読書ノート

歴史を動かした「独裁者」

独裁とは人間のあこがれの一つで、同時に恐怖でもあった。「独裁者」と言ってもその定義は難しい。絶対的な権力とは自体明確な線を引けないし、どの程度の期間に渡って検量を維持するかも難しい。善政を布いて治世を全うした人もいれば、悪性の限りを尽くした人もいる。

歴史を動かした「独裁者」―「強大な権力」はいかに生まれ、いかに崩壊したか (PHP文庫)は、PHP文庫編集日から著者に「独裁の系譜をたどるような本を書いてみないか」と声をかけられたのが執筆の理由で、古今東西の独裁者を65人紹介している。

ダレイオス一世 ―ペルシャ王

ペルシャは人類史上初の多民族国家で、ダレイオス一世は、そのペルシャで独裁を布いた王である。ダレイオス一世以前の独裁者については記録が曖昧で独裁をしたかどうか確証がない。ダレイオス一世は、記録の面からも確実に独裁をした。

ダレイオス一世の下でペルシャ帝国の版図は拡大され、東はインドから西はドナウ川流域に及んだ。史上例を見ない大帝国を作り上げた。

紀元前5世紀ごろ、小アジア(ギリシャの都市国家)でペルシャの影響料に反旗を翻す動きが活発になる。ダレイオス一世は、小アジアの鎮圧を企て、軍に衛生の準備を整えた。しかし、第一次遠征・第二次遠征も失敗した。第三次遠征の出発直前にエジプトでの反乱の報せが届いた。ダレイオス一世は、ギリシャよりもエジプトを優先し、軍を進めていた頃に、陣中で72年の生涯を終えた。

ダレイオス一世の為政者としての偉大さは、都市を建設しただけではなく、その版図を20〜28の州に分け、そこに総督を任命して統治させたことである。それぞれの州には税金が決められ、これによって帝国の財政収入を安定させていた。それだけではなく、国民が信用するに足る貨幣を発行し、街道を整備し、経済発展の基盤を確固たるものにした。更にはナイル川と紅海の間に運河を計画・実行した。

ちなみに、ダレイオス一世が生きていた時代は、中国では孫臏が孫子の兵法を書いて、インドでは釈迦が教えを説いていた。

アレクサンドロス大王 ―マケドニア王

アレクサンドロスは、マケドニア王フィリッポス二世の子として生まれ、恵まれた環境で育つ。紀元前336年にフィリッポス二世が暗殺されると、20歳のアレクサンドロスが王位を継承し、版図の反乱分子を鎮圧していく。

基準した都市国家(ポリス)とは同盟を結び、ギリシャ連合軍を作ってギリシャ地方を平定する。紀元前333年にはペルシャ軍を破り、エジプトを陥れた。

ペルシャ帝国の優れた制度を知ったアレクサンドロスは、ギリシャ世界にそれを採用することを決定した。自分たちの文化に誇りを持つ勢力に抵抗されるが、アレクサンドロスはこれを推進した。アレクサンドロスの採用した施策の多くは、ペルシャのダレイオス一世のものを参考にして、同時にスケールアップしたものである。大都市を結ぶ交通網の整備や貨幣制度の統一による経済発展を促した。

始皇帝 ―秦皇帝

始皇帝の父の子楚は秦の公子だった。子楚は呂不韋という豪商の目にかない、その後援によって太子の地位を得た。祖父が即位3日で亡くなり、子楚も3年で亡くなったので、始皇帝は13歳で秦の王に即位した。

成人を迎えた始皇帝は、母大后の愛人・嫪毐(ロウアイ)が起こした反乱を鎮圧し、その一族を徹底的に根絶やしにした。2年後には失脚した呂不韋は自殺した。

その後、韓、魏、趙、燕、斉、楚を滅亡させ、紀元前221年に天下統一した。始皇帝は、それから封建制を廃止し、郡県制を採用し、度量衡と文字、貨幣を統一した。また、北方の騎馬民族の侵入を防ぐ目的で万里の長城を、阿房の地に宮殿(阿房宮)を、自らの陵である驪山陵を建設した。どれも桁外れの規模を有した工事となり、70万人の罪人が投入された。

