突撃隊指導者を殺害した。これが「レーム事件」あるいは「長いナイフの夜」と呼ばれる事件である。

ヒトラーはこのとき、攻撃の矛先を保守派に向け、ユングらも殺害した。パーペン副首相は殺害は免れたものの自宅軟禁となった。

粛清を実行したのは、ヒトラー直属の親衛隊だ。この事件の犠牲者は100人近くに上がった。かつてナチ党の組織づくりに多大な貢献を果たしながら、党の分裂を図ったとしてヒトラーの逆鱗に触れたシュトラッサーも殺された。

ヒトラーは国会でレームが犯した数々の「悪行」を披露し、危機から救った偉大な指導者として喝采を浴びた。

総統の誕生

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領がこの世を去った。

憲法に従えば次期大統領の選挙が必要なところだが、政府は、大統領の死の直前に「ドイツ国元首に関する法」を制定し、大統領の役職と首相の役職を統一し、「ヒトラー総統」に大統領の権限を委譲することを定めていた。この法は「ヒンデンブルクの逝去をもって発効する」ため、ヒトラーはその日のうちに「総統」になった。ブロンベルク国防省おwはじめ、全軍の将兵が総統に忠誠を誓った。こうしてドイツ史上最大の権力をもつ独裁者が誕生した。

大国ドイツへの道

「ナチ時代の前半を生きたドイツの人々がこの時期を比較的良い時代と記憶したのはなぜか」という問いへの答えは、雇用の安定と国民統合にあった。しかしそれでもまだ解決の糸口も見いだせない難問が数多くあった。

領土・国境問題に関しては、国際連盟の管理下に置かれたザール地方が住民投票を経てドイツに返還される見通しがあったが、ポーランドに割譲された。ヴェルサイユ条約で禁じられたドイツ民像の自決権、すなわちドイツとオーストリアの合邦も実現の可能性はなかった。フランス軍が撤退したといってもラインハルトにドイツの主権が及びそうになかった。

ヒトラーは第一次世界大戦での国民の屈辱感と怒りを束ね、反ヴァイマル、反ヴェルサイユへ誘導することに成功した。

ヒトラー政府の発足に国際連盟は危機意識を持ち、ジュネーヴ軍縮会議を再開させた。

ドイツは秘密裏に軍拡を進めていたから、西欧列強を避難する資格はない。だがジュネーヴ軍縮会議を決裂させないと、ドイツが軍備管理体制下に置かれ、軍備増強の可能性が完全に失われてしまう。それを未然に防ぎ、逆に軍拡を進めたい。これが1933年10月に国連を脱退したヒトラーの狙いだった。

孤立への道

ヒトラーは独自の判断で、ポーランドとの相互不可侵条約を締結させた。ポーランドはドイツが国連から脱退しことに不安を募らせていた。

この条約は国際的に大きな反響を引き起こした。まず、ドイツを共産主義に対する防塁として期待するイギリスは、本条約を行為的に評価した。一方、ソ連はこれを自国への脅威とみなし、ドイツへの警戒を強めた。そして、同様にドイツへの反発を強めるフランスに接近した。この意味で、ドイツ=ポーランド不可侵条約の締結は、戦間期のヨーロッパ国際秩序を流動化させる牙億剤のひとつとなった。

ヒトラー政権の発足はオーストリアにも不穏な事態を引き起こした。ヒトラーがドイツとオーストリアの合邦をドイツ民族の自決権の表れとして公然と求めていたからである。オーストリア事態にはドイツと合邦を求める動きもあったが、ヒトラー政権下のドイツとの合邦には反対する意見が強かった。そこでヒトラーは、ナチ党の姉妹政党であるオーストリア・ナチ党を支援し、政権を握らせ、オーストリアをナチ化すれば良いと考えた。オーストリアの首相は、ヒトラーのこうした動きを内政干渉とみなして反発し、ドイツとオーストリア関係は冷え切った。

