レーニン論の著者ルカーチは、ハンガリーの哲学者。1919年のハンガリー革命の崩壊後にウィーンに亡命し、プロレタリアートの階級的主体性を哲学的に基礎づける最初を切り開いた人物である。
レーニン論は、ルカーチがマルクス主義の立場に移行した初期の作品である。ほぼ最初ということもあり、情熱を持って新たな理論の探求へ入っていった一つの成果であると同時に、欠陥でもある。
史的唯物論はプロレタリアート革命の理論である。なぜなら、その本質は、プロレタリアートを生み出し、プロレタリアートの全存在を規定している。かの社会的存在の思推による総合だからであり、またなぜなら、解放をめざして苦闘するプロレタリアートがその明確な自己意識を史的唯物論に見出すからである。
本書の基調は、この命題を、レーニンがマルクスの継承者として、「革命の現実性」の時代である帝国主義段階において、どのように発展させたか、また、それを発展させる契機はなんであったかを、ルカーチ流の「弁証法」によって解明しようとした点にある。
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「ブルジョア革命」=「民主主義」という概念が、現在においてもほとんど疑問視されることなく、歴史学を含めた社会科学において使われているのであるが、こうした概念には、「資本主義の発展と民主主義の発展」は「必然的に結びつく」という、一種の歴史館がひそんでいるのである。ルカーチは、こうした史観にたいして、レーニンに即しつつ、それが「図式的で機械的な「論証」で「完全な幻想である」ことを、イデオロギー的にではあるが、明らかにしている。
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資本主義の発展は、プロレタリア革命を現実問題にした。革命の切迫を見てとったのはレーニンひとりではなかった。だが彼は、自分たち自身が理論的に、現実に予言したプロレタリア革命が実践的-現実的になったとたんに秘境にも逃げ出してしまった人々と、勇気、専心、犠牲において異なるだけでなく、また同時に彼の同時代人のなかの最良の、最も思慮ある、最も献身的な革命家たちと理論的明晰さにおいても異なるのである。なぜなら、これらの人たちですら、プロレタリア革命の現実性を認識したのは、この現実性がマルクスの時代に彼らに認識しうるような方法で、すなわち時代全体の根本問題としてにすぎなかったからである。だが彼らは、こうした彼らの――世界史敵見通しからの、だが世界史的なものにすぎない――正しい認識を現実問題全体の、政治的経済的、理論的戦術的、扇動的組織的問題の確固とした方針にすることができなかった。いまでは完全に実践的になったマルクス主義を具体化するための、こうした措置を遂行したのは、レーニンただひとりであった。だから、彼が――世界史的意味で――プロレタリアートの解放闘争が現在までに生み出した、マルクスに匹敵する唯一の理論化である。
本書の中でも理解しやすい段落を持ってきたけど、上記の文章を読んで「素晴らしい」と思う人はこの世にいるのだろうか。僕には何を言いたいか本当に分からない。何回も読み返せば分からんこともないが、この文書はクソ。
クソだと思ったので著者も訳者も調べてないけど、訳者の東大教授はあとがきでルカーチは素晴らしい人物と書いているので、世間的には評価されているんだろう。ただ、こんなクソな文章が評価されているとしたら、現代の「哲学」分野にはゴミしかいない。こんな文章を読んで書かされる学部/学科に学費を払って勉強したら時間と金を無駄にして人生台無しになる。大学で哲学系の分野に進まなくて正解だったと思わさせてもらえた一冊だった。