また、儒教思想を敵視し、焚書坑儒政策を実施した。その禁を犯した者は死罪にした。

アウグストゥス ―ローマ皇帝

アウグストゥス(ガイウス・オクタヴィウス)は、母がカエサルの妹の娘、父は騎士身分という名門に生まれた。紀元前55年にカエサルが父が死ぬと、カエサルの後見を受けた。

カエサルの遺言で後継者に指名されたことを知り、ローマ市民の怒りを背景に、カエサルの暗殺団に対し反撃に転じた。

アウグストゥスは、独裁者と見倣されることを極力避けたが、実質上の権限は文句なく独裁者のそれだった。しかし、その実態は権力者としてローマ市民に君臨することではなく、自らのために尽くしてくれた退役軍人に土地を与えたり、一般民衆に娯楽を与えたりして、公僕意識が強かった。ローマ市民を団結させいようと心がけていた。

ローマは、アウグストゥス帝の治世下において見違えるような市街に変わった。水道を整備させ、神殿を建設するなど、多くの土木業者によって、ローマをえいえいンの都と呼ぶに相応しい、立派な年に変貌させた。

ネロ ―ローマ皇帝

ネロの母の小アグリッピナは、アウグストゥスの孫の大アグリッピナの娘だった。つまりネロはアウグストゥスの子孫である。

小アグリッピナは、ネロをローマ皇帝にしたいと考え行動に移していく。まず、ネロが2歳のころに離婚し、行程の椅子の近くにいた叔父のクラウディウスに接近する。そして行程の4人目の妻の座を手に入れる。そして、ネロを皇帝の娘のオクタウィアと結婚させる。ネロ的には身内の女との結婚を嫌がったが、ネロはまだ幼かったので母の言いなりだった。

54年にクラウディウスとその息子のブリタニクスを毒殺し、ネロを帝位継承順位に筆頭に押し上げる。

即位後のネロは、近衛隊長のブルルスと哲学者で家庭教師のセネカの応援を受け、元老院と協調しながら善政をしいた。

このままで終わっていたら五帝に匹敵するような皇帝になっていたはずだが、ネロの親友サルウィウスの妻であるポッパエアと出会っておかしくなっていく。

ポッパエアは愛人ではなく皇帝の妃の地位を望んだ。ネロはオクタウィアと離婚し、母親と全面的に対立する。そしてオクタウィアと小アグリッピナを殺害し、ポッパエアを妃にする。やがてブルルスが死に、セネカが引退すると、ポッパエアの身内がネロを悪性へと導いた。ネロに忠告した者は処刑された。

68年、ガリアで反乱が起きたが、頼りの近衛兵や元老院はネロを見捨てた。ネロはローマから脱出し、最終的には自害した。まだ30歳だった。

董卓 ―後漢の軍人

董卓が権力を握った軌間は3年しかなかったが、その短い間に董卓は暴虐の限りを尽くした。

董卓は現在の甘粛という辺境の地で生まれた。北方の異民族のちが混じっていると噂され、黄巾の乱を背景に軍閥として力をつけた。

後漢の霊帝が189年に崩御すると、17歳で新たに即位した廃帝にはこれまで通り宦官が実権を握っていくが、宰相の何進がこの状況の打破を企てる。しかし宦官が逆襲したことで、何進の目論見は失敗に終わる。

その混乱の中で、董卓は軍を動かし廃帝を救出する。洛陽を制圧した董卓は、廃帝の弟である陳留王を献帝として即位させ、政治権力を手中に収めた。名目上は後漢の皇帝を守っていたが、董卓の独裁だった。190年に入ると、袁紹が中心となって、董卓討伐の兵を挙げ、袁術や公孫瓚、鮑信、曹操、孫堅、劉備などが加わった。董卓は5万の兵を用意して対抗したが、頼みの華雄が討たれ、洛陽から長安遷都の準備を始めた。