そこでオーストリアは、ヒトラーの動きを牽制するため、フランスとイギリスを誘ってオーストリアの独立維持を確認する声明を出した。

オーストリア・ナチ党は首相によって非合法化されたが、ドイツのナチ党の支援を得てクーデターを企て、オーストリア首相のドルフースの命を奪った。ドルフース殺害に衝撃を受けたムッソリーニは、オーストリアとの国境に位置するブレンナー峠に軍隊を集結させてヒトラーを威嚇した。オーストリア首相殺害への関与を疑われたヒトラーは国際的な批判に晒された。

ヒトラーのオーストリア併合の動きに反発したのは、イタリアだけではなかった。フランスは、欧州国際秩序の現状維持を求めてイギリスとイタリア、オーストリアに対独包囲網の結成を働きかけた。ドイツ=ポーランド不可侵条約の締結に反発したソ連はフランスに接近し、国際連盟に加入した。

ドイツの国際的な孤立は明らかとなり、ヒトラーは、オーストリア併合の意図はないと言明せざるを得なかった。

独英同盟

ヒトラーはついにヴェルサイユ条約を破る行動に出た。ヒトラーは公式に再軍備に着手することを宣言した。

フランスアはドイツの一方的な条約は機に抗議した。フランスが国連に提訴したことを受けて、フランスとイギリス、イタリアの三国が再度ドイツへの抗議の意を表すことを決めた。さrないフランスは、ソ連と相互援助条約を結んで対独包囲網を形作った。

それでもヒトラーはやめなかった。イギリスはドイツに柔軟な姿勢を見せており、ムッソリーニはアビシニア(エチオピア)で戦争を始めようとしていたからだ。西欧列強が一致団結して対独包囲網を完成させることはないとヒトラーは考えていた。

ドイツの孤立を救ったのはイギリスだった。イギリスはドイツの軍拡が止められないのなら、ドイツに制限を課すのが妥当と考え、英独海軍協定を締結した。この協定では艦隊建設は英独比率100対35とされ、対英比率50%を求めていたドイツの軍部は不満だった。ヒトラーは大満足だった。ヴェルサイユ体制を支えてきたイギリスが、自らドイツ軍の軍拡を認める協定に調印した。ヒトラーはこれで再軍備宣言が承認されたものと理解し、軍拡を一気に加速させた。

イギリスと手を組んで欧州大陸で覇権を握り、ソ連を打倒する。これが、東方に「生空間」を得るためのヒトラーのシナリオだった。

ラインハルトへの進軍

イタリアのアビシニア侵攻で世界中がムッソリーニの動向を気にしていた頃、ヒトラーはラインラルトに軍を進駐した。ヒトラーはフランスとイギリスの反応次第で兵を引く用意があった。しかし、西欧列強は反応しなかった。フランスはちょうど国会選挙の最中だったし、イギリス政府も、ラインラントの再武装化は自国にとって死活問題ではないとみなした。

この進軍はドイツ国内で「ヒトラーは外交の天才」と称えられ、今や不動のカリスマとなった。

アビシニアを侵攻したイタリアに対して、国際連盟は武器記入などの制裁を加えた。イタリアへの批判的な国際世論の中でドイツはイタリアを避難せず、制裁にも加わらなかったが、そのことが、この後ドイツとイタリアを急接近させる要因の一つになった。

進む再軍備

1935年以降、ドイツの再軍備政策は本格的に進展した。

1936年7月、スペインで内戦が勃発すると、ドイツはイタリアと共にフランコ軍側に軍事援助を与えた。これによって独伊両国はさらに接近し、「ベルリン=ローマ枢軸」の形成に繋がった。11月にはドイツが日本との間でソ連を仮想敵とした防共協定を結び、翌年イタリアがこれに加わった。こうしてドイツはイタリアと日本と連携しつつ、「国際秩序の刷新」に乗り出した。

侵攻戦略

ヒトラーはオーストリアとチェコスロバキアを侵略する計画を陸軍総司令官と国防相、外相、空軍相に披露した。反対したものは解任した。

1938年、ヒトラーは、ムッソリーニの了解を得た上で、オーストリアに矛先を向けた。ヒトラーはオーストリアとの国境を越えたが、全く抵抗されなかった。そしてヒトラーはオーストリアの合邦を宣言した。これ以降、ドイツの膨張主義は一気に強まった。

