読書ノート

ナチ強制収容所

ナチスの強制収容所について書かれた本は多いが、それらは特定の収容所での体験記やユダヤ人の虐殺を扱ったものなどで、強制収容所体制の全体をカバーするものは、これまでなかった。ナチ強制収容所―その誕生から解放までは、主要な収容所をすべて取り上げて、その誕生からドイツ敗戦による解放に至るまでの過程を描き、1933年から12年間続いたナチ収容所体制の歴史をたどった初めての試みである。

強制収容所の誕生

ヒトラーが初めて首相になった時、ナチ党の閣僚は3人しかいなかったため、思うように事を運ぶことができなかった。そこでヒトラーは、もう一度総選挙をして、ナチ党の議席数を増やし、できれば単独政権を作りたいと考えた。組閣2日後、議会解散をして総選挙を実施することを発表した。

選挙戦に入ると、ヒトラーとナチ党は、政権の座にあることを良いことに、反対党の弾圧に血道を上げることになる。なかでも共産党への迫害はすごく、デモを禁止されたり、修顔を規制されたりいやがらせをした。さらに、共産党本部のリープクネヒト館がナチ党の武装勢力によって選挙されるという一幕まで起きた。同じ左翼陣営に属する社会民主党や労働組合も同じ様な被害を受けた。この時期に、ゲーリングはプロイセン警察のナチ化に取組み、全ての警察官に対して、「反政府デモを粉砕するためなら自らの判断で武器を使用しても良い」という許可を与えた。さらにナチ党の武装勢力である突撃隊、親衛隊、それに党外の国粋反共武装集団「鉄兜団」を作り、補助警察官の資格を与えた。

ベルリンにある国会議事堂が放火されるという事件が起きたことがきっかけで発令された国会炎上緊急令に基づき、共産党員や社会民主党員、心情的反ナチ分子、共産党に同調するジャーナリスト、劇場支配人など2万人を逮捕した。これほどの多くの逮捕者が出ると、既存の拘置所や刑務所ではとうてい収容できない。そこで考え出されたのが強制収容所である。ドイツ湖構内のあちこちにある工場跡や古びちゃ兵舎、空きビル、倉庫、石炭置き場などが突撃隊や親衛隊の手で勝手に徴発されて、そこに逮捕者がぶち込まれるようになった。この時既に各収容所では、交流者に対する突撃隊員や親衛隊員らによる拷問や虐待は始まっていた。

突撃隊と親衛隊

突撃隊

ナチ党は、誕生直後から党集会の弁士や聴衆たちを反対勢力の攻撃から守るための武将集団を持っていた。これが突撃隊である。

突撃隊は、ミュンヘン一揆失敗後、バイエルン州政府から解散を命じられた。解散を命じられた突撃隊の面倒はレームが面倒を見た。その頃から突撃隊の隊員たちは褐色のシャツを着るようになった。これは、第一次世界大戦中にドイツ軍東アフリカ植民地防衛隊が制服としていた物の余り物をレームが手にれてきて着せたのが始まりで、以後、「褐色シャツ」はナチ突撃隊の代名詞となった。

出獄したヒトラーは党再建に乗り出すが、突撃隊の面倒を見てきたレームは、それから間もなくの1925年5月、ナチ党から離れて南米ボリビアに軍事顧問として赴任する。ヒトラーはザロモンという元軍人を突撃隊最古司令官に起用した。ザロモンは突撃隊に軍隊調の起立と外観を取り入れて、これを秩序ある集団に育て上げ、隊員数も2万から6万人にまで増強させた。しかし、突撃隊副官がナチ党幹部を批判するという事件がきっかけで責任を取らされて罷免される。

その後のザロモンは、叔父が枢機卿であったところからドイツを脱出するのに成功して、中国に渡って蒋介石のボディーガードの職を得ている。

ザロモンを解任したヒトラーは、突撃隊を任せることのできるのは、レームしかいないと悟り、レームに帰国を促した。帰国したレームは、突撃隊の育成に再び取り組んだ。

レーム指揮下で突撃隊隊員数は増え、ナチ党が政権を握る1933年には隊員数は50万人を上回るほどまでに膨れ上がった。突撃隊の急膨張は、レームのだけの功績だったわけではない。世界恐慌のあおりを受けて街に失業者があふれる状況の中で、職を失った若者たちの多くが衣食を求めて突撃隊になだれ込んできたからである。この時期には多数のヤクザまがいの犯罪者や左翼崩れの労働者までが突撃隊に紛れ込んできて、突撃隊そのものがならず者の集団といった趣を呈していた。