長安に拠点を移した董卓は、長安近郊に白を建設し、30年分の食糧を備蓄し、奪った金銀財貨を蓄え、美女800人を侍らせ、鉄壁の備えを準備した。

しかし、配下の王允が、独裁を続ける董卓を排除し、後漢王朝に実権を奪い返そうと計画した。そこで貂蝉という美女を使って、董卓と呂布を争わせた。自分の身が危ないことを察した呂布は、王允の暗殺計画に乗り、応急に誘き出した董卓を殺害した。

董卓の失敗は、自身の支持基盤を自らぶち壊したこと、貨幣の悪鋳により経済を破滅させ、同時に部下と同じ女性を争ったという、いくつもあげられる。権力者たる資質も何もない人間が、頂点に達し没落してゆく典型的な例であった

コンモドゥス ―ローマ皇帝

ローマ皇帝として悪帝と言われる者が数人いるが、コンモドゥスはそれらの中でも際立った存在だった。

コンモドゥスは、最期の五賢帝であるマルクス・アウレリウスの子で、5歳の時に副帝の地位を与えられ、10歳でゲルマニクス(征ゲルマン将軍)の称号を得た。10代後半のころから父と辺境の征討戦に従軍した。17歳のときに父に共同統治者に任命され、コンモドゥスは皇帝の地位を約束された。

コンモドゥスは、ハーレムの女300人と、美少年300人とともに乱脈な関係を繰り広げた。こうした行程の行状に、元老院は不満を表し対立することになる。しかし、コンモドゥスは改めることはなく、自らをヘラクレスの化身だと主張し始める始末だった。

ついには、コンモドゥスはライオンの頭皮をかぶり始め、剣闘士して闘技場に出場し、猛獣や剣闘士たちと戦い、観客であるローマ市民の歓呼の声を聞いて満足した。

こうした生活を送っていた191年、ローマで大火事が起きた。ローマ市民たちはネロが疑われたように、この火事もコンモドゥスが背後にいると噂した。事実、コンモドゥスはこの火事の跡地に都市を建設するつもりでいた。これにはローマ市民と元老院が怒り、コンモドゥス暗殺計画が進められることになった。

193年の新年を祝う闘技大会の準備のため、年末から闘技場にいたコンモドゥスに対して、刺客が送られた。近衛隊長などが協力し、毒を盛った上に絞殺した。

則天武后 ―唐皇帝

則天武后は中国史で唯一の女帝だが、女性の権力者が邪魔な人間を次々に粛清する例は世界史的にも他に見当たらない。

則天武后は、上流の出身ではないが、14歳の時に美貌を認められて、唐の太宗の後宮に入り、才人と呼ばれる女官となった。ただし気性の強い性格だったので、太宗には気に入られることはなかった。

則天武后が22歳の時に太宗が崩御し、後宮の女性たちは尼になった。しかし、帝位を継承した高宗は、起床の強い女性がスキだったため、則天武后は高宗のはからいにより後宮に戻った。

宮廷内には則天武后の出身が名門ではないため、彼女を皇后に擁立するのを反対の者が多かったが、結局は則天武后により反対派は失脚した。騒ぎは大きくなり収拾せず、ついには高宗と則天武后は権力争いをすることになる。

高宗は則天武后を配する方向に動くが、則天武后はそれを知ると逆襲し、皇帝をやりこめ勝利する。そのとき以来、則天武后は高宗が政務を執る際、背後の簾の内部から係るようになり、<垂簾政治>が開始されることになった。

則天武后は皇太子を次々に失脚させた。自ら産んだ子供にも厳しく、意に添わない言動があるとたちまち追放した。唐の王室に縁のある人達は、このままでh一族が滅亡させられると重い武装蜂起を計画するが、則天武后に次々に撃破され、則天武后の一族ばかりが栄達していく。

則天武后は悪女として語られることが多いが、人材の登用に意を注ぎ、家柄に関わりなく能力次第で官職に就けるようにしたりした。こういうところは評価されても良い。

平清盛

平清盛は平忠盛の嫡男として生まれた。平清盛は父の平忠盛の築き上げた政治基盤を巧みに継承し、次第に中央で知られる存在となった。1156年の保元の乱では、後白河上皇に味方して勝ち組となり、3年後の平治の乱で源頼朝を破った。

