読書ノート

物語創世

もし文学が存在しなかったら、出版業界はもちろん無いし、アマゾンもおそらく無い。眠れない夜にベッドで読書なんてできない。それだけではなく、学校で習うことは口伝になるため、一言一句覚えないといけない。受験勉強は僕らが経験したものより地獄になる。哲学的思想とか政治的思想も生まれていなかったはずだ。宗教的信念も、それを記した聖典も姿を消すだろう。文学は、日本のポンコツ文学部学生や読書家だけのものではなく、地球で暮らす人類の生活を形作っている。

紙というのは、中国で生まれてアラブ世界を経てヨーロッパやアメリカに伝わった。本は古代ローマの有用な発明品で、ページに文字を記したのは印刷。印刷は中国で発明されてアルプス以北のヨーロッパでさらに発展した。

物語が文字と遭遇した時に文学が生まれた。それまでは口伝で様々な規則や目的を共有していたが、これが文字と結びつくと文学が生まれた。文学の歴史を語るには、語りだけでなく、アルファベットや紙、本、印刷といった創造的技術の進化にも着目する必要がある。物語創世:聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力は、書字技術における最新の革命であるコンピューターの影響を大いに考慮して文学の歴史を記している。

アレクサンドロスの寝床の友

マケドニアのアレクサンドロスは、古代ギリシャの都市国家を統一し、ギリシャからエジプトまでの王国を整復した。強力なペルシャ帝国を破り、インドまで広がる帝国を築いた。しかもこれを13年もかからずやってのけた。

アレクサンドロスは、遠征時に寝床の枕の下に3つの品物を入れていた。1つめは短剣で、2つめはその隣に置いていた箱、その箱の中に3つめの品物である「イリアス」を入れていた。

アレクサンドロスの父親の最期は暗殺だが、これが影響して短剣を枕の下に入れていた。アレクサンドロスの父フィリッポス二世は、カイロネイアの戦いの後、フィリッポス二世の臣下の恋人が強姦された。その仕返しをやってくれと臣下がフィリッポス二世にお願いしたが、フィリッポス二世はそれを無視した。臣下は、恋人が強姦された怒りを、犯人じゃなくてフィリッポス二世に向けて、フィリッポス二世は刺殺された。アレクサンドロスは父と同じ運命を逃れるため、寝る時でさえ短剣を肌見離さず持ち続けた。

箱は、ペルシャ王ダレイオスから強奪したものだった。

イリアスを携帯しのは、アレクサンドロスが自らの遠征や人生を眺める際の視点となり、世界征服を成し遂げる心情を捉えた基盤テキストだったからである。ホメロスの叙事詩は、何世代も前から古代ギリシャ人にとっては基盤テキストだった。アレクサンドロスにとっては聖典と言っても良いほどの位置を占めていた。遠征に持参したのはそれが理由である。アレクサンドロスは、このテキストを読み、吟味するだけでなく、書かれている内容を自ら再現しようとした。読者であるアレクサンドロスは、物語の中に自らの身を置き、ホメロスの描いたアキレウスの視点から自分の人生と歩んできた道のりを展望した。

アレクサンドロスは、ホメロスの作品を学ぶことで読み書きを覚えた。フィリッポス二世は、アレクサンドロスの勉学の成果に喜び、当時の哲学者の中で最も有名だったアリストテレスを家庭教師にした。アリストテレスは、ちょうど誰よりも優れたホメロスの註釈者であり、ホメロスこそギリシャの文化と思想の源泉だと考えていた。アレクサンドロスはアリストテレスの教育を受けて、ホメロスの「イリアス」をギリシャ文化の生んだ最も重要な物語と考え、アリストテレスの目指す理想、アジアへの進出を支える動機とも考えるようになった。アレクサンドロスが毎晩枕の下に入れていた「イリアス」には、アリストテレスによる注釈が書かれていた。

アレクサンドロスは、紀元前333年にイッソスの戦いでダレイオスが率いるペルシャ軍を破った。その時にダレイオスの母親と妻、娘たちを手に入れたが、その時にダレイオスの持っていた箱も手に入れた。アレクサンドロスは、まだホメロスの描いたやり方できちんと敵を打ち負かしていないということを忘れないように、この箱に「イリアス」を収めた。

ホメロス

「イリアス」はもともと文学作品ではなく、口承物語として生まれた。舞台は紀元前1200年頃の青銅時代。文字もまだ存在しない世界である。

ギリシャ本土のミュケナイでは、「線文字B」と呼ばれる文字体系が生まれていたが、これは経済取引に使われた。トロイア戦争の物語を書き残そうと考える者はいなかった。この物語は、それを専門とする吟唱詩人が大小の聴衆に向けて歌い聞かせるものだった。

紀元前800年頃、現在のレバノンにあたるフェニキアからの旅人が、他のどんなものとも根本的に異なる文字体系を伝えた。あまりにも大きく異なるため、しばらくはその仕組を理解するのが困難だった。それまで使われていた古い文字体系は、牛や家屋、穀物といった対象を表す記号から生まれた。これらの記号が対象の名前を構成する音節も表すようになり、更には個々の音も表すようになった。しかし、すべての記号がもともとはそれ自体で意味を持ち、物か概念と関連した形をしていたので、覚えるのは比較的容易だった。

フェニキア人は、これらの文字体系の長所がまた短所であることに気づいた。意味をもとにして記号を作るなら、記号は数限りなく生まれてしまう。この問題に対して、文字を物や意味の世界との結びつきから切り離すことにした。そして文字で言葉だけを表せば良い。ひとつの記号で一つの音を表し、複数の記号を組み合わせて意味のある言葉を作る。物や意味と結びついた記号をいちいち作るのをやめるのは容易ではなかったが、記号の数が数百個、数千個からほんの数十個に減るので、読み書きがそれまでとは比較にならぬほど簡単になった。これによって文字がそれまでよりも遥かに直接的に発話と結びついた。

そしてこれをギリシャ人が改良してアルファベットが生まれた。アルファベットは、トロイア戦争の物語を書き記すのにピッタリだった。そして書記がこの新しい文字を使って最初にしたのは、物語を書き留めることだった。

詩人ホロメスの名は広く知られているが、トロイア戦争の物語を書き記した才気爆発な書記の名は知られていた。名の知られぬ書記がおそらく独力でひとりの詩人の物語を書き残したおかげで、つまり何世代にも渡って複数の書記と複数の詩人がつぎはぎをして完成させたのではないおかげで、「イリアス」はヘブライ語聖書をはじめとする他の聖典よりもはるかに首尾一貫していた。

「イリアス」と純然たる音に基づくギリシャのアルファベットが結びつくことで強い力を持ち、広範な影響をもたらすことになった。わずか数百年のうちに、ギリシャはそれまでの世界で最も識字率の高い社会となり、文学演劇、哲学が比類のない勢いで発展することとなった。

「イリアス」はあらゆる人が読み書きを学ぶ際に使うテキストであり、ギリシャ語とその文字を広める主たる媒体であった。そして格別に優れた基盤テキストとなった。このことにより解釈の専門家が生まれ、その中にはアリストテレスのような哲学者だけでなく、このテキストに詳細な注釈を加える批評学者も含まれていた。