ヒトラーが政権を握ると、レームら突撃隊の幹部は、50万人の隊員を背景に、政府に要求を突きつけてきた。ヒトラーの意見とは違っていたため、ヒトラーは突撃隊退治に乗り出した。1934年6月30日、レームは、ヒトラーの命令を受けた親衛隊員によって殺された。「長いナイフの夜」と呼ばれるこの粛清劇では、突撃隊幹部だけなく、ヒトラーの積年の政敵だった人物たちも犠牲者の中に含まれていた。

親衛隊

レームが殺されてから凋落の一途を辿った突撃隊に代わってナチ体制内で主役になったのが親衛隊であった。もともとは、突撃隊にわずかに遅れて結成されたヒトラー個人の身辺護衛隊を出発点とするものだった。

親衛隊は突撃隊の下部組織と位置付けられていたが、ヒムラーが乗り込んできてから間もなくの時期に、親衛隊は突撃隊から事実上独立して、制服も褐色の突撃隊と区別するために、頭のてっぺんから爪先まで、ワイシャツを除く全てが黒ずくめとなった。親衛隊をなんとしてもエリートの集団にしたいと念じていたヒムラーは、貴族の称号を持つ上流階級に属する人士を次々に親衛隊の名誉隊員にするという手も打った。

ゲシュタポ(秘密警察)の役割

ゲシュタポは全国的な組織になった後、誰からも監視されることなく、法律をも無視して、いかなる地位にあるドイツ国民に対しても自由に総ッサ活動をすることができるようになった。以後、黒い革のコートに、同じく黒のソフトをまぶかにかぶった精悍な目つきの男たちは、市民太一の恐怖の的になり、ベルリンの市民たちは、容疑者がプリンツ・アルブレヒト街八番地のち過失に連れ込まれて拷問を受けているとの噂を聞いて恐れおののくようになった。

ゲシュタポが容疑者を逮捕するのは、決まって午前3時で、ブレーキ音をきしませながら自動車が急停車すると、中から屈強の二人連れの男が降りてきて、アパートのドアを手荒く叩いて開けさせ、恐怖で立ちすくんでいる妻子の手から容疑者を無理やり引き離して連れ札というのがその常套手段であった。このようにして逮捕された容疑者たちはプリンツ・アルブレヒト街の地下室で拷問され、中には拷問中に殴り殺される者もいたが、多くの場合、その後強制収容所に送られた。

ゲシュタポは、強制収容所贈りにする人物の選定と逮捕勾留の権限を一手に握っていたばかりでなく、各収容所内に「政治局」という名の出先機関を置いて、囚人の処罰や釈放に関しての決定権を行使していた。首領のミュラーは、政治犯や戦争捕虜を強制収容所送りにしたばかりではなく、戦争が激しくなると、多くのユダヤ人を、ただ殺すことだけを目的に平然と収容所に送り続けた。

強制収容所第一号 オラーニエンブルク収容所

ベルリンの北方50キロほどの所にオラーニエンブルクという町がある。ここに1軒のビアホールがあった。このビアホールが取り壊されて「アーツォ電気製作所」という向上になった。ヒトラー政権が登場する直前には、この工場も画期を失い、うちぶれた存在となった。

1933年にはいってナチ党が政権を握ると、この工場は共産党指導者たちを交流する施設に衣替えした。こここそが、ゲーリングが設けさせた強制収容所の第一号、オラーニエンブルク収容所である。

オラーニエンブルク収容所は、建物と周囲は見違えるようにきれいになり、まるで衛生施設ででもあるかのように清潔そのものの外観を呈していた。

オラーニエンブルク収容所交流者の日課は次のようなものであった。5時半起床。6時までに全員が身支度を整え、7時半までに室内換気と清掃、朝食。7時半から12時半までが労働、昼食後30分のっ休憩があり、14時半から16時までが教練、16時から17時半までが運動ということになっていた。運動というのは、「いじめ」「いやがらせ」以外の何物でもなかった。運動チウ名目で、ろうな教育も受けていない突撃隊の若い隊員たちは、高名な政治家や大学教授たちにしゃがんで両腕を前に突き出した格好でうさぎ跳びをさせたりして興に入るのを常とした。戦争が始まると、どこの強制収容所でも、この運動の時間は公然たる集団拷問の時間となり、ずいぶん残忍なことも平然となされるようになった。