平忠盛は父の平忠盛が利益を上げていた宋との公益に着目し、港を整備してその規模を拡大する。この交易は平氏に軍資金をもたらした。

1179年11月、平清盛は軍勢を結集して福原を進発、経に入るや後白河上皇を幽閉した。こうしてクーデターに成功した平清盛は、躊躇なく軍事独裁政権を樹立した。

しかし同時に平氏一門以外から強い反発が起こった。反平氏の謀議が進められた。

その翌年、安徳天皇が即位した。これによって平清盛は天皇の母方の祖父という地位を手に入れた。直後に源頼政の挙兵があがるが、平清盛は間髪を入れずに反撃し、鎮圧することに成功する。しかし彼はこの自体を重大視し、京から福原への遷都を実施した。これによって揺らいだ政権にテコ入れし、平氏一族の基盤を強化しようとした。

それから2ヶ月後、伊豆の石橋山で源頼朝が挙兵し、平清盛を大いに震撼させた。このため平清盛は都を京に戻し、実権を奪っていた後白河上皇に政権を返還、かくして平氏は政治から全面的に撤退することを余儀なくされた。源氏征討の軍の進捗ははかばかしくなく、前途に暗雲が垂れこめてきた。一門の将来を心配した平清盛は頭を痛め、ついに病に倒れた。そして翌年この世を去った。

平清盛の最大の失敗は、源義朝の二人の子供―頼朝と義経―を処断しなかったことである。敵方の男の子を生かしておくのは、絶対にやってはいけない。

源頼朝

源頼朝は源義朝の三男で、平治の乱に際してまだ幼かったこともあり、異母弟の源義経と共に平清盛から助命された。

伊豆の蛭ヶ島に流された頼朝は、成長すると北条時政の娘北条政子と結婚し、甲乙での基盤を築き始める。

その後安房に脱出できたが、ここで三浦氏など豪族の強力を得るのに成功、次第に勢力を拡充していった。こうして鎌倉に入った。

平清盛の死後2年、寿永2年(1183年)に調停から東海道と東山道の諸国の支配を認められ、頼朝の基盤ははっきりと確立された。源氏一門は西国にいる平氏一門に対して、本格攻勢をかける準備が整えていく。

宇治川で義仲を敗死させると、義経は平氏追討の先頭に立ち、一ノ谷と屋島、壇ノ浦において平氏を完全に滅亡させた。

その後の頼朝は、権大納言・右近大将、次いで征夷大将軍などに就任するが、いずれも短期間で辞している。相模川の橋供養に出かけた帰りに落馬し、それが原因で逝去した。

織田信長

少年時代の織田信長は、風態悪く城下をうろつくから誰もがその将来を危ぶんだ。そのため、人々は「うつけ者(莫迦者)」と読んだ。

織田信長が16歳の時に父の織田信秀が亡くなった。織田信長は22歳の時に、一族で守護代の地位にあっった織田大和守を攻め、これを敗死させた。次いでこのとき約だった伯父と弟まで殺した。猜疑心の強さは人並み外れおり、偏執狂的な面を有していた。

織田信長は、情報収集力と機動力、決断力によって桶狭間の戦いで今川義元に大勝利を収めた。この時、織田信長は27歳。

この勝利を境に、織田信長は自分の娘や妹を政略結婚に利用し、徳川家康や浅井長政と同盟関係に入った。同じ頃、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信とも同盟を築き上げた。こうして周辺を固めてから、妻の父の斎藤道三を討った斎藤龍興を攻めた。義父の仇討ちを果たすと、織田信長は一転して上洛の名目を探した。

その後、織田信長は伊勢長島の一揆を鎮圧し、比叡山の僧兵たちと戦い、皆殺しにしてしまう。上洛を狙う甲斐の武田信玄がこの世を去ると、義昭への報復に動いた織田信長は、ついに足利幕府に終止符を打った。次いで織田信長は浅井勢と朝倉勢を攻め、相次いで滅亡させた。