アレクサンドロスの征服でアルファベットが使われるようになった。アルファベット革命が進展し、エジプトのヒエログリフやマヤの絵文字をはじめとしてアルファベットでない文字体系は駆逐された。現在、アルファベットに抗っているのは東アジアだけであった。小アジアでも他の文化や言語が衰退し、ギリシャ語が普及した。アルファベットの概念が生まれたフェニキアでさえ、ギリシャ語が広まっていった。

アレクサンドロスの文学への貢献

アレクサンドロスの文学に対する重要な貢献はエジプトでなされた。遠征の書記にエジプトを征服した。その後アレクサンドロスは、エジプトの神々に敬意を表し、ファラオの称号を得た。ギリシャ人はエジプト文化と複雑な文字体系を理解できなかったが、それらを古来の叡智の厳選として賛美した。

エジプトをギリシャ化する際に重大な影響を及ぼしたのが図書館だった。エジプトは立地が良く、大きな港となった。図書館的にもその立地は重要だった。アレクサンドリアで取引する船が到着すると、まずは船内にある文学作品を全て図書館に提出せよと命じられた。図書館には多数の写本係が雇われていて、提出された文学作品を全て保存し、世界最大の巻物のコレクションを作り上げた。

図書館の中心にはホメロスの叙事詩があり、普通なら聖典にのみ向けられるような著しい精密さで筆写され、校正され、注釈が加えられた。アレクサンドロスがホメロスの叙事詩を自らの領土全体に広めただけではく、彼の後継者たちもそれらを将来に継承していく施設を作った。

文字の発明

人類は音表象によるコミュニケーションを習得すると、過去や未来、紙や悪魔の物語などを口伝してきた。世界の創造や都市の建設を伝える重要な物語は、その物語を暗記している吟唱詩人が特に命じられて、特別な場面で詠唱することもあった。

しかし、文字が発明されてからない経った後でも、物語を書き留める物はいなかった。吟唱詩人は物語を正確に暗記しており、年老いる前にそれを弟子や後継者に伝えた。文字は今から5000年前にメソポタミアで発明されたが、その目的は物語の記録ではなく、経済や政治のやりとりなどのためだった。

書記

書記は技術を父から息子へと世襲していた。しかし書字の重要性が増すにつれて、この貴重な職業への需要が高まり、書記学校が設けられるようになった。生徒は、湿った粘土を平にのして板状にし、罫線を引き、先端を尖らせた植物の茎を使って粘土版に楔形を刻印する。片面に教師のきれいな文字が記され、反対の面に生徒の不格好な文字が記された粘土板が残っている。

粘土板は小さく、わずか5×8cmほどの大きさに楔形が何行にも渡って刻まれた。ある現存する破片では、バビロンの見習い書記がシュメール語で書字の難しさを「お前の時は下手くそだ!と先生に言われて叩かれた」と愚痴っている。教師も文句をこぼしたりしている。厳しい教師と怠惰な生徒に対する不満というのはいつの世にもあるが、それが人類史王初めて録されたのがおそらくこの時だ。

書記は最初の官僚として、同胞らが畑で肉体労働に勤しむのを尻目に、室内で快適に座り、穀物を数え、契約を結び、記録を管理した。

誰よりも有力な書記は権力の中枢との繋がりを持ち、戦争を始めるべき時や建造物の基礎工事を始めるべき時について、あるいは外出すべきでない時について、王に進言することができた。

さらに訓練された書記の目には、世界全体が解読可能な印で満ちていた。雄牛の内蔵や天空にもメッセージが書かれているが見て取れた。それらは神の記した秘密の文字と言えた。会計の手法として生まれた書字が、周囲の世界に対する人間の味方を変えた。

王が読み書きの基本をわきまえていても、書記の方が実権を握ることができた。

エズラと聖書の誕生

紀元前587年にバビロンの支配者ネブカドネザル二世がエルサレムを破壊し尽くした。その際に国外に追放された4,000人ほどの支配階級で、流浪の末にこの地に定住させられたユダヤ人(バビロン捕囚)にも遭遇した。国を追い出され、艱難の時期を経て、ユダヤ人はバビロン南部のニップールに定住することを許された。

そこにエズラという書記がいた。バビロン捕囚中に生まれ、読み書きのできる王と図書館を擁する文字文化の中心地で暮らしたエズラは、書記学校で学び、様々な文字体系を習得し、書記として成功を収めた。彼が専門としていたのはアラム語だった。そしてこの広大な領土を統括する官僚制の一員として、帝国の出納官の職に就いていた。

当時の書記は、自分たちの征服者のためだけに働いていたのではない。彼らはエルサレムがダビデの家に支配される王国の首都だった時代に書かれた、彼ら自身の物語をこの地に携えてきた。バビロンの文字文化に触発されて、この捕囚の書記たちは自分たちのテキストを書写して保存しただけでなく、それらを編纂し、世界の創造から始まる一貫性の高い物語を生み出した。世界の創造に続いて、彼らの最初の祖先であるアダムとイブと彼らの堕落の物語が記され、さらに人類をほぼ全滅させた洪水の物語が記された。これは「ギルガメシュ叙事詩」で描かれる洪水と驚くほどよく似ている。その次に、メソポタミア出身のアブラハム、モーセに導かれた出エジプト、ユダでの祖国の訴えなど、洪水後の世代の物語が続いた。

彼らの文章には、「ギルガメシュ叙事詩」などと同じ特徴が数多く見られる。起源の物語を語り、読者を周囲の者から切り離し、エルサレムの領土と立派な都市をそのテキストの読者のものだと主張し、それによって読者は、この地からバビロン捕囚へと追いやられはしたが、その土地は自分たちのものだと想像することができた。

エズラが生まれた頃には、これらのテキストは捕囚社会のよりどころとなり、信仰を保証してくれるものとして大事にされていた。昔からの儀式や慣習が巻物に保存差rて知恵の集積となり、礼拝から食べ物の調理法に至るまであらゆることを網羅した規則を事細かに列挙していた。この地域で勢力を広げつつ合ったアラム語を話す捕囚ユダヤ人が増えていたが、そんな中でこれらの巻物はユダヤ人の本来の言語であるヘブライ語を生きながらえさせる役割も果たした。

書記たちは、聖書の中で最も素晴らしく最もよく知られた部分、すなわち創世神話も生み出した。メソポタミアの神話を含め、その種の神話のほとんどでは、紙が苦労の末に粘土で世界とその住人を形づくったことになっている。こうした創世物語を考えだしたのは、肉体労働に慣れた人間だった。

しかし、聖書の創世記の出だしは違う。神は自らの手を汚さない。ひとえに言葉の力によって、どこからともなく世界を生み出した。おこのような創世物語を考え出せるのは、肉体労働から距離を置き、遠い距離を隔てて働きかける言葉だけを使って働く書記たちだ。

紀元前458年、エルサレム

テキストは次第に大きな意味を持つようになり、書記だけのものではなくなっていった。これらのテキストは捕囚社会に特別な作用を及ぼし、これらの物語が鮮明に描き出す先祖の国に帰還したいという思いを掻き立てた。

その先頭に立ったのがエズラだった。紀元前458年、彼はそれまで馴染んてきた生活を捨てて先祖の国へ戻ろうと、捕囚の仲間に呼びかけた。出身部族も職業も異なる者たちがエズラの呼びかけに応じた。バビロン北部のあハヴァ川沿いで野営する彼のもとへ続々と集まった。エズラは自分たちの唯一神であるヤハウェがユダヤの民を守ってくれると高らかに言い、ゆえにペルシャ王に兵士を求めるのは信仰の欠如を示す冒涜的な行為にあたるとした。