実は初期のオラーニエンブルク収容所は、寝床は清潔で、三度の食事はきちんとしていた。後に食べる者が無くて、勾留者が次々と飢えで死んでいったナチ強制収容所の実情を考えると、このころの収容所はまだ優雅で、囚われの身であるということを除けば、勾留社たちの境遇も悲惨であるとまでは決して言えない状態だった。

強制収容所のお手本となったダッハウ強制収容所

ベルリンで突撃隊や親衛隊が反対制分子を片っ端から強制収容所に打ち込んで拷問に付し始めたころ、プロイセン州に次ぐ広大な面積を占めるバイエルン州でも、同じく突撃隊と親衛隊が州内のあちこちに勝手に強制収容所を設け、「好ましからざる人物」を幽閉して暴力行為の対象にしつつあった。ミュンヘン警察署長のヒムラーは、腹心のハイドリヒを使ってミュンヘンを使ってミュンヘンの北西15キロにあるダッハウという町に「正式の」強制収容所を設けさせ、その運営の任を親衛隊に委ねることにした。

ダッハウ強制収容所の第二代所長、アイケは所長に就任すると即座に、「親衛隊員は国家の敵(勾留者)に対し、いささかの憐憫の情を持つことも許されず、仏心を抱くような親衛隊員は直ちに除隊して、修道院にでも入るが良い」と看守たちに檄を飛ばして、初代所長が敷いた残忍路線をいっそう強固なものとするのに腐心した。アイケは看守をつとめる親衛隊員に対し、勾留者は国家の敵であるから、できるだけの憎しみを込めた残虐さをもってこれを取り扱うべきであると説く一方、勾留者への罰則を細かく取り決めて、これを激しく実行に移した。

功労者アイケは、やがて新設の強制収容所創刊なる地位に栄転して、こんどはドイツ全土に存在する強制収容所網の整備、強化の仕事に専念することとなる。

ちなみに、不思議なことに、ダッハウ強制収容所の囚人に日本国籍の者が1人含まれているが、これが誰であったのかは分かっていない。

強制収容所を警護する親衛隊どくろ隊

アイケはヒトラーから直々にレームの殺害を命じられ、事件2日目の7月1日夕、南ドイツの保養地、バート・ヴィースゼーで静養中のレームを自らの手で銃殺している。この長いナイフの夜事件をきっかけに、それまで軍部や財界からの揺さぶり、更には労働者の不満などで、とかくもたつきを見せがちであったナチ体制は完全に立ち直り、その後の政権を盤石なものとすることに成功する。

レーム殺害の褒美として、アイケは事件の数日後に、ヒムラーにより強制収容所総監兼営整体強制収容所警護隊司令官に任命され、さらに親衛隊中将に昇進する。

ドイツ全土に散財する強制収容所網の整備、再編成の仕事に精力的に取り組むが、それと並行して、もう一つの仕事である強制収容所警護隊の育成強化をも強力に推進することとなる。

強制収容所を警備・運営する警護隊員は、アイケのアイデアで、制服の右側の襟にドクロの紋章をつけていたころところから、いつしか俗に「どくろ隊」と呼ばれるようになっていた。そのゴン、親衛隊に付属することとなったどくろ隊は、1935年のニュルンベルクでの党大会でヒトラーからナチ・ドイツに奉仕する党の正式期間として認められ、年が明けた1936年6月3日には、ヒムラーから正式に「親衛隊どくろ隊」と命名された。

強制収容所内の1日

あるところに、ゲシュタポから国家の敵と見なされている男がいた。ある日の午前3時ごろ、なんの前触れもなしに自宅でゲシュタポに叩き起こされ、連行される。

父の警察署の勾留場に放り込まれて、係官の手洗い取り調べや、嫌がらせを受けながら数週間が過ぎた頃、ある日、突然、独房から連れ出され、数百人の仲間と共に、強制収容所に移されることとなる。強制収容所へは鉄道で運ばれ、1両の家畜運搬車に150人ほどがすし詰めにされた状態のまま、飲まず食わずの数時間後に、ようやく強制収容所の最寄り駅に到着する。

