読書ノート

光源氏の世界

源氏物語の世界では、菅原道長が時代の最も有力者として日本に君臨していた。しかし、菅原道長はルイ14世にのような太陽王ではなかった。ヴェルサイユに比べれば、平安の朝廷の簡素さは、むしろ厳酷と言えるくらいだった。世界中に独特と言える社会があるとすれば、それは紫式部時代の平安京をおいて他には見いだせない。平安京はそういう社会だった。

「源氏物語」は11世紀初頭に成った。ここに描かれる社会は、10世紀に属している。光源氏の世界 (1969年) (筑摩叢書)では11世紀中葉から11世紀中葉までの時期を扱っている。

平安時代

784年、天皇は勅令を発し、ナント素敵に始まった平城京から北へ約50km、長岡京への遷都を命じた。平城京と同様に、新都造営のモデルは唐の首都長安城となるはずだった。その実行は、一門の勢力を延ばしつつ合った藤原氏の一人、藤原種継の統監下にあった。

宮廷ならびに政府諸機関が滞りなく長岡に移された。藤原種継は実行力に富む有能な組織者であった。しかし、敵の数も多かった。敵の中には、天皇の弟・早良親王と諸臣下がいた。ほどなく藤原種継の元から怪しい醜聞の煙が立つ。流れた噂は(おそらく真相であるが)、中国帰化人の一豪族が新都の土地を提供し、後に藤原種継から宮廷での報償と恩恵を得ている、ということであった。敵はこの噂話を煽った。そして長岡京遷都からわずか1年後、藤原種継は暴漢に襲われて殺害された。藤原氏はこの事件を自分たちにとって有利な方向に変化させた。何人かが逮捕され、処刑された。早良親王は淡路島への島流しにされたが、その旅の途中で、公式の指令により殺された。ほどなく、疫病やその他の凶事が皇室と藤原一族を相次いで襲い始めた。医学の知識がまだ原始的な時代だったので、政府はあらゆる凶事を早良親王の怨霊のなせるわざであると考えるようになった。

長岡京に遷都されてから10年たらずで、あのろう領と資材を要した造都であったにもかかわらず、天皇はまたもや遷都の勅令を発した。今回の新京の地は、北へ約16kmほどの小村であった。この小村は戦略的にも悪害に優れ、拡張可能な地形であった。しかし、この遷都の大きな理由は、早良親王と藤原種継の亡霊が未だに長岡に漂っていて、長岡の発展を阻んでいるかもしれず、政治文化の華やかな中心地となることがたえてないかもしれない、と天皇とその側臣たちが感じていたからだ。

794年、朝廷は新しい首府を平安京と名付けると布告した。泣くよウグイス平安京である。この名称は、日本最古の都市らしい都市である平城京の一字と、これまでの首府同様に造営のモデルとしている唐の長安の一字とを組み合わせて作られている。後年京都としてその名が知られることになるこの都は、1000年以上存続する皇都であった。

894年は、平安京に遷都してからちょうど100年目にあたる。この年に政府は遣唐使を廃止している。ほぼ3世紀にわたり規則的な間隔をおいて使節が日本から隋と唐の朝廷に派遣され、政治や経済機構、社会組織などの知識や文化などを持ち帰っていた。日本はこれによって7〜8世紀の驚くべき飛躍と進歩を可能にしていた。894年になり、あの有名な学者政治家である菅原道真が唐との国交の大使に任命される。が、1ヶ月後になって遣唐使の任命は取り消され、大陸に使節を送る制度が廃止されることに決定する。菅原道真自身、権力争いに加わっていて藤原家と対立していた。そして菅原道真には、もし唐への長い渡航に乗り出すとすると、帰国するまでに自分の首府における地位が危うくなっているかもしれない、という危惧があった。文人として唐学者として、偉大な菅原道真ではある。しかし彼とても、政治を学問に優先させざるを得なかった。

しかも、永々と続いていた唐も、その終焉の時が近づきつつあることを政府は知っていた。当分の間は、使節を送る必然性が薄らだままであると感じていたこともある。実際、国交が回復するのはこれから4世紀も経た後である。

*  *  *

源氏の世界を理解するにあたって特に重要なことは、中国の影響の実態とその程度を見定めることである。607年(推古15年)に遣隋使が渡った時、一行には数多くの留学生が含まれていた。何年も滞在した後、彼らは起工し原始的な島国王国の建直しを、彼らが敬服する先進国、直接目にしたことのある成熟した国の路線を辿って、行う努力を払った。7世紀の大化の改新ではこれら留学生が活躍している。大化の改新は、氏族優勢の国家の変革で、中国と同じく、君主天皇が氏族豪族のうち最高権力を持つのみならず、全民族全国土の単独統治となる国家をうち建てる改革である。8世紀の初頭、最初の恒久的首都が奈良に築かれた。いわゆる奈良時代、長岡遷都の年までの時代、中国文化の諸相のあれこれが貪るように吸収された。