織田信長の次の標的は武田勝頼だった。1575年に長篠の戦いでの戦闘は、織田勢の鉄砲隊が戦場を支配した。

東で勝利を収めた直後、織田信長の関心は再び西に向かう。一向一揆の背後にある石山本願寺を狙い、1580年にこれを陥すと、焼き払った。その2年後、織田信長は甲斐攻めにとりかかった。家康と連合軍で攻勢をかけ、既に落日の武田勢を一方的に撃破し、ついに家臣たちからも離反者が続出し、逃げ場を失った武田勝頼は天目山で自害した。

甲斐平定の祝宴において、重臣たちの前で接待役の明智光秀が失態を演じた。独裁者たる織田信長は、自分のメンツをなくしたことに怒り、明智光秀を罵った上にその領地を没収した。

その後、織田信長は京に入ると、本能寺に僅か70人の警護の者たちと宿営、中国地方への出発に備えた。そこを丹波亀山にいた明智光秀に攻撃され、炎の中で自害して終わった。

絶対的な権力を握った人間は、自己過信に陥ることが多い。信長の場合もまさに光秀がという感じだったに違いない。

西太后 ―清国大后

西太后は満州人下級官僚の娘として生まれた。幼い頃から字が上手で、絵も達者、しかも音楽を愛し、古典に通じるといった、才能豊かな子供であった。西太后は宮中に召され、威豊帝の妃になった。

威豊帝の正妻にあたる東太后がいたが、彼女に子供が生まれることはなく、西太后の子が同治帝が帝位を継承した。当時の清国は太平天国の乱が収集したかと思えば、アロー号事件が起こり、イギリスとフランスの連合軍が北京を陥れる、といった波乱の時期であった。ここに同治帝は5歳で即位したので、西太后と東太后が摂政となることになった。

1875年、同治帝はわずか20歳で崩御した。このとき皇后は懐妊していたが、西太后は出産を待たずに、新しい工程を決めるべきと主張し、親王の子をわずか4歳で光緒帝として即位させ、西太后と東太后はまた摂政になった。

それから6年後、東太后が逝去した。やがて1884年になると、親王の奕は軟弱外交の責任を追求され、ついに失脚した。こうして清国の宮廷は、西太后の独壇場となった。

親政を始めた皇帝だが、西太后の承認なくしては何も決定できなかった。則天武后は自分が即位しての独裁だったが、西太后は院政による独裁だった。

袁世凱 ―中国の軍閥・民国初代大統領

袁世凱は、漢人でありながら満州人の朝廷の中で出世し、短い期間あが、最後には政治の頂点に立った。

袁世凱は、河南省の出身で、軍人として出世していく。日清戦争には直接従軍していないが、日本陸軍の精強さに驚き、旧態然として軍ではもはや列強に対抗できないと、ひたすら新軍の編成に情熱を注いだ。

袁世凱はその後出征を続け、直隷総督から軍機処大臣(陸相)などを歴任し、改革派となって新政を促進した。しかし満州人の高官たちはこれを不満に思い、1909年についに辞職に追いやられた。

袁世凱は自分の軍隊をしっかり掌握しており、中央政界を去ってもひたすら機械を待った。そして11年の辛亥革命で、実態を収拾できない清国政府から、総理大臣に任命された。袁世凱はかくして政治と軍事の両面で頂点に立ち、思うがままに動いた。

孫文などの革命派は、密かに取引を持ちかけた袁世凱の話に乗り、その筋書き通り、まず清朝の終幕に漕ぎつけた。それから孫文の譲歩で臨時大統領の地位に就いた。いったん最高権力を握ると、袁世凱は、13年に入って革命派の弾圧に動く。孫文などは意表を突かれ、国外人亡命するしか無かった。

袁世凱は正式な正式の大統領に就任し、間髪を入れずに自分の権限を強化した。孫文たちの国民党を解任させ、国会の機能を奪って、大統領の地位を皇帝同然のものにした。そして1914年末、世襲制まで認めさせた大統領が誕生した。