強制収容所内での起床時間は、夏は午前4時ないしは5時、冬は6時から7時というのが決まりで、起床後30分間に洗面と朝食(オートミールの薄いお粥)、ネオコの整頓を終えていなければならない。その後広場で点呼がある。点呼は日の出まで続き、テンコが終わった時点で踏力の親衛隊看守が「作業台出発」と叫ぶと、全てんお囚人が競って仕事用具を取りに駆けつける。再び列に戻った囚人たちは、看守に蹴られたり小突かれたりしながら正門を出て、その日1日働く作業場(多くは採石場か建設中の道路)に向かう。

辛い労働は夕方まで続く。その間、晴雨に関わらず屋外での30分の休憩があり、オートミールの薄いお粥が配られる。この程度の食糧では激しい労働に耐えていけるわけがなく、力尽きて死んでいく囚人の数が日毎に増えていおく。

労働が終わるのは、夏は午後8時ごろ、冬は午後5時ごろ。その後、収容所に帰ってからは囚人たちには地獄の点呼が待っている。この点呼では、脱走者がいないかどうかの数合わせが親衛隊下士官たちの最大の仕事で、数が合うまで何時間でも点呼は続く。ブーヘンヴァルト強制収容所では、真冬にマイナス15度の中で、全囚人が立ったまま、点呼が19時間続いたという記録が残っている。

数が合ってもそれで終わりではなく、解散前にその日に強制収容所規則に違反した囚人への制裁が、衆人環視の中で行われる。

これが終わるとやっと夕食で、夕食には小さなパンの切れっ端と、わずかなマーガリン、それに、時によって少量のチーズがつくこともあった。夕食の後、終始つきまとっている親衛隊看守らによる最後の囚人への制裁がもう一度あり、それが終わると、やっと勾留者たちはベッドに戻ることを赦される。

看守たちの横暴

靴が汚れていると、手入れが悪いと言いがかりをつけられて殴られた。きれいに手入れをしていると、今度は仕事を怠けているから、そんないきれいにしているのだと言いがかりをつけられて蹴飛ばされたりもした。

ドイツ語を理解できない囚人にとっては、この上ない苦痛であった。点呼では囚人が1人1人登録番号で呼ばれるが、それはドイツ語で呼ばれることになっていた。脱走とか自殺などがあったりして数が合わない時には点呼はいつまでも続き、56時間も続いた例もあった。病気にかかっていたり、怪我をしていたりも、点呼には出席しなけばならなかった。

囚人への虐待は、他の囚人たちの見せしめすることも目的にしていた。

1938年春頃、ブーヘンヴァルト強制収容所で1人のジプシーが脱走未遂で捕まった。所長のコッホはこのジプシーを、人間1人がかがんでやっと入れるくらいの大きさの箱型の檻の中に閉じ込め、その檻を収容所構内中央の点呼広場に放置した。この檻の天井部分には有刺鉄線が貼り付けられていて、ジプシーはしゃがんだ姿勢のままでいなければならなかった。やがてコッホは、この檻の側面の全体に長い釘を打ち込ませた。その結果、ジプシーは左右両側と天井のいずれの方向に体を動かしても、金属製の針状の物体が肉に食い込むこととなり、身動きできない状態となった。ジプシーは、この状態のまま衆人環視に晒され、その間、水も食べ物も与えられなかった。三昼夜の間、このジプシーのうめき声があったり響き渡った。その声は、とてもこの世のものとは思えないほど悲痛なものであった。この所長イルゼ・コッホは、「ブーヘンヴァルトの魔女」と呼ばれた女性である。

女だらけの監獄 ラーヴェンスブリュック収容所

1938年3月のオーストラリア併合、1939年3月にチェコスロバキアを買いチアして、ドイツが事実上経号してから2ヶ月後の1939年5月に、ベルリン北方90キロの湖のほとりの沼地に、女性専用の施設としてラーヴェンスブリュック強制収容所が完成した。

囚人が女性ばかりだからといって、ラーヴェンスブリュック収容所での囚人の扱いが甘いということはなかった。むしろ、点呼が1日に4回もあたり(他は通常3回)、1日の労働時間が12時間と長かったり、むち打ちの刑が25回の他に50回と75回のものもあったりといったぐあいに、ラーヴェンスブリュック収容所では、他の強制収容所よりも厳しいところさえあった。