エズラの一行はとりたてて苦労することもなく進み、1,000kmあまり行程の後に、ついにヨルダン川を渡った。生まれてはじめて、幾度となく話には聞いていた先祖の国に足を踏み入れる日が来た。

ところが、人の住んでいる気配はなく、どこに目を向けても人がこの地を捨て去ったか、あるいは死に絶えたらしい様子が伺われた。武装した町や定住地は見当たらず、みすぼらしい農民がいるだけだった。彼らは70年前のバビロン捕囚を逃れられるほど身分の低かった者の子孫だった。彼らはギリギリの生活をするのが精一杯で、数々の物語に登場するユダヤの宮殿を想起させるようなことはなかった。バビロンの高度な文明などなく、粗野な農民は話し方も荒っぽく、暮らしぶりも違った。ヤハウェを信奉している者いるにはいたが、礼拝の方式は厳密さを欠いていた。夢の都市だったエルサレムは実は瓦礫の山だった。慰めがひとつだけあった。神殿だけは先に帰還した者たちの手で修復されていた。彼らは、エズラより数十年前に帰還した者だった。

荒廃していのは建物ばかりではなかった。逸脱した宗教的慣習が町に入り込んでいた。雑多な人々がここに居を定め、ユダヤ人が別の民族の人間と堂々と結婚していた。人々がエズラのものを訪れては、ユダヤ人にとって罪となる行為を報告するようになった。エズラは精神的な荒廃には絶望した。エズラは家に引きこもり、この都市とそこに住む者たちの堕落した状態について半日考えた。

そしてエズラは夜の生贄を捧げる儀式の最中に、おぞましい習慣で衝撃を与えた者たちに対して、苦悶の叫びを上げた。自分たちの神をひどく侮辱したとしてこの土地の人々を批判した。批判された側もエズラの言葉を聞いて涙を流した。彼は人々に新たな契約に誓いを建てることを提案し、彼らが同意するとようやくエズラは立ち上がって彼らの誓いを受入れた。それから、この経験に打ちのめさたまま家に籠もり、断食した。

捕囚を経験した男女が集まり、エズラが現れるのを待った。いよいよエズラが現れ、厳格な布告を発した。異民族の妻や子を追放しなくてはならない。帰還者は土地の人間と交わってはならない。捕囚からもっと純粋でもっと熱心な信仰を持ち帰った者は、一致団結してエルサレムの精神的再興に挑むことを誓った。

エズラは人々に誓いを守らせるために考えた。エズラは自分たちの聖書を持ち帰っていた。書記であるエズラは、木材で高い台を作り、12の部族を象徴する12人の代表者を選び、台の両側に6人ずつ、左右対称に12人を配置した。台に上がると、エズラは人々を眺めた。巻物を取り出して示すと、即座に聴衆は神殿で神の前に出た時のように地面にひれ伏した。しかしここは神殿ではなく、エズラは祭司として人々の前に現れたのではない。ただ巻きものを持っているだけだった。このとき初めて、テキストの形をとった神を人間が崇めることとなった。

エズラは朗読を始めたが、彼の言葉を理解できない者がいた。書記室にあった巻物は、町の一般市民には近づきがたかった。聖書の言葉は一般の聴衆に向けて長々と読み上げるのに適していなかった。聖書のヘブライ語は難解で、聴衆の中にはこの地方の共通語であるアラム語しか分からない者もいた。エズラは物語や戒律を翻訳して説明する必要があると悟り、エズラは読み上げては説明と翻訳をするという方法で、文字の読めない者にも聖書の内容を伝えた。

聖書は、ある集団を近隣の別の集団から区別し、集団としての経験を捉え、起源についての確固たる物語を語り、長い年月に耐え、それ自体の維持に学校や書記といった多大な資源の投入を要求するテキストの集積だった。しかし今、エズラの手の中で、新たな性質が現れた。基盤テキストとは、神聖だと宣言され、それ自体が崇拝の対象となるものだった。

巻物の民

エズラの朗読をきっかけに書記と祭司との間で紛争が勃発した。エズラの行動はそれまでの宗教の決まりを変革することになった。エズラの朗読は、ユダヤ人の中で最大の検量を持つ階層をその地位から引きずり下ろしかねない一撃だった。

祭司と書記の対立はそれから200年ほど激化していき、その間にユダヤ人はエルサレムで暮らしながら次第に自治の度合いを高めることができた。

ユダヤ人がエルサレムで暮らすことを許されている間、都市の権力は統治者と祭司、書記の三者間で分配されていた。しかし比較的平穏だったこの時期は長くは続かず、エルサレムはアレクサンドロス大王に侵略され、アレクサンドロスの後継者たちに支配されるようになった。

やがてエルサレムは台頭してきたローマ帝国の目に留まった。西暦70年、ローマ帝国の攻撃にエルサレムは屈し、あれほど苦心して再建した神殿が再び破壊された。神殿を失ったユダヤ人は、シナゴーグで礼拝を行うようになった。そして礼拝は祭司ではなく、聖典を読んで解釈できる書記であるラビが執り行うこととなった。

巻物を手にしたラビが礼拝に集まった会衆に聖なるテキストを読み聞かせる光景は、私達にとって非常に馴染み深い。このおなじみの慣習も誰かが始めたものであり、実際には書記エズラがエルサレムに帰還した時に考案したのだった。エズラの朗読により、私達の知るユダヤ教が生まれた。

ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスの教え

ブッダ

ブッダはインド砲塔部で暮らす王子だった。必要な物は全て召使いか愛する妻が持ってきた。ところが、もはや持ってきて欲しいものなどなかった。自分の足でそこへ行き、自分の目で確かめたかった。(乱交パーティーという興味深い話もあるけど、それは後日書こう)

王は心配し、細心の注意を払って応じの遠出の準備をさせた。王子の繊細な気持ちを乱すものがあってはならない。身体障害者や物乞い、病人、醜い者を決して王子の目に触れさせてはならない。王子を乗せた馬車が宮殿の門から出発するころには、道路は花冠と旗で飾られ、あたり一面に花が敷き詰められていた。

王子はこの遠出の全てを心ゆくまで堪能した。しかし、一人の人物がどこからともなく現れ、歩く音もままならぬ足取りでこちらに寄ってきた。深いシワが刻まれた顔は、醜悪な要望を見せている。たちの悪いイタズラか?応じは御者に問い詰めた。御者は思わずおぞましい真実を王子に告げる。「老いのせいでございます」。「老い」とは何か王子は訪ねた。そして、それは自分にも訪れるのかと。さようでございます、御者は答えた。王子は釈然としないまま宮殿に戻った。この経験のほんとうの意味を何としても理解したかった。