学生も僧侶も遣唐使に加わって大陸に渡った。帰国の際には、新鮮な知識、清新な中国の大偉業の見本実例の数々を芸術学問の諸分野にわたり持ち帰った。それに加えて中国と朝鮮からの移民避難民がいる。これらの多くは芸術家であり技能者であった。都会文明を造る仕事に彼らも一役買った。更に仏教の教団がいた。着々とその影響範囲を広げつつあったこの教団も、海外より移入してくる複雑多岐の文化を伝搬させるに役立った。仏教は、この世紀のうちに国家宗教となった。そして決定的影響を建築や彫刻、絵画などに与えた。

この傾向は、都が平安京に遷都された後も相変わらず強かった。政府の使節団派遣が停止されたにも関わらず、僧侶学者たちの中国訪問は跡を絶たなかった。平城京と同様、平安京における国家行事も、範も長安に求め、唐が滅亡した後も永く守られた。公文書ならびに準公文書は全て漢字で書かれた。そして貴族階級は依然として中国のものに心を奪われていた。宮廷女性を喜ばせるには、中国から持ち帰った刺繍飾りを贈るに限る。あるいは「唐めく」新しい楽曲を弾いてやればそれで良かった。上手に唐詩の引用ができていることも、社会的成功を獲得する確実な鍵となっていた。どんな物にでも、その前に「唐」の一字がくっついていさえすれば、間違いなく上品で高価なものとされた。

政治・社会・経済機構の領域では、もともとあった強い貴族豪族の伝統のために、中国から大仕掛に仕入れた制度から日本の逐次離反することができた。特に、大化の改新がその時である。政治的には新しい独自の制度が確立され進展し、中国型の官僚制に、ただ官職名をそのまま残して、全てとって替わっていた。7世紀にとられていた中国の土地分割法と税制は、はるか昔に消滅していた。経済の成り立つ基盤は、いまや外国に先例を求めない荘園制大所有地である。政治として経済上の権力は、一個の氏族の手に集中され掌握されるところとなっていた。そして、これは将来何世紀にもわたって、日本固有の、特殊情況としての様相を呈することになる。

人々は亡霊に祟られること、生霊に取り憑かれることを信じていた。間違った日に、間違った方角に向かって歩き出すこと、髪の毛を洗うこと、他の数限りないタブーを犯すこと、これらは多数の小さな神々の懲罰と怒りを招くことであると信じていた。

背景

紫式部の生まれた頃、既に中国朝鮮との国交が途絶えたまま、約100年は過ぎていた。危険を冒しても大陸へ渡航し続けていたのは、貿易商と学僧たちである。他の目的の旅行は一切禁止されていた。また規則上外国から大使が迎えられることもなかった。朝鮮の新しい王国となった高麗が、日本へ使節を送り込んだことがあるが、商人のみ取引のために留まることが許された。日本は徹底して交渉を拒否していた。日本はこれらの民族を、学ぶべき何物も持たぬ夷狄と見なしていた。10世紀の日本は、まさに島国として孤立していた。

「源氏物語」には、平安京の文化生活が、あるがままに、ほぼ完全に記述されている。しかし、この小説の中に外国人が出てくるのは、冒頭に登場する高麗からの来朝者数名のみである。

*  *  *

貴族の屋敷を別にすれば、市街には人家がぎっしり軒を並べ、紫式部の時代に人口が10万人近くになっている。これは、長安や帝政期ローマに比べればむろん取るに足りない数ではあるが、同時代のヨーロッパの都市のどこよりも遥かに大きな人口である。

平安京は大きなチェス盤の如く市松模様に区割りされ、一区が次々に少区域に分割される。しかも素晴らしく規則正しい系統を持つ京である。住民は自らが済む区街を清掃する責任者を持っていた。また周期的に観察を受けた。市街は残らず皇居を出発点として番号で整理されていた。

平安朝家屋は軒が長く差出ていて、窓がないことなどから、家内は薄暗い。日暮れ後に用いられた証明は、か弱り灯油とロウソクである。ロウソクは時おり使われたにすぎないが、しばしば大火災の原因となった。貴族生活の大部分は薄明かりの中で送られていた。特に女性は、ほとんど永遠に薄暗い状態の中に暮らしていた。

平安時代の家屋の薄暗さは、多くの墳丘の原因でもある。情事は薄闇の中に起こり、薄闇に消える。時には、恋人たちは相手あ誰であるかの知らずにいる。光源氏は、天皇の婚約者をそれと知らずに口説き落としてしまう。これが原因で、光源氏は敵対者一派の策謀に口実を与え、失脚するのである。