ラーヴェンスブリュック収容所の女性看守は、全般的に太っていて、がっしりとした体つきの女が多かった。

囚人の中に少数の男性がいたとはいうものの、大部分がじょせいであったうえ、看守にも女性が多かったので、数少ない男性を巡っての男女関係にまつわる意見が多かったのもラーヴェンスブリュック収容所の特色であった。

女性看守の身持ちの悪さには、目を覆わせるものがあった。中には盗みをして刑に処せらる者も少なくなかったし、ひどい女になると男または女の囚人と性交渉を持ち、それがバレて、自分自身が同じ強制収容所の中で囚人に転落する者までがいた。

ラーヴェンスブリュック収容所では、女囚を使っての医学実験も盛んに行われた。多くの女囚が、人骨移植をはじめとする、様々な生体実験のモルモットに使われた。中でも、世界的に有名な外科医ながら親衛隊軍医としてナチ高官の侍医をも務めていたゲプハルト博士の外傷に関する実験には、14歳の少女をはじめ女子高生や女子大生がモルモットとして使われ、中には実験中に死んだ者もいた。

女性看守たちは、強制収容所に配属されてくると、その殺伐さに、まずはおじけづいて戸惑いを見せるのが普通で、所内の雰囲気に慣れるまでには平均して1〜2週間が必要だった。

しかし、ひとたび強制収容所の空気を飲み込むと、サディズムだけならまだしも、女性看守たちの性的行動は乱脈を極めた。既婚・未婚に関係なく、全ての女性看守が、男性の親衛隊の中に1人か2人の愛人を持っているのが普通で、しかも絶えず新たな男を物色するというありさまであった。

これら女性看守たちの最大の楽しみは飲めや歌えの宴会で、囚人たちが飢えに苦しんでいる中にあって、どんちゃん騒ぎのげく、泥酔して乱交に及び、翌朝には、前夜どの男と寝たかも覚えていないといったでたらめぶりであった。

女性収容所の女囚たちを最も苦しめたのは水不足だった。何ヶ月も体を洗うことができなかったため、数千人の女たちの発散する悪臭は、勾留棟に近づくのさえはばかられるほどであったし、何よりも飲料がないのが女囚たちにとっては耐えられないことであった。女性収容施設全体で井戸は1つしかなく、その井戸の中に数体の死体が浮かんでいたこともあった。それでも乾きに苦しむ女囚たちは、それらの死体を井戸の底に押し沈めて水を汲み出すことまでした。自分の小便を飲むと言った場面さえ見受けられた。

夜と霧

転送が始まり、占領国の抵抗運動家からのテロ活動に手を焼いていたドイツ国防軍最高司令官ヴィルヘルム・カイテル将軍は、開戦から3年目に入った1941年12月、ヒトラーの署名を得て、「夜と霧」という名の政令を布告した。その際にカイテル将軍は「ドイツ国に危害を与えた者は、夜と霧の中を、ドイツに身柄を送られる」と註釈を加え、具体的には占領ドイツ軍に少しでも危害を加えた対独抵抗運動家は全て、身柄をドイツに送られ、その行方や消息については、いっさい縁者にも教えない、というドイツ側の方針が明らかにされた。

夜と霧の囚人については不明の部分が多く、7,000人ほどと推定される犠牲者が強制収容所内でいかなる運命を辿っかは、文字通り夜と霧に包まれている。

強制収容所にもあった売春宿

人類最古の職業と言われる売春は、この世の終わりを思わせるナチ強制収容所の中にも、れっきとして存在していた。1943年6月末、ヒムラーの命令により、強制収容所内に売春宿が設けられた。

若い女性が連れてこられて「商売」をさせられた。女性たちは、6ヶ月のお勤めが終われば、強制収容所から開放されると約束を与えられていた。

売春宿といっても全ても囚人が利用できるというものではなく、囚人役職者だけが、2マルクを支払えば20分間だけ売春婦を相手にできるという仕組みであり、これは全ての強制収容所に共通していた。後に、囚人の労働生産性が重視されるようになると、労働能率の高い囚人が、褒美として売春宿を利用するのを赦されるようになるが、それでもユダヤ人囚人が出入りsるうことは禁じられていた。