この時と同じような病や死との遭遇を2回経験したところで、応じは偽りの生と感じられるものやそれと結びついたあらゆるものを捨て去ることにした。托鉢をしながら各地をさすらい、人々の施しに頼って暮らした。王子は苦行することにした。王子は手元に残っていたわずかな持ち物と欲望を手放し、食べる僚を減らしていった。ある時、ある女性がやせ衰えたこの苦行者を見つけて乳を差し出した。王子はありがたくこれを貰った。体力がいくらか回復し、心も落ち着いたところで、王子は古いイチジクの木の下に座り、水kらの経験にうちて思いを巡らせた。身体的な苦行をしても心は体から解放されず、むしろいっそう体に意識が向いた。心が鎮まることはなく、逆に激しくかき乱されるばからいだった。

イチジクの木の下に座っていると、老いや病、使徒の遭遇による影響が遠ざかっていくのを感じた。王子はわかりはじめた。これまでに何度も生まれ変わっていて、それらの前世が今、自分の元へ戻ってきたのだ。動物や人間としての生を、彼にこれほどの衝撃を与えた世界自体が唯一の世界ではなく、彼が今では見抜けるようになった無数の世界の一つに過ぎない。彼は自分が今までの6年間の苦行で到達し得なかったものいよいよ到達したことを知った。悟りの境地だ。悟りの境地に達した彼は、ブッダになった。

世俗の執着から解放されたブッダのもとに弟子が集まってきた。苦行者もそうでない者も、バラモンもそうでない者も、続々と集まった。みな、ブッダとともに過ごし、ブッダの教えを受け、ブッダを通じて悟りの境地に達したいと願っていた。

ブッダは、自ら講義するのではなく、弟子たちに質問させ、それに粘り強く答えていった。ときには短文や象徴を用い、ときには説明を要する謎めいた言葉や寓話を語った。教えるというよりこれまでに習ったことの誤りを理解させ、以前の心の性癖や生を拭い去るようなものだった。人や物に対する世俗的な執着、更には自己への執着すら手放すことを求めた。

かつて王子だった者が、自分たちの中で最も身分の低い者にすら目を向け、話しかけ、呼びかけ、まったく別のなにかに関する約束を与えたりする。特権階級に属する者に向けられるのではなく、弟子のひとりひとりに向けられている。これこそ、ブッダの批判するバラモンの排他的な教えと全く違う点だった。

ブッダは特定の弟子だけを特別扱いするのは懸命ではないと思い、後継者を指名することを拒んだ。そうは言っても、師が入滅するとでしたちはひどく悲しみ、狼狽した。教義を誤解していないか、生の実践において誤りを犯していないか、どうしたら確かめられるのか。今まではブッダに正してもらうことができた。

一人のリーダーを建てることを望まなかったブッダの遺志を尊重して、弟子たちは互いを頼り、元弟子たちの大きな集まりを開いた。彼らはともに行いと信念に関する決まりを思い出して修正し、今後、ブッダの弟子であるとは何を意味するのかについて見解をひとつにまとめた。弟子たちの記憶を集めて、ブッダの語った貴重な言葉を保ち、「完璧な智恵の金剛石」のような貴重な教えに誤りが紛れ込むのを防ぎ、のちの世代ににまで正しい言葉が伝わっていくようにした。齟齬が生じたら、改めて弟子の集まりを開いて誤りや疑念を解消することにした。

僧侶たちは聖なる言葉を文字にしたら全てが変わってしまうのではないかと恐れ、文字を使おうとしなかった。聖なる言葉を書き記すことを許したら、その言葉は、書字という新しい技術を支配する者の手中に収まってしまうということを予想した。

そのため彼らが筆記を始めたのは何世紀も後だが、文字は仏教徒が仏教の教えを更に広めるのに役立った。今日まで伝えられているブッダの言葉は全て、彼の死後数百年経ってから書かれたテキストをもとにしており、これらのテキストは後に経典の地位を獲得した。

孔子

孔子は紀元前500年頃、春秋戦国時代の中国北部の地域の指導者である。

孔子は、ある一族に仕えていたが、抗争に巻き込まれた。孔子は若手の官吏らにこのややこしい情勢をどう切り抜けていくか助言していたが、やがて孔子自身がもはや職務と両親を折り合わせることができなくなり、官職を辞して放浪の身となった。孔子の教えは多くの弟子を引きつけ、やがては高名な師となった。

孔子は複雑な言い回しを好まなかったので、孔子の言葉を理解するのは難しくなかったが、簡潔な言葉を十分に理解するには時間がかかkった。「知るとはどういうことか教えてほしいか。知っていることについては知っていると認め、知らないことについては知らないと認める。知るとはおういうことだ」。簡単なことのように聞こえるが、その真意を理解するにはじっくりと考える必要がある。

孔子の死後まもなく、弟子たちが彼の言葉を書き留め始めた。教えを説いた時の会話や状況、質問と答えを文字にし、名言を集めた「論語」が生まれた。論語には、孔子の言葉に関する説明は全くなく、様々な場面で孔子が示したふるまい、孔子が執り行った儀式、孔子が守った慣習だけが記されている。「論語」は孔子の最も印象深い瞬間を描いており、人の生き方を導く指針となった。

ソクラテス

ソクラテスは、団子鼻の居座る幅広の顔は醜悪で、身だしなみもろくに整えていなかった。公衆浴場にもめったに行かず、肌や髪に油をつけることもせず、こうすも普段は使わなかった。サンダルを履くのを忘れることもあった。しかし、だらしのないかっこうをしていながらも、町の若い貴族たちを弟子として獲得していった。

ソクラテスが最も精力的に教えを説いたのは、紀元前399年にごクチュで亡くなる直前だった。ソクラテスは弟子たちに、「哲学とは市に対する備えにほかならない」と告げた。ソクラテスは、世の通念に抗い、民主的投票やくじ引きによる任命から劇場祭に至るまで、町でとりわけ人気の高い行事に疑念を呈したお陰で名をはせた。ソクラテスは、少数の熱心な弟子を獲得したが、同時の多くの敵も生まれた。

ソクラテスも言葉を書き残すのを拒んだ。獄中でもソクラテスは文字を批判したので、弟子たちは師の言葉を書き留めることができなかった。しかし、ソクラテスの最期の数時間に立ち合っていなかったプラトンが、文字によって師の遺産を守ろうとした。ソクラテスは書かれた言葉に質問しても答えが返ってこないということを批判していた。また、文字が言葉をもとの文脈から切り離してしまうことも批判していた。そこでプラトンは、読んだ者が舞台で再現できそうなくらいに、それぞれの対話が行われた時の状況もきちんと記した。書き残された対話の中で、ソクラテスはその弱みや奇行やカリスマ性とともに行き続けた。

イエス

ソクラテスの400年後、イエスが現れた。

イエスは貧しさや無力さ、迫害について、更には新しい生き方についても、人々に理解できる言葉で直接語りかけた。イエスはあらゆる人に、いかに身分の低い者であっても例外なく呼びかけた。

聖書については、イエスには別の計画があった。新たに聖書を作ろうとすれば、前代未聞の冒涜行為とる。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語った。要は、自らを聖書の中に置くということだった。そしてイエスは聖書で予言された者としてふるまった。イエスは聖書であり、聖書を体現する者であった。

イエスの死後100年後も経たないうちに、弟子たちによる口承の伝統をもとにして、イエスの言葉を記した記録が現れた。反逆者だが犠牲者でもあるという、類を見ない英雄を生み出した。これは本来の英雄の描き方とは違ったが、書き手はイエスが普通の人間だった点にイエスの奇妙な魅力の一端があることに気づいていた。イエスの屈辱をあえて書き記したのは、書き手と読み手がそれに共感できるからだった。