1938年9月、ヒトラーはドイツ系移民が多いズデーテン地方(チェコスロバキア領内のドイツとの国境地帯)の割譲をチェコスロバキアに要求した。ドイツに対して宥和的な姿勢を取り続けていたイギリスは、子な気も交渉による可能性を追求した。そのためドイツのミュンヘンで、ヒトラーとチェンバレン(英国首相)、ムッソリーニ、ダラディエ(フランス首相)の4者による会合が開かれた。これが有名なミュンヘン会談である。

その半年後、ヒトラーは「残りのチェコ」と呼ばれたベーメン・メーレン地方に侵攻し、プラハを制圧した。それでも列強は介入しなかった。これで調子に乗ったヒトラーは、リトアニアにメーメル地方の返還を、ポーランドにはダンツィヒと「ポーランド回廊」の返還を要求した。

ここまできてイギリスがキレた。これまでの対独宥和政策を放棄した。そしてドイツの領土要求に反対して、ポーランド支援を約束した。

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの相互不可侵条約とイギリスとの海軍協定を破棄し、8月にはソ連と相互不可侵条約を結んだ。その翌月、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火蓋が切られた。

絶滅戦争

1940年4月、ドイツ軍がデンマークに侵攻し、ノルウェー攻略に成功した。5月にはベルギーとオランダ、ルクセンブルクに侵攻し、ベルギー救援に出動した英仏両軍を撃破した。ドイツ軍はパリを目指して進撃し、6月14日、パリを陥落させた。

フランスの降伏を受けて、ユダヤ人問題の解決に新たな可能性が生じた。フランス領マダガスカル島へのユダヤ人移住計画である。

このマダガスカル計画を実現するためには制海権が必要なため、イギリスと講話する必要がある。そこでヒトラーは1940年夏にイギリス本土上陸作戦を決意した。イギリスのチャーチルが徹底抗戦し、ドイツは本土上陸作戦を断念せざるを得なかった。その結果、マダガスカル計画は実行できなかった。

ドイツでは、行き場の失ったユダヤ人を一時的に交流するゲットーの建設が始まった。ゲットー建設は、こうした移住政策の行き詰まりに対応するものだった。

独ソ戦とホロコーストの始まり

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破ってソ連領内に侵攻した。こうして始まった独ソ戦はホロコーストの引き金になった。

ヒトラーはこの戦争の目的を「ユダヤ=ボリシェヴィズム」が支配する現下のソ連を倒し、広大なヨーロッパ・ロシア平原に「大ゲルマン帝国」の発展に必要な「生空間」を樹立することを求めていた。「生空間」は、「大ゲルマン帝国」が欲する食糧・原料・労働力を提供する場であり、そこにユダヤ人に居場所がないとした。

親衛隊行動部隊は独ソ戦の短期決着を信じて、競い合うように「成果」を増大させた。独ソ開戦公判で50万人委譲のユダヤ人が殺された。この残虐極まりない蛮行が事実上のホロコーストの始まりだった。親衛隊行動部隊だけではなく、ドイツ軍もユダヤ人虐殺に荷担し、ソ連軍捕虜に対しても国際法を無視した蛮行を加えた。

ナチ強制収容所

ナチスの強制収容所について書かれた本は多いが、それらは特定の収容所での体験記やユダヤ人の虐殺を扱ったものなどで、強制収容所体制の全体をカバーするものは、これまでなかった。本書は、主要な収容所をすべて取り上げて、その誕生からドイツ敗戦による解放に至るまでの過程を描き、1933年から12年間続いたナチ収容所体制の歴史をたどった初めての試みである。

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落日のヒトラー

ドイツはフランスを打倒した後、次の目標をイギリスに定め、英国本土を空襲を始めた。だがイギリス軍の決死の反撃にあい、逆にドイツ諸都市を英軍の空爆にさらしてしまった。1941年2月、ドイツは同盟国のイタリアを支援するために、北アフリカへ進軍し、4月にはユーゴスラビアとギリシアを攻略した。そして6月、ソ連領内に侵攻した。独ソ戦は長期化した。