翌1915年に入ると、日本はこの機を捉えて、「二十一か条の要求」を突きつけ、袁世凱はこれを呑んでしまう。反日の動きを引き起こすことにより、自分への抵抗を薄めることを狙った。

かくして袁世凱の皇帝即位は、急速に進展する。1916年1月1日をもって、中華帝国洪憲元年がスタートすることになった。しかし、1915年12月に、雲南省の将軍によって、反対の火の手が上がる。その申し出が袁世凱の拒絶を受けると、雲南省の独立が宣言された。さらに1916年に入ると、貴州省も独立した。ついには袁世凱の配下の将軍の中からも独立を宣言する者が現れた。日本やイギリス、フランス、ロシアなどの諸外国も、帝制への移行を延期するよう勧告した。袁世凱は四面楚歌の状態に追い込まれた。北京にいた袁世凱の周囲から人が離れていった。そして遂に袁世凱は58歳で悶死した。

袁世凱は大統領から皇帝へ性急に進みすぎたことが原因だった。少なくとも大統領の地位で満足していれば、腹心の部下たちの離反もなかったはず。

ムッソリーニ ―イタリア頭領

ムッソリーニは鍛冶屋の息子として生まれた。教育者になろうと師範学校に入学、そこを卒業してから1902年にスイスを訪れた。そこでムッソリーニは社会主義者と接するようになり、大いにその影響を受けた。

ムッソリーニはスイスからの帰国後に教員となったが、社会主義運動に入り込み、官憲に逮捕されてしまう。当時のイタリアは無政府主義者と社会主義者は危険視されていた。

1908年に逮捕されると、彼はオーストリアに亡命した。12年に帰国するとミラノに住み、社会党機関紙「アヴァンテ」の主筆となった。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ムッソリーニは断固参戦を主張した。そのため、党の方針と衝突し、社会党から除名された。ムッソリーニはこれに反発し、転向同然の動きを見せて、「ヘイル・ポポロ・ディタリア」という紙を発刊している。また大戦後すぐにファシスト党の下地を築いた。

ムッソリーニは、1860年にガリバルディの赤シャツ隊が展開したものを真似し、黒シャツたちを編成してローマに進撃した。1922年にローマに進んだムッソリーニは、首尾よくクーデターで政権を掌握することに成功した。国王はムッソリーニの首相就任に認証を与えた。ここにファシスト党の独裁が開始された。党創設から3年という短さだった。

独裁者となったムッソリーニは、植民地政策を進めていく。ドイツで台頭したヒトラーのナチ党に対して、精神的支援を続けた。植民地政策は、1936年にエチオピアを並行、ついで39年にはアルバニアを併合、更にはリビアの征服を進めた。37年には国際連盟を脱退、独自の外交を展開した。

第二次世界大戦に突入すると、1940年になってユーゴスラビアで行動を開始した。しかし、イタリア軍は弱かった。たちどころに苦戦に陥った。戦況が悪化し、ムッソリーニとその政府は完全にドイツの信頼を喪失し、有名無実の存在となった。

ついにイタリア内でクーデターが起き、ムッソリーニは幽閉された。それを知ったヒトラーはムッソリーニを救出する。劇的に救出されたムッソリーニは、巻き返しを試みたが、ついに愛人とパルチザンに捕らえられ、すぐに処刑された。ムッソリーニと愛人の遺体はミラノのガソリンスタンドに逆さ吊りにされ、しばらくの間晒された。

スターリン ―ソ連書記長

スターリンはグルジア出身の靴職人の息子。初等教育を終えた後、1894年に神学校に入学した。すぐに革命運動を始め、ロシア社会民主労働党の党員となった。しかしこれが露見して神学校を追い出された。

神学校のあったチフリスで仕事に就くが、そこでも革命運動を続けた。当局にマークされ、1901年に地下に潜った。その後は逮捕と流刑を繰り返し、6回流され5回にわたり脱走した。