パウロはイエスの信者たちの迫害に関わっていたが、ダマスカスへ向かう途中、復活したイエスが自分の前に現れたと感じた時に改宗した。彼は説教師として活動を始め、小アジアを広範に回りながらキリスト教徒のコミュニティを訪ねていった。イエスの言葉を解釈し、それを「キリスト教」と呼ばれる信仰体系に変えた。レーニンがマルクスの言動を解釈してマルクス主義を生み出したのと似ている。

イエスの教えが文字として記録されると、その文字はヘブライ語聖書とどう結びつくのかという新たな問題が生じた。イエスの言葉を記した記録は、ヘブライ語聖書よりもはるかに新しく、実体験から生まれたものであり、パウロによって正統なユダヤ教に対する拒絶を表すものとして広められていたので、同時の力を獲得していった。やがてヘブライ語聖書を単なる古いテキストに格下げし、真に重要なもの、すなちイエスのテキストで体現されるものを記しただけの前置きと位置づけるに至った。そのようなわけで、ヘブライ語聖書を旧約聖書と呼ぶようになり、その後に新約聖書が生まれ聖書が完成した。

ユダヤ教信者には我慢がならなかった。聖書というのは古びること無く時代を超越し、加筆や補足などする必要はないと信じていた。その結果として、キリスト教とユダヤ教の間でヘブライ語聖書をめぐる対立が起き、それが異なる様式をめぐる対立になった。ユダヤ教徒は、伝統的なパピルスの巻物にこだわった。

パピルスを輸入するのは高く付くうえに、確実に入手できる保証もなかった。パピルスに代わる方法として、羊皮を使う手があった。羊を育てるのはコストがかかり、処理には手間もかかるが、ベルガモンの司書たちは工程を完成させた。この羊皮紙は、ベルガモンにちなんでラテン語で「ベルガメントゥム」と名付けられた。現在でも「パーチメント」と呼ばれている。

羊の皮を水に浸けて洗ってから、木枠で引き伸ばしながら乾かす。薄くて丈夫な片になったら、表面をなめらかにしてインクの吸水性を高めるために粉末をかけて磨き上げる。羊皮紙の製造技術を完成させたベルガモンの司書は、輸出も始めた。主たる輸出先は、支配者でもあるローマ帝国だった。

キリスト教徒は、羊皮紙を使い、書字材料を重ねて一変を綴じ、表紙で挟むというローマで発明された方式を組み合わせた。ローマ人たちはこれを「コーデックス」と読んだ。これは現在で言う「本」である。この本は、場所をあまりとらず、表紙が中身を保護してくれる。ページを開いて検索するのも容易である。こうして羊皮紙の冊子本という新たな形態が生まれた。

羊皮紙の本のサイズはイエスの信者にとって理想的だった。まもなくユダヤ教徒とキリスト教徒の間で様式をめぐる戦いが勃発した。ヘブライ語聖書に忠実なユダヤ教徒は、現在に至るまでユダヤ教の礼拝で使われているパピルスの巻物に固執し、キリスト教徒は羊皮紙の冊子本を採用した。パウロはこの新しい様式をいち早く取り入れた。

結局、冊子本のほうが優勢となった。コンパクトで扱いや持ち運びが簡単で、ページをぱらぱらとめくってざっと目を通すという読み方もできる。

中国の2つの発明 ―紙と印刷―

世界を変えた発明のうち4つが中国で生まれたとされる。羅針盤と火薬、紙、印刷である。

紙は植物の繊維で作られた。たいていは豊富に手に入る桑の木を使った。植物を何度も叩いて繊維をほぐしてから水に浸けると、繊維がいったんバラバラになり、それからニカワなどの結合剤を加えなくても再びまとまる。ほぐした植物の繊維でできたパルプを脱水し、平らに延ばし、乾燥させ、プレスする。この工程によってできあがる紙は、なめらかで軽く、折ったり丸めたりできる。製紙法を発明したとされる蔡倫は、漢王朝時代の人物である。

紙は大きな変化をもたらした。中国では文字は動物の骨か竹簡か絹布に書かれていたが、使い勝手か価格に問題があった。それに対して、紙は安価だが丈夫なので、書いたものを効率的に収納して保存することができる。薄くてなめらかなお陰で従来よりもはるかに大量の情報をわずかなスペースに凝縮し、大量の記録を保管することが可能になった。このような情報管理能力は、高度な官僚制の基礎をなした。

確認されている世界最古の印刷は、中国の金剛般若経を紙に木版で印刷したものである。政令気868年に作成された。

この印刷法では、堅い木を使い、書記の書いた文字を木版に凸版で刻み、炭を塗って紙に押し付ける。印刷はまず行政記録に用いられたが、功徳を積みたいと願う仏教徒がすぐさまこの新しい技術を転用した。一度木版を作ってしまえば、一日で何千部も印刷できる。師の言葉をなるべく早く広め、そうすることで功徳を積みたいと考える仏教徒にとって、これは願ってもないことだった。おうして仏教は中国でいち早く印刷を使い始め、まもなく韓国にもそれが伝わった。やがて韓国で、陶製か金属製の活字を使った印刷が行われるようになった。

紫式部と「源氏物語」 ―世界史上最初の偉大な小説―

世界文学で最初の偉大な小説は西暦1000年頃の日本の宮廷に仕える女官によって書かれた。作者は、本名さえ知られず、源氏物語に登場するヒロインにちなんだ名前で呼ばれるようになった、紫式部である。

物語の中心となるのは、帝の子だが臣籍降下させられた男性と、洛外でひっそりと暮らしていた貴族の娘との偏愛である。物語が展開する中で、紫式部は宮中の厳格なしきたりや男女の約わいrに縛られて暮らす人物たちの思いや願いを、卓越した筆致で読者に示している。

受領の娘だった紫式部は、この世界を生き抜くために、和歌の作法を教え込まれていた。しかし、紫式部は和歌や書道には満足できなかった。なにより、謎に満ちた手強い中国の漢字を習いたかった。しかし、中国文学は伝統的に男性だけのものとされていた。

なんとしても中国文学に触れたかった紫式部は、弟が漢籍を習っている時にこっそりとそれを聞き、人目を盗んでひそかに練習して、漢文を覚えた。そしてまもなく弟よりも漢文に秀でるようになった。父はその事を知ると、「男に生まれなかったのが残念でならぬ」と嘆いた。結婚できる年齢になると、紫式部は典型的な政略結婚で年上の男性のもとへ嫁がされた。幸運にもこの夫が分gなく作品の蔵書を持っていたので、紫式部は勉強を続けることができた。

歌集によって日本の文学を確立するという発想は、中国の伝統を踏襲したものだった。日本の書き手は歴史を記録するようにもなった。紫式部もそれらのテキストを学ぶことに強い関心を持っていた。しかし、漢籍と日本の歴史記録を学ぶのは危険な試みだった。紫式部は博識をひけらかしているおちう噂を呼んでしまったこともある。紫式部は慎重に振る舞う必要があると悟った。女性が中国の漢詩や日本の歴史を習うというのは、ダメなことだった。女性らしからぬ振る舞いをしていると、手痛い報いを受けかねない。紫式部は身を守るために屏風に記された普通の中国語さえ読めないふりをするようになった。