どんな建物でも、立ち聞き屋や除き屋にとっては好都合にできていた。この時代の文学に繰り返し使われる言葉は、「垣間見る」(文字通り垣根の間から除くこと)であり、物語の筋が、ふと耳にした会話とか、格子戸の間から姿を見せる乙女の姿を巡って展開してゆくことが多い。「プライバシー」とは、紫式部の時代ほとんどの人々にとって無意味な言葉であった。

*  *  *

交通困難の事情も、平安朝生活のいまひとつの構成要素であった。道路は、首都近郊であっても惨めな状態にあった。特に梅雨期は、道は泥水の流れと化してしまう。地方では事実上道路のない所が多かった。また、一夜を泊まるにも宿場がなく、宿屋がなかった。公益施設は何ひとつなかった。

最も速い旅は、むろん馬に乗ることだった。馬は、荷物の運搬には使われなかったが、近衛府の兵士や飛脚などに利用され、私用としても男子が火急の場合に乗る乗り物であった。だが、行儀正しい源氏の世界の貴公子たちにとって、馬は相応しい乗り物ではなかった。通常、公卿たちは3km/hで重々しく進む不便な牛車に乗っていた。官位の区別に従って、それぞれ身分相応の乗り物、また従者の数が政令で定められていた。庭園を美しく飾ることと同様に、乗り物は、便利な可視的な消費形態であった。平安京の人々はこれに意匠をこらすことを競い合っていた。平安時代全体を通して、乗り物は重要な地位象徴であった。

早くて快適な旅が不可能であったことから、人々は都を離れて遠出に出るのを嫌った。公務のためか、あるいひあ山中の寺院で秘密会議を行うときでもなければ、長旅は極力避けられた。たとえ近くの僧院を訪れることすら、至難の旅行だった。その準備を整えるのに何日も必要とし、急速に何日か使った。その上さらに、静養のために旅のあと何日も要した。追放の地があたかも地球の反対側ででもあるかのうような印章を持たされるが、実際は京都からそれほど離れてはいない、現代では電車で2時間足らずの場所だったりした。

通信機関も貧弱だった。その結果として、大陸文化が、いかに首都で盛んであっても、地方には全くしみ込むことがない。そして、村里に存在していたような古来土着の文化が目的としたところは、源氏の君や周囲の公卿たちを喜ばせるものではなかった。そのために、京を別にすると自らの国についての興味と知識が、平安朝の都会人には皆無だった。地方支配の実権を失うことにより、米作経済の財政的基盤を失うことにより、藤原家独裁の中央政府は、首都における実量をも弱め、遂に失うことになってゆく。国内の交通・通信機関の開発の遅れは、やがて紫式部の世界の衰亡をもたらすこととなる。

*  *  *

平安京は地球からその姿を消した。火災と地震によって壊された。残ったものは、幾世紀も続いた戦乱が崩壊し尽くした。戦乱はの問に大規模な放火や掠奪、破壊行為などに発展した。15世紀、応仁の乱が始まった。平安京が残したものは全て焼き尽くされ、都は文字通り野辺となった。

現在の京都には、平安時代から残っている建物はひとつもない。宇治には、平安朝建築で現存する最大もの、平等院鳳凰堂がある。その他の有名な建物は、主に徳川から明治にかけて修復されたものばかりである。平安朝家屋の全貌を示す絵は一枚も残っていないことから、再建や復元がどれほど正確であるか知る由もない。

政治と社会

「日本の国は、これ、吾が子孫の王たるべき地なり。いまし、皇孫、いでまして治せ。あまつひつぎの隆えまむこと、まさに天地ときわまり無けむ」と命じた。これは、歴史開闢以来錦綿と継承され今日に至っている天皇家が、日本の君主であることの神話的・宗教的基礎となっている。この建国の神話の主目的は、まさに皇の家系の権威確立にあった。国全体にわたって受けいられるまでは決して確かではなかった権威である。皇室とは同等氏族中首位の氏族にすぎなかった。この国の各地に割拠し支配力を持っていた豪族の数あるうちの一つであった。7世紀の大化の改新に発展し成就した中央集権化の動きは、豪族間の勢力争いに終止符を打ち、唐の国家体制を模範として、中央集権の律令国家を建築することを目指した。この国家体制のもとでは、天皇に絶対的権威がある。全国土およびかつては皇室勢力に拮抗していた豪族の氏上をも含め全人民を、天皇は最高権力をもって支配した。