スターリンは革命に向かい邁進した。スターリンは次第に革命勢力の中で頭角を現し、ボリシェヴィキ党の中央委員に昇進した。スターリンの名は全国レベルになり、ロシア国内の革命運動の責任者の地位を占めた。

1912年には党の大衆宣伝紙「プラウダ(真実)」を創刊、支持者の底辺を拡大するのに熱意を注いだ。しかし1913年に逮捕され、またしても流刑地に送られてしまう。

第一次世界大戦の間、スターリンは流刑地で過ごした。そして戦争末期の1917年、2月革命が起こったことで、王都ペテログラードに戻ってきた。それからスターリンは、党中央委員会政治局員となり、第一線で先頭に立つ。10月革命後、スターリンは党の要職を歴任し、反革命勢力と戦った。

スターリンは1922年になると、党中央委員会の書記長に就任し、レーニンの後ろ盾となた。スターリンはレーニンの健康状態から先が長くないと予測、その後継者たる条件作りにも動き、ひたすらポスト・レーニンの座を目指した。1924年にレーニンが死を迎えると、スターリンはトロツキー派を圧倒、共産党の主導権を握った。

ソ連には共産党政権に好意を持たない者が多くいたので、スターリンは独ソ戦を「大祖国戦争」と呼び、共産党を決して表に出そうとしなかった。このためロシア人たちはドイツとの戦争という大義名分の下の結集し、戦争を戦い抜いた。

大戦後の東西対立を見越し、ソ連軍を強引に西に進軍させ、ポーランドとハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、ユーゴスラビア、東ドイツを手中に収めた。

スターリンの独裁権力を築いたのは、地に足のついた民衆の指導と新聞の主筆で培った文章力、自分をレーニンと同列に見せかけた演技力、同床異夢の同志たちを切っていった決断力だと思われる。

スカルノ

スカルノはインドネシアの民族主義指導者で、また独裁的政治家でもあった。そして何より、デヴィ夫人はスカルノの第三夫人だ。

スカルノは教師の子として生まれ、高校時代寄宿したのが民族主義者の家庭で、その影響を大いに受けた。

インドネシアを支配していたオランダは、典型的な愚民政策を推進してきた。このためインドネシア人の底辺は、ほとんど教育を受けることがなく、オランダの300年以上にわたる植民地支配を受けた。1927年にバンドン工科大学を卒業し、翌年にはインドネシア国民党を創設、自らその党首の座についた。

オランダ当局は、そうしたスカルノをマークし、1929年についにスカルノを投獄した。2年間の監獄生活を終えたものの、そのまた2年後には流刑に処された。

1942年になって、日本軍がオランダ勢力を一掃すると、スカルノにまた活躍の場が巡ってくる。日本が敗れた1945年8月17日、スカルノは独立を宣言した。戻ってきたオランダ勢力は、インドネシア軍の鎮圧に移るが、ナスティオンなどの軍人が頑張り、合流した日本人の支援を受け、ついに駆逐に成功した。

初代大統領に就任したスカルノは、精力的に国際会議を開催した。軍部の指示の下、スカルノ体制を確立、議院内閣制を廃止して、本格的な独裁を開始した。

反植民地主義の立場から、ポルトガルの植民地である西イリアンの解放闘争に力を注ぐ。

スカルノの権力基盤は、軍部と共産党、イスラム教だった。その上に乗っているため、ときには親共政策を打ち出すなど、バランスをとりながらの独裁を実施した。

しかし、共産党がスカルノの目の届かぬ地方の教師たちなどに食い込み、着々とその基盤を固めていた。インドネシアで共産主義革命の機が刻一刻と熟していた。1965年9月30日、ついに共産党が動いた。軍の長老や陸相などの軍の高官が一斉に襲撃された。このときに6人の将軍が殺害された。

この時無傷で難を逃れたスハルト将軍は、実に手際よく反撃に転じた。共産党の幹部たちはたちまち捕らえられ、次いで地方の幹部や左翼教師を根こそぎにし、一気に粛清した。

共産党をそこまで助長したスカルノは次第に検量を奪われていった。2年後にあh完全に大統領としての全県を喪失した。失意のスカルノは、1970年にこの世を去った。スカルノは共産党に傾斜したことが決定的な失敗となった。