夫が他界すると、苦労して身につけた文学の素養を自由に生かして良い身となった。そして後に「源氏物語」となる物語の各巻を書き始めた。紫式部の作品は、単なる物語の域を超え、平安期の宮廷の暮らしを詳細に描いた記録になった。最終的に完成した作品は漢籍とは共通点のないものとなった。

このような新しいタイプの文学作品を書こうとする発想は、漢籍の伝統にどっぷりと浸かっている男性には浮かばなかった。恵まれた立場にある男性が伝統と漢字に拘り続けたのに対し、女性には差別されていたがゆえに新しい文学を切り開くのに有利な立場にあった

当時の日本で漢字の読み書きは男性だけに許され、国に仕えることを目的にしていた。数千の文字からなる複雑な漢字を女性が理解できるはずがないと思われていた。また文化を生み出す漢字から女性を締め出しておくことは、単に男性の特権を守る方法でもあった。女性は「かな文字」を使うことになっていたので、源氏物語もこれで書かれている。

かな文字は仏教を取り入れるために考案された。仏教が日本に広まると、日本の僧侶は経典の原典を求めてインドに渡り、そこで多数の仏教経典の原典を記すのに使われたサンスクリットとその文字に出会った。日本の僧侶は仏教の布教に熱心だったので、何千文字もある漢字よりもサンスクリットの表音文字の方が有利であることに気づき、日本語でも同じような文字を使いたいと考えて、かな文字を生み出した。

かな文字は単純な表音文字体系よりも複雑だが、漢字に比べれば遥かに単純だった。若い学び手たちは音を全て一度ずつ浸かった仏教の和歌を口ずさむことで文字を覚えた。

かな文字は漢字よりも格下の扱いだったが、宮廷社会で存在理由を見つけた。かな文字のおかげで日常的な和歌を書くことが可能となり、この社会で最も大切なやり取りがそうした和歌を通じて行われるようになった。

源氏物語は、ごく少数の読者しかいない長い作品だったので、木版印刷ではなく、当時貴重品だった紙に手で筆写されたものが流通し、身分の高い読者にとって高価なものとされた。全巻の揃った完全な一式は、きわめて価値のある財産となった。

仏教や儒教の信徒たちは新たな力強い文学が誕生したことを悟った。まもなく儒教徒は「源氏物語」を読まないようにと警告し、仏教徒はその作者が自らの犯した罪ゆえに地獄で苦しんでいると言い出した。このように激しく誹謗されてもなお、「源氏物語」の人気は留まるところを知らなかった。

光源氏の世界

平安朝文学が多くの資料を基に見直されている。日本文学の研究としてはあまり多くないと思う。しかも平安朝文化の様相がヨーロッパのコンテキストから眺められ、光源氏の世界が独特であると示される。翻訳も良い。とにかく良書。

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グーテンベルク、ルター、新たな印刷の民

ドイツとフランスの国境に位置する大聖堂では7年に1度、貴重な聖遺物が巡礼者に公開されることになっていた。そこでは、聖母が身につけた黄色と白の衣装やイエスの産着、洗礼者ヨハネが斬首されたあとにその遺体を覆った布、最期のときにイエスが腰にまとっていた布、イエスの体を十字架に縛りつけたロープの一部、十字架にかけられたイエスに水を飲ませるのに浸かった海綿の小片、使徒聖トマスの歯2本、マグダラのマリアの肩甲骨と脚骨とされるものが展示された。

それらの貴重な品々を見るために、大勢の人が集まった。数万人規模の人は大聖堂には入りきれないので、大聖堂の周りの空間を埋め尽くし、なんとか見ようおと近隣の建物の屋根に登る。それらの品を見ると、エルサレムで1400年前に起きた宗教的受難を追体験できると言われていた。最大の奇跡は、巡礼者がこれらの遺物と同じ場所に居合わせるだけで、あらゆる罪が赦されるということだった。

大勢の巡礼者があまりにも遠くからこの地を訪れるため、大聖堂はこの問題の解決策を考案した。スズで聖人の姿を型どった高さ10cmほどの小さな飾りを巡礼者に買わせることだった。遺物が展示されている時に巡礼者がこの飾りを掲げれば、遺物の放つ光を受け止めることができる。この効果を高めるために小さな鏡が取り付けられた飾りもあり、それらは「巡礼者の鏡」と呼ばれた。鏡は距離を隔てていても作用するので、巡礼者は大聖堂からどれほど遠い場所にでも遺物の輝きをいくらか持ち帰ることができるともされた。

この鏡に対する需要が非常に高まり、ギルド(同業者組合)を組んで製造を独占していた鍛冶屋は需要に応じきれなくなった。そこで市参事会は祭の期間中はギルドの独占権を停止すると決めた。グーテンベルクはこれで一儲けすることを思いついた。

グーテンベルクの生涯は実は分かっていない。彼に分かっているほとんどのことは裁判記録によるものである。そんなグーテンベルクは、マインツの豪商一家の出身で、それなりの教育を受け、ラテン語に通じていた。学術的な素養のみならず、鋳金などの実用的な技能も身につけていた。

グーテンベルクは自分の持つ金属細工の技能を巡礼者の鏡の製造に利用するにはどうしたら良いかと考えていた。試行錯誤と硬貨鋳造の経験によって、従来よりも優れた方法を編み出した。彼は従来よりも大量に高精度で巡礼者の鏡を製造することができると確信した。グーテンベルクは借金を重ねて資金を用意し、鏡を製造販売した。

グーテンベルクは次に鏡の製造技術を本の製造に応用することを決めた。

可動式の活字を組んで印刷用のページを構成するという方法、活版印刷として結実する手法を思いついたのは、グーテンベルクが最初ではなかった。木材に図像を彫って、それをスタンプのように使って複製するという比較的単純な技法については、トランプを作るにはそれが普通の方法だった。品質にこだわらなければ、文字にも同じ方法が使えた。実は小型の小冊子がこの方法で作られていた。ただし、木版の不格好な文字を解読するのは容易ではなかった。

グーテンベルクは中国人がページごとに木版を一枚彫るばかりでなく、バラバラに文字を彫り、それらを並べて文を作ることによって本を印刷しているという噂を耳にした。個別の文字を作るのに、陶磁器や合金など、木よりも硬くて精密な材料が使われることもあった。

とはいえ、アイデアを思いつくのとそれを実行するのとは別の話だ。グーテンベルクは、印刷物の製造を大規模化することによるメリットに最初に気づいた人物であり、そのやり方を考えだした最初の人物でもある。巡礼者の鏡でやったことと同じ様に本を大量に製造することができるなら、印刷工程を改良によって膨大な利点が生じる。

中国の印刷業者は数千種類の漢字を扱う必要があるが、グーテンベルクは20種類程度のアルファベットを扱うだけで良い。これは活版印刷を効率的なものとするのにとても有利だった。しかし、1ページ分の活字を組むには数千個の活字が必要だった。1ページの印刷が終わったら活字をバラバラにして良いが、誤植が見つけ修正して正しいページを印刷し直すには、数ページ分をそのままとっておくほうがはるかに効率的だ。ということは、同時に複数のページを作成できるだけの活字が必要で、その総数は数万個以上必要になる。ここで巡礼者の鏡を大量生産した経験がものを言い、グーテンベルクは作業員が活字を1日に1,000個以上作れる手動式鋳造装置を考案した。活字の大量生産によって本の大量生産が可能になった。