強制収容所内での「性」を語る場合、売春宿よりも遥かに重要だったのが、男女ともに同性愛が横行していたことである。どこの強制収容所でも、幼いと言った方が速い少年少女たちが囚人役職者や親衛隊看守の見回りの面倒を見るよう配置されていて、これら少年少女たちは、同性の大人たちの性の慰み者にされるのが普通だった。これら少年少女たちはその代償として、強制労働を免除されただけでなく、食品や医薬品もふんだんに与えらrて特権的な生活を送ることができた。

アウシュヴィッツのガス室

ポーランド作戦に区切りをつけたドイツ軍は、年が明けた1940年の4月から5月にかけて、突如西部戦線に兵を回し、ルクセンブルクとオランダ、ベルギーを一周してフランスになだれ込み、6月14日にはパリ入場を果たした。

ちょうどその頃、親衛隊の総帥ヒムラーは、ドイツが手に入れたポーランドの南西部クラクフ南西50キロにあるオシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)の近くに強制収容所を開設した。これが、かの悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所であった。1941年に入ると、ヒトラーはヨーロッパに住むユダヤ人を皆殺しにすることを決めた。アウシュヴィッツを訪れたヒムラーは、この収容所の収容能力を3万人程度に拡大し、アウシュヴィッツ強制収容所の近くに10万人を収容できる施設を建設させた。

アウシュヴィッツ収容所長ヘスは、ヒムラーの構想を実現するためにチクロンBを使ってガス殺の実験をした。チクロンBは、ドイツ陸軍で殺虫剤として使用されていた薬品だが、ヘスは、この薬品が人間を殺す上でも、それまで他の強制収容所や安楽死センターで使われていた一酸化炭素よりも手早く確実であるという点で格段に優れていることを発見した。以後、アウシュヴィッツ収容所でのガス殺には、もっぱらチクロンBの方が使われることになった。

犠牲者は、シラミ退治をするので着物を脱ぐようにと命じられ、裸になったところをガス室に押し込められた。

犠牲者がガス室の中に詰め込まれ、入り口が封鎖されるとすぐに国際赤十字のマークのついた後宮自動車が到着する。親衛隊下士官がチクロンBを入れる。チクロンBは空気に触れると青酸ガスに変じる性質があり、ガス室の中にはたちまちガスが充満して、5分ほどで室内の全員が殺されるという仕込みであった。ガス殺が終わってから20分ほどが経過した時点で、換気装置が作動し始め、ガスが室外に排出される。それからガス室の入り口が開かれると、それから後はユダヤ人たちから成る死体処理の特別作業帯の出番である。特別作業帯の隊員たちは、まず死体を点検して金歯や金の指輪のたぐいをもぎ取り、そのあと死体を焼却炉まで運ぶ。

ガス室を使ってのユダヤ人大量虐殺は、1944年飽きまで絶え間なく続けられた。

ガス殺が終わった後のガス室の中では、死体は床にまんべんなく横たわるといった状態ではなく、天井まで高く重なっているのが普通だった。これは、ガスが低いところから徐々に上昇するからで、室内の犠牲者は少しでも他人よりも上に身を置こうとして、お互い同志で相手を踏み台にすることから起きる現象であった。

そんなわけで、積み重なった死体の山には、下の方に赤ん坊や子供、女性たちの死体があり、最上層部に屈強の若者の死体が乗っかかっているといった状態だった。死ぬまでのわずか5分足らずの間にも、一瞬でも長く生きようとする本能的な闘争があったものとみられ、死体にはその際に受けた生々しいかすり傷があり、口や鼻からは血が流れ、顔面は青く膨れ上がり、誰が誰かも判別できないような状態であることもしばしばあった。しかも、多くの死体には糞尿がべっとりついており、女性の場合には月経の血が股間を流れるといった場面も時に見られた。

犠牲者の髪の毛や、死体が焼却された後に残る灰までが、抜け目なく親衛隊に利用された。髪の毛は業者に売り渡されて潜水艦乗組員用のスリッパの製造の材料とされたり、道路舗装の際の詰め物として利用され、遺灰の方も業者に売り渡されて肥料として使われた。