李承晩 ―韓国大統領

李承晩は1875年に生まれ、日露戦争の勃発した1904年に渡米し教育を受けた。そしてプリンストン大学で哲学の博士号を取得した。

その後は反日活動に従事、1919年に上海へ赴いて臨時政府を樹立、李承晩自身が大統領に就任した。1921年意向はアメリカに戻り、そこで独立運動を続けた。しかし1910年の日韓併合によって、朝鮮半島の日本化が進められていき、李承晩の存在など全く影響の及ぶことはなかった。

アメリカ軍の進駐した南半分は、アメリカ指揮民主主義国―大韓民国―が建国された。その独立はアメリカ軍によって保証されることになった。

李承晩はワシントンから41年ぶりに帰国すると、民主議院議長に就任した。48年に国会議員になり、次いでこの国の初代大統領に選出された。

1950年6月に北朝鮮はソ連に支援され、突如38度線を突破し南進してきた。北朝鮮は一気に釜山近くまで進撃し、弱体な韓国軍では巻き返しが不可能な状況に陥った。そこでアメリカ軍を主力とする国連軍が朝鮮半島に出動した。

国連軍は失地を回復した。総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は仁川上陸作戦を実施し、北朝鮮軍のは意義をつき、逆襲に転じた。国連軍―アメリカ軍―は、北朝鮮の領内深く侵攻した。ところが冬に入って中国軍が義勇軍の名目で参戦、ついに38度線付近で膠着状態に移った。

1952年以降、朝鮮戦争は小康状態を保ち、そうした状況下に李承晩は反日的な姿勢をはっきり示し始めた。海洋主義宣言を発して、李承晩ラインなる日本漁船の操業禁止地域を設定した。日本の漁船拿捕事件が続出し、漁業に多大の損害を与えた。

戦争という非常事態の下で、李承晩は着実に独裁的権力を握っていった。そうした批判からかわすため、反日政策は絶好の隠れ蓑となった。

しかし、大学教授などを中心とする4月革命によって失脚し、大統領と自由党総裁を辞任した。

毛沢東 ―中華人民共和国主席

毛沢東は湖南省出身で、師範学校在学時に左翼運動の影響を受けた。1921年に28歳を迎えた毛沢東は、中国共産党創立大会に出席し、その後に各地を歩き労働運動を指導した。1923年には早くも中央委員となり、5.30事件後は湖南省に戻って、農民運動に関係した。

毛沢東は、中国大陸の制圧に成功すると、中共軍の進撃した先において、地主などの旧支配階級を家族もろとも皆殺しにした。その犠牲者の総数は3,000万人と言われている。レーニンやスターリンがロシア革命で殺害した1,500〜2,000万人を大きく上回った。

1953年には、過渡期の総路線を提起し、社会主義化の道を国民に示した。また、農業の集団化を進めた。

1958年に人民公社化を含む大躍進政策を唱えるが、農村においての製鉄といった非現実的な内容が多く、この目論見は惨めな失敗に終わった。独裁権力者の毛沢東もこれには愕然とし、ついに国家主席の地位を劉少奇に譲った。

しかし毛沢東はすぐに国家主席の座を取り戻すべく、ソ連型の社会主義路線を目指す劉や、小平などの失脚を狙った。そして1966年に文化大革命を起こし、まだ政治をよく理解できない10代の少年少女を大動員し、彼らを紅衛兵と呼び、穏健派の一掃に使った。

文化大革命で殺された中国人は、1,500〜2,000万人と言われている。毛沢東が2度に渡って独裁権力を握ろうとしたことで、5,000万人が犠牲になった。

毛沢東は信頼を寄せる林彪と新しい体制を築き上げていった。しかし林彪はクーデターを計画した。それに失敗して逃亡の途中に内モンゴルで登場した飛行機がミサイルにより撃墜され死亡している。

毛沢東は党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位を占め、1976年に亡くなるまで決して手放さなかった。

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