製造工程が完成すると、今度は何を印刷するかが重大な問題になった。最初に印刷するのは需要が大きくサイズは比較的小さいものが良い。当時、大学の創設が続く中で、どの大学も講義はラテン語で行われ、ラテン語への需要は高まっていた。ラテン語の文法書で「ドナトゥス」という本があり、これが最も広く使われ、数百年にわたり市場を支配してきた。それまでの出版社は大変な手間をかけて木版印刷していた。グーテンベルクは、各ページ26行で全体がわずか28ページの小さな本を作った。これはヒットした。

1453年、グーテンベルクが「ドナトゥス」を手掛けている時に、コンスタンティノープルがオスマン・トルコに奪われたというニュースが届いた。ローマカトリック教会は、全てのキリスト教の王と皇帝に対して、「コンスタンティノープルを奪還してほしい。それが無理でもオスマンのこれ以上の侵攻は阻止してほしい」と呼びかけた。軍を用意するのには資金が必要だが、その資金を贖宥状(免罪符)を使って集めた。

プロテスタンティズム

ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明は事実に反する。ルター自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。

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免罪符にはいつも同じラテン語の書式が使われる。氏名と日付、免罪の内容だけを手書きで記入するように空欄にして、それ以外の部分はあらかじめ印刷しておけばよい。グーテンベルクはその免罪符をローマ教皇ニコラウス五世に送り許可を得て、キプロスを守るためにすぐに発行された。

また、ローマカトリック教会はオスマンに対する増悪をあおる必要があったので、反オスマン的な小冊子を印刷した。

次にグーテンベルクは聖書の印刷を計画した。聖書は1,000ページ以上あるため、工程全体の効率化が必要だった。グーテンベルクは、自身の工場に初期の工業生産プロセスを導入した。

また、聖書を扱うということは、歴史上で最も崇敬されている神聖なテキストに手を出すことになる。再興の修行を積んだ初期が作成する聖書に劣らず整然として精密で正確で洗練されたものを作らねばならなかった。

完成した聖書は、活字と略語を使ったおかげで、全ての行で左右の余白の幅が揃うように組むことができた。これはどれほど優れた初期でも達成できない理想だった。各ページは黒い文字がきっちりと並んで幾何学的形状をなす「段」2つで構成された。グーテンベルクの聖書は、手書きよりも見栄えがよく、どれほど修行を積んだ修道士もできないほどの正確さと対象制を実現していた。最初は手書きの写本に近いものが印刷できればと考えていたが、結局は目標を超えて、本を評価する際の新たな基準を生み出した。機械が人間の手に勝った

グーテンベルクはローマカトリック教会に聖書を提出した。教会はグーテンベルク聖書を賞賛した。どれほど熱心な修道士でもかなわないほど美しかった。しかも、教区教会や修道院でも買えるほど価格が抑えられていた。さらに、書記による写本では神聖なテキストに多数の誤りが生じてしまうが、グーテンベルクの製造方法ではそれが確実に抑えられた。

ルター

印刷技術が普及すると、免罪符をクーポン券のような冊子にして販売する、というすばらしい方法を思いつく者も出てきた。ルターは免罪符の役割と資金集めのために売られることに疑義を呈していた。また、懺悔のあり方や苦行、ローマ教皇の役割についても疑問を投げかけた。

ルターは自分の説教を信徒に聞かせるだけでなく、印刷もした。印刷は強力な武器となった。印刷によって免罪符が容易に手にできるようになったが、今度は印刷に寄って免罪符に対する反論が勢いを得た。

ルターの生きた時期にドイツで発表された刊行物の3分の1以上はルターによるものだった。ルターは印刷という新しい世界に誕生した最初のスーパースターであり、印刷を通じた論争という新しいジャンルの支配者になった。

ローマカトリック教会はルターの印刷物を焚書することで対抗したが、効果はさほどでもなかった。いくら燃やしても印刷屋がルターの説教を印刷するので、新たな版や増刷が出てくるだけだった。印刷という新しい世界では、紙の方が炎より強かった。

マルティン・ルター

ルターは「ことばに生きた人」だった。聖書の教えの中心を捉えようと、生涯かけて格闘し続けた。聖書のことばを、民衆のために説き続けた。宗教改革とは、ルターが聖書のことばによってキリスト教を再形成した出来事である。

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フッガー家の時代

歴史が動く時にはお金も動く。その背景で何らかの経済的な要因があるからである。お金を通して歴史を眺めると、様々な歴史的な出来事が、より立体的に見える。本書は16世紀に一番お金を持っていたフッガー家の商業と金融業を紹介している。

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ベンジャミン・フランクリン

1776年8月2日、第二次大陸会議のメンバーが独立宣言に署名すべく集まった。これに先立ち、トマス・ジェファーソンが起草した宣言文が大陸会議に送られ、審議にかけられて、起草文を読んだメンバーが修正案や変更案を出した。会議が合意に至り、改訂された文書が可決された後、7月8日にジョン・ニクソン大佐が仰々しく独立宣言を読み上げた。

フランクリンは年季奉公のようなかたちで兄の営む印刷屋の徒弟となり、商売について学んだ。フランクリンは印刷の技術的な過程には大きな貢献はしなかったが、印刷を使って何ができるかには気づき、印刷インフラの拡充と完成に務めることで身を立てた。紙の供給を確保し、印刷物を13の植民地の全域に届けるための郵便街道を整備し、最終的には新聞とブロードサイドの出版ネットワークを確立した。いわば、フランクリンはメディア起業家だった。

1636年、聖職者がもっと高い読解力を得られるようにと、ピューリタンは大学――ハーバード大学の前身――を設立した。また誰もが聖書を読めるようにと、子供たちに男女の別なく読み書きを教える学校も作られた。高い識字能力と印刷技術が共に揃っている所なら、新しい形式の印刷出版物が受入れられるはずだとフランクリンは知っていた。その新しい形式の最たるものが、新聞だった。植民地初の新聞は、1690年にボストンで発行された。

それまでは、ひとつの町には新聞が一紙あれば十分と思われていたが、何紙あってもよかった。むしろ競合する複数の新聞があれば、論争が起こって、意見が吟味され、反論のやり取りの中から最もいい考えが勝ち上がる。ちなみに、朝刊を読む慣習を朝の祈りになぞらえたのは哲学者のG.W.F.ヘーゲルだった。統制するのが難しくなった新聞は、字を読める人の多くを意見交換に参加させ、独立の機運が生じるような風土を育てた。

新聞で最も重要だったのは、政府の管理する街道だった。植民地内での手紙の配達に不可欠だったため郵便街道とも呼ばれ、郵便局長がその管理を任されていた。郵便局長は給与は良くなかったが、郵便物をタダで送れるという特権があり、他の誰にでも同じ特権を与えることができた。もしその特権を持っていれば、印刷業者にとっては大変な節約になる。

フランクリンは郵便局長になるためのロビー活動を開始した。その努力は報われ、9年後にフィラデルフィア郵便局長に任命された。さらに近隣の郵便局まであらかた支配下に収め、さらに先を目指して1753年、ついに全植民地の上に立つ総郵便局長になった。今日の郵政長官には連邦政府内で2番目の、大統領に次いで高い給与が支払われている。