絶滅収容所

ソ連侵攻作戦の進展に伴い、多数のユダヤ人が親衛隊特務部隊の手で殺されつつあるのを見て、1941年秋に行動を興したのが、ヴァルテ地区の大管区指導者で親衛隊中将のグライザーであった。グライザーは、ゲットーに住む10万人ほどのユダヤ人を始末したいと考え、ヒムラーとハイドリヒにこれを依頼した。その結果「死刑執行館」として送られてきたのが、親衛隊大尉ランゲであった。ランゲは、小さな村に合った1軒の館を改造して、人類史上初の殺人工場ともいうべきヘウムノ絶滅収容所を開設した。

ヘノウム収容所での殺人の方法の特色は、トラックの排気ガスを使っていたことである。トラックはぜんぶで 3台あった。形はどこにでもあるようなごく普通な箱型のトラックだった。後ろに牽引している荷台には、後部に大型の二十の扉がついていて、引っ越し用のトラックのような外観であった。

ユダヤ人たちは、これからドイツに働きに行くのだと告げられ、その前に入浴し、衣服を消毒しなければならないとの説明を受ける。館の中で脱衣して、言われたとおりに貴重品を預けると、ユダヤ人たいはポーランド人の人夫に導かれて地下室に行き、そこに横付けにされているガストラックの荷台に乗り込むよう指示される。トラックの荷台の扉が封鎖されると、ホースを通じて排気ガスが荷台の中に放出され、10分間のうちに中のユダヤ人たちは窒息死するというのが殺人の工程だった。その後トラックの運転手は、死んだユダヤ人たちを乗せたまま、森の中の施設までトラックを運転して行く。そこには、鎖で繋がれたユダヤ人人夫たちの一段が待機していて、荷台の中の同胞の死体から金歯を抜き取り、結婚指輪のたぐいをむしり取ると、あらかじめ掘ってある穴の中に死体を放り込む。その後、ユダヤ人人夫たちはトラックの荷台の清掃をする。それが終わるとトラックは館に引き返して、次のユダヤ人たちを同じ様に始末する。館に到着したユダヤ人全員が始末されるまで、同じことが何度も繰り返される。

収容所解放

ソ連の接近に伴い、ヒムラーは強制収容所の囚人を1人たりとも生きたままで連合国軍に引き渡してはならぬ、と厳命を下していた。それは強制収容所の実態を連合国側に知られたくなかったからである。囚人の身柄を連合国軍に引き渡さないようにするためにの最も良い方法は、これを殺してしまうことであるが、この時点では、どの強制収容所でも囚人を皆殺しにするだけの時間的余裕もなければ、殺人施設などの物理的条件からも不可能だった。囚人を引き連れて収容所から撤収するほかなく、その後、どの強制収容所もこの集団に頼ることになる。

1944年11月に入ると、ヒムラーの命令でアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人の選別とガス殺は中止され、その月の下旬には、これもヒムラー自らが収容所内の殺人施設の全てを解体するよう命令した。これを受けて、12月に入ると新たな作業隊が組織され、この作業隊が、それまでユダヤ人の死体の焼却に使われていた壕を埋めて、その上に樹木を植えたりしてカムフラージュする作業に取り掛かった。

ソ連軍が1945年1月下旬にドイツ国内の奥深くに入り込もうとし始めていたころ、紫衣分戦線でも、米英仏連合軍がライン河を渡る構えを見せていた。ドイツは当座からの挟撃にあって、動きの取れない状態に追い込まれていた。3月に入ると、連合国軍の一部がライン川の渡河に成功し、ドイツ国内になだれ込んだ。

ドイツ国内が戦場と化する中で、国内にある強制収容所のいずれもが難を逃れようと、急ぎ撤収を開始した。しかし、それを追いかけるように連合国軍が進軍してきて、国内の強制収容所も次々に解放されることになった。撤収が子を意味することを知っていた囚人たちは、あの手この手で撤収を妨害しようとした。

正確な人数は誰も分からないが、ナチ体制下に殺されたユダヤ人の数は、600万人と言われている。

1933年から1945年まで続いたナチ体制がドイツ国民と人類の歴史に残した数々の「負」の業績のうちでも、最も罪深い部分だったのが、強制収容所網の設置と、そこで行われた大量殺人であった。ユダヤ人をはじめ、多くの罪のない人々が、ここで、ナチ体制の手先たちの手で、いわれなく殺されていった。その罪深い事実の重みを、現代を生きている我々は、深くかみしめ、今後、人類が再びこのような過ちを犯すことがないよう、誤りなく後代に伝えていかなければならない。