ドイツはその頃に対アメリカ戦に踏み切った。

ヒトラーは戦果を上げられない陸軍総司令官を更迭し、自分がその任に就いた。ドイツ軍の苦戦が続き、戦果をあげられない状況が続くと、ヒトラーは国民音前に次第に姿を見せなくなった。戦果をあげられないので、さすがのヒトラーもそのカリスマ性を維持するのが難しくなった。

そして、1943年2月、スターリングラードの戦いで負けた。この敗北はヒトラーのカリスマ性を揺るがす決定的なきっかけとなった。

ゲッベルスは国民に「総力戦」を訴え、新たに軍需生産大臣となったシュペーアものとで戦争経済の立て直しを図ったが、戦局の悪化を止めることはできなかった。1943年5月、北アフリカ戦線でドイツ軍は降伏した。7月にムッソリーニが失脚し、イタリアは戦線から離脱した。ソ連軍は大攻勢に出て中央ヨーロッパに侵入した。1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を果たした。

絶望的な戦争を続けるヒトラーに不満を持った陸軍将校たちがヒトラー暗殺計画を実行した。この暗殺計画は失敗した。

ヒトラーは最後まで徹底抗戦を訴えた。人々は、連合軍に占領された自分の身に何が起きるのか。生き延びたユダヤ人は報復してくるだろうか。絶望するものもいれば、最後の決戦に向かう者もいた。ナチズムの思想を叩き込まれた十代の若者は国土防衛に自ら身を投じ、その多くが犠牲になった。

1945年3月、連合軍はついにライン川を越えた。4月にはソ連軍がウィーンを占領し、やがてベルリンはソ連軍に包囲された。4月30日、ヒトラーは瓦礫と化したベルリンの地下壕で、直前に結婚したエファ・ブラウンと共に自殺した。

水晶の夜

1938年6月にミュンヘンであるユダヤ教会堂がナチ党員の手で破壊された。これは5ヶ月後の「水晶の夜」事件に向けた予行演習だったと言われている。

10月には、ポーランドからドイツに出稼ぎに来ていた約1.7万人のユダヤ人に国外退去命令が下された。これに反発した出稼ぎポーランド人の息子、17歳のユダヤ人少年がパリのドイツ人外交官に発砲して重症を負わせると、ヒトラーはこの事件をユダヤ人政策を急進化させる道具として徹底的に利用した。

事件の2日後、11月9日にその外交官が亡くなると、ゲッベルスはミュンヘンのナチ党集会で、この事件の責任はユダヤ人にあるとして、国民のユダヤ人への怒りを激しく煽った。ゲッベルスへの扇動演説の後、ナチ党大管区長はそれぞれの地元にユダヤ人への報復措置の実行を命じた。その直後、全国各地のユダヤ教会堂、ユダヤ人の商店や企業、事務所、学校などがいっせいに襲撃され、放火され、破壊された。ユダヤ人は住まいから外に引きずり出され、辱めを受けた。

ユダヤ人に襲いかかるナチの若者たちと、それを制止することなく見て見ぬ振りをする傍観者。燃え盛る教会堂を前に呆然自失のユダヤ人。消防活動は禁止され、中世から続いたドイツ・ユダヤの貴重な財産が全て灰燼に帰した。

路上に散らばったガラスの破片のキラメキからこの事件は、「水晶の夜」」とも呼ばれた。数百人のユダヤ人が殺されるか、自ら死を選んだ。約3万人のユダヤ人男性が強制収容所に連行され、財産の放棄と即時出国に同意するよう強制された。

ヒトラー政府の反ユダヤ教政策はこの事件の後、さらにエスカレートした。

ドイツは、1918年に帝政が共和制に移行し、ヒトラーの独立体制が成立する。そのドイツは第二次世界大戦に敗れたため、連語軍の占領下に置かれ、そこから東西ふたつのドイツが誕生した。その後、西は議会制民主主義、東は社会主義独裁という別々の道を歩む。そして、東の独裁体制が崩壊し、西の手動でふたつのドイツがひとつになったのが、1990年のドイツ統一だった。

今日「先進国」とされている国で、70年ほどの間にここまで怒涛の経験をした国は他にない。

タイトルにもある「ヒトラーとナチ・ドイツ」の歴史は、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

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