ボストン茶会事件

新聞と百科事典は後の独立宣言にも繋がる啓蒙思想という爆薬を生み出した。あとはきっかけだった。一般常識ではボストン茶会事件がそのきっかけと言われている。

ボストン茶会事件は事実だが、しかし完全ではない。大勢の植民地住民を憤慨させた、植民地に対する最初の税は、茶葉にかけられたものではなく、紙と印刷物にかけられたものだった。この課税を定めたのが「印紙法」である。植民地におけるほとんどの紙は輸入品だった。大半はオランダ製で、それをイギリスの卸売業者が販売していた。印紙法のターゲットはこれで、植民地で急速に拡大していた製紙工場と印刷所、郵便街道、新聞販売店とを結ぶネットワークに狙いが定められた。新聞は一面で印紙法の不当さを書き立てた。印刷業者はこの課税に対してボイコットし、抗議し、非難し、しまいには課税を無視した。植民地への輸出が90%減少したため、イギリス議会はついに軟化し、印紙法を撤回した。

イギリス議会は止める理由を間違えていた。この税の構造に問題があったのだと考えて、議会は次にタウンゼント諸法を思いついた。これによって紙への課税は残ったまま、さらに茶葉にも税がかけられることになった。

1775年、第一次大陸会議がイギリスからあらゆる輸入品に対して組織的なボイコットを断行したことで、紙の輸入は止まった。やがて第二次大陸会議が独立を宣言することになる。ジャファーソンが独立宣言を起草するのに使った紙はオランダの製紙工場で作られたもので、おそらくイギリスの卸売業者を通じて輸入されていた。

共産党宣言

共産党宣言はエンゲルスとマルクスの二人が書いた。過去4000年の文学を通して見ても、これほど効果的に歴史を作れたテキストはほとんどない。

カール・マルクスは、エンゲルスより2歳年上だった。彼は他のどこの労働者のことも知らなかった。彼はパリに来る前はベルリンにて父親の意向に逆らって哲学にふけっていた。ベルリンは哲学的な革命の中心地だった。

カフェ・ド・ラ・レジャンスで、工場を研究していた青年エンゲルスと、哲学を研究史ていた青年マルクスとの会合は、うまくいった。二人はそれから共同作業するようになり、工場労働についてのエンゲルスの知識と、哲学的ストーリーテリングについてのマルクスの知識とを組み合わせて、新しい強力な革命ビジョンを作り出した。これが「共産党宣言」である。

ソビエト連邦という大国は、マルクスとエンゲルスの出会いから、そしてその結果の文章から始まった。共産党宣言の成功は早かった。最初に出版されてから70年足らずで、その最大の影響力を発揮した。文学の歴史上これほど短期間でこれほどの影響を及ぼしたテキストは他にない。ある場所で出版される「宣言」の部数が多いほど、その場所で革命の起こる確立が高いほどだった。

レーニン

共産党宣言の熱烈な読者の一人がウラジミール・ウリヤノフ(後のレーニン)。だった。第一次世界大戦中にチューリッヒに住んでいたロシア人革命家である。スイスは、戦争に参加していなかったので、世界をこの戦争に巻き込んだ政権がその戦争で粉砕されるのを眺めているには絶好の場所だった。

ウリヤノフは革命文学を読みふけったが、刺激にあるものはほとんどいない、と思っていたところに、たまたま「共産党宣言」に出くわした。

共産党宣言を読んだレーニンはロシア語に翻訳しようとしたが、逮捕されてしまった。実刑判決の刑期を終えると、レーニンはヨーロッパに行き、そこで読書と執筆に専念しながら、「宣言」にかかれているような歴史を踏まえての行動の呼びかけを考えた。

その頃、ロシアでは革命が起きて事態が白熱していた。レーニンはいよいよ行動するときが来たと察知した。ドイツはロシアと交戦中だったが、ドイツ当局はレーニンの通行を認め、フィンランド経由で革命進行中のロシアに入らせた。

レーニンはペトログラードに向かった。レーニンは、労働者階級、すなわち「共産党宣言」でプロレタリアートと呼ばれていた層こそが、ロシアにおける唯一の真に革命的な集団であり、労働者階級を代表して行動できる唯一の組織が、のちにロシア共産党と改称するボリシェヴィキだった。レーニンは、戦いに勝てる力をある党を創設し、その目的を達するために、新聞発行を再び活発化させてマルクスとエンゲルスの歴史的な語りを広めた。また、共産党宣言に心酔する芸術家たちからの後押しも受けた。

右派からのクーデターの試みは失敗し、その反撃としてレーニンら左派からのクーデターは、成功した。革命は転機に達し、いつのまにかレーニンとその党が国家を掌握していた。史上初めて、貧困化した労働者階級を代表する党が一国をまるごと動かしていた。

毛沢東

中国も共産党宣言によって変質した国家である。

毛沢東は、稲作農家の父親の意向で儒教の学校に入り、儒教の古典を暗記させられていた。しかし儒教の学習に嫌気がさして、科挙の勉強に見切りをつけた。最期の王朝が倒れる前から、早くも毛沢東は弁髪を切り落として公然と反抗の意を示し、武装学生集団に加わった。首都の北京に上京すると、今度は中国文化の近代化を目指して創刊された雑誌の編集者など、反体制の知識人と交わるようになる。その時に毛沢東は共産党宣言を読んだ共産党宣言を読んだ数カ月後、共産主義者の小集団を組織し、自ら共産党主義革命の指導者に転じた。

同じようなことが他のところでも起こっていた。青年時代のホー・チ・ミンは蒸気船で働きながら世界を回っていたが、彼が政治教育を受けたのはパリだった。フランス浴ミンチ支配下のベトナムで育ったホーは、フランス語の読み書きができたので、フランス語版の共産党宣言を読んだ。それは第一次世界大戦が起こった直後で、これを読んで心を動かされたホーは、マルクス主義者になった。フランス共産党に入党し、共産党宣言をヨーロッパの植民地支配に対する闘争に適合するように翻案し始めた。

フィデル・カストロも共産党宣言を読んだ。

1880年代のレーニンから1950年代のカストロにいたるまで、共産党宣言はロシアや中国、ベトナム、キューバの革命家に地図を与えてきた。彼らは共産党宣言により、ロシアの皇帝や中国の皇帝、フランスの植民地支配者、アメリカ軍を駆逐する力をつけることができた。共産党宣言は常にどこかに読者を見つけ、その読者を転向させ、行動へと誘った。その結果、いつしか共産党宣言は、史上最も崇められ、最も恐れられるテキストになった。

中国の赤い星

著者は中国の赤軍と共に生活し、外部の世界に「赤い中国」とはどんなものかを初めて伝え、ソビエト地区の生活の最初の包括的な物語である。中国の革命家たちが述べている圧政と逆運に対する人民の闘争の経験から誰でも何かを学べる。

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文字と紙のおかげでその言葉は生き続け、更にまた別の重要な発明である「印刷」のおかげで、僕らは容易くそれを手に入れることができる。

文字として記して保存する技術のおかげで文学が生まれ、生き続ける。物語創世:聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力において、筆者のマーティン・プフナーは、書字技術に着目して4000年にわある文学の歴史を展望している。

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