日本では、ナチ強制収容所そのものと、そこで行われた残虐行為への関心が高いが、「アウシュヴィッツ」とか「ガス室」とか「ユダヤ人大量虐殺」といった断片的な言葉だけが独り歩きしている有様で、全体としてのナチ強制収容所の実態は、よく知っているとは言いがたい。ナチ強制収容所―その誕生から解放までは、そうした空白を埋めようとの意図から、ナチ強制収容所の全体像に迫ろうとした試みである。

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

続きを見る

おすすめ記事

読書ノート

2021/4/13

なんでもわかるキリスト教大辞典

キリスト教の教えや特徴、独特の用語をキリスト教の内部にある複数の流れ、要は「教派」ごとに説明している。聖書や神学、教義、教会史、礼拝学、芸術、個人の伝記、信仰録など、キリスト教を知るための切り口は様々だけど、その中でも「教会」に焦点を当てている。図解も多くわかりやすい。

続きを読む

読書ノート

2021/3/31

政治のキホンが2時間で頭に入る

政治とは国会と内閣、裁判所について学ぶことである。この本は政治について「分かった!」という感覚を与えてくれる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/14

医者が教えるサウナの教科書

「仕事ができる人はサウナが好きではなく、サウナが好きだから、仕事ができる」として、サウナへの愛を語っている。理由なしにこれを言うとただの洗脳だが、サウナが仕事のパフォーマンスを上げる医学的根拠をきちんと説明して、医学的に正しいサウナへの入り方(ととのい方)を紹介している。

続きを読む

読書ノート

2021/4/20

プロテスタンティズム

ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明は事実に反する。ルター自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。

続きを読む

読書ノート

2021/4/21

ナチスの発明

野蛮で残虐な侵攻や迫害は世界のあらゆる国、あらゆる民族でも行われた。それが最も極端な形で現れたのがナチス(ヒトラー)である。人類は、ナチスが何を思い、何をやったのかを、もっと冷静に、もっと深く知る必要がある。ナチスの時代を真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観は、そろそろ修正されなければならないのではないか。

続きを読む

読書ノート

2021/4/22

楽しみながら学ぶベイズ統計

面白くて多様な事例を使って、ベイズ統計の基礎と活用法を解説する入門書である。本書をマスターすることで、不確実な事柄を数学でモデル化して、限られたデータの中でより良い選択を行えるようになる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/28

仏教が好き!

根っからの仏教好きな二人による仏教の愛の対談。古色蒼然とした仏教イメージが一気に吹き飛ばされる。

続きを読む

読書ノート

2021/5/27

日本人のための第一次世界大戦史

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。歴史からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代を正しく理解するということ。まず第一次世界大戦という基本的な史実を知らなければならない。

続きを読む

読書ノート

2021/5/20

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

続きを読む

読書ノート

2021/6/6

物語創世

文字を読むことができる人は一読に値する本。聖書からハリー・ポッターまで、書字技術の発展と共にそれらがどう広まり、どのように宗教、政治、経済を歴史や人物そのものを変えていったのかを説いている。

続きを読む

読書ノート

2021/6/8

日本車は生き残れるか

本書は、欧米に比べて日本がいかにダメなのかを語るのが目的ではない。日本の自動車産業も一刻も早く、モノづくり以上の付加価値を生み出すことで、「日本経済の大黒柱」であり続けて欲しいと願っている良書である。

続きを読む

読書ノート

2021/8/21

完全教祖マニュアル

新興宗教の教祖になれば夢は全て叶う。本書を読むだけで遥かに有利なスタートを切れる。本書を信じ、本書の指針のままに行動してください。本書を信じるのです。本書を信じなさい。本書を信じれば救われます。

続きを読む

読書ノート

2021/9/20

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。

“終わりの見えない戦乱の世”も、まさに先の見えない時代であった。そんな時代を生き抜いた武将たちのエピソードが、参考にならないわけがない。歴史は、失敗も成功もバズりも炎上も書いてある、生きた教科書である。

続きを読む

 

 

 

 

 

 

 

-読書ノート
-,

© 2023 Fukurogiブログ Powered by AFFINGER5