しかし、政令や詔を発布することで、この種の革命的な社会変化を遂げるわけにはゆかない。まして、語句のいちいちまでもがある外国からそのまま借用されるのがしばしばであるという場合に、詔の力とはどの程度のものであろうか。命令ひとつで有力な議会民主政が誕生するわけではない。中央集権の専制政治機能が働き出すわけでもない。古代日本において貴族気質と氏族の伝統は強い力を持つ。そのため、現実の社会と経済の変革は、大化の改新が目標としかつ成果を上げた、あの劇的な機構変革に追いつき得なかった。

皇室の権力と威勢の隆盛は、桓武天皇の皇位に対応する。都が平安京に遷都されたのは桓武天皇の時である。

だが、桓武天皇ですら、天皇の毛にはあまねくゆきわたっていたとは言えず、政治理論が要請する検量を持たなかった。大化の改新の内容の大部分は、現実の日本に比べて遥かに発達した国家のために構想されたものであり、また深く根を張った氏族制度の伝統が改新とは真っ向から衝突するものであった。事実、新制度は従来の豪族の清涼クォ温存させたばかりか、新たに、貴族の地位を強化させることになった。改新によって豪族は滅ぼされなかった。のみならず、豪族は、特にそのうちの一氏族は、天皇およびその朝廷の威信を、これによって新たに利用し、自らの地位を強化し得たのであった。

天皇は理論的に支配者であったとしても、政治権力は一片ずつ剥ぎ取られて、既に天皇に残された権力は全くなくなっていた。

10世紀半ばから、天皇に残された機能は2つ。祭祀と文化に関する機能に制限されていた。天皇は、天照大神直径の子孫として、神道の祠官として、ほとんどすべての時間を当然、宗教的儀式・行事を司るために、捧げることを期待されていた。政治のことを「まつりごと(政)」と言う。もともと「(神道の)祭り事」の意味であった。後に意味が広がって、世俗の政治についても用いられるようになった。天皇の役割は、法令に公式の宗教的認可を与え、天皇の名において実施されるようにすること以外、何もなかった。

平安朝の天皇は重要な役割を、演じ続けていたが、政治権力が完全に欠如していたこと、加えて天皇を若年で退位させる方針があった。

天皇の生涯は、厳しく範囲を限定されたものであった。また、平安朝の天皇のほとんどが、このように短い期間在位していた。ここから強烈な個性を持つ天皇が生まれることは望み得ない。まして、政治の現状に対し革新的な決定を、天皇の側からなされることはなかった。

藤原家

藤原氏が最高権力を握るまで、その歩みは遅々たるもので、その道程は険しかった。もとをただせば、大化の改新に大功をたてた立役者に出のが藤原性である。政権を独占していた蘇我氏を流血革命によって滅ぼすことに成った国政改新の計略の主謀者に、ひとりの皇太子とこの藤原氏の祖がいた。

藤原鎌足(中臣鎌足)の子孫たちは、宮廷における藤原家の地位を維持した。また、その地位を更に堅固なものとするよう勤めた。続く3世紀間、彼らは絶え間なく拮抗氏族との争いを継続した。また藤原氏四家の間にも、勢力争いが繰り広げられた。9世紀には北家が他を抑えて最も賑わった。

10世紀中頃にいたって、藤原氏はついに、競合する派閥を残らず制圧し、政界のヘゲモニーを確立する。967年という年代は、ひとつの境界標となる。この年、藤原実頼が関白になった。これで政権が完全に藤原氏の手中に移る。2年後、藤原氏は、門外の源高明を失脚させ、対抗する家門は皆無となる。藤原氏の他氏族排斥の運動もこれで終わりを告げた。

藤原氏は物理的な力に頼る方法を取っていない。単なる武力が極盛を永く保守する保証とはならないことは自明である。藤原氏は完全な政治家であった。藤原氏は目的を達成させるために、1にも2にも政治的方法を手段として選んでいた。

藤原氏の方策のひとつとして日本史家は、「入内政策」を使っていた。藤原氏の有力者は、この制作に従って天皇の後宮に一門の娘のみが入内するよう、周到用意に心がけた。その結果、どの実力筆頭者も、ほとんど間違いなく時の天皇の外舅または外祖父になっている。この某策は、彼らの先行者である蘇我氏が既に用いていた。しかし、これほど大規模で組織的な策略は初めてのことだった。天皇は、幼いことで王座に就く。そしてすぐさま藤原氏の娘を娶らされる。その娘から生まれた皇子は、皇太子の定められる。そして皇太子は、その父帝が30歳前後に退位せざるを得なくなる時が来ると、皇位が譲り承け即位し時期の天皇となる。ここから再び、新たなサイクルを開始する。

紫式部の生まれた頃には、この同族結婚の系統の作り上げた天皇家と藤原氏の間の締結が、もはや揺るがし難いものとなっていた。たとえ理論的には権威があるにしても、天皇は、もちろん何らその意志を問われることなしに、これらの姻威関係を受入れなければならなかった。もし事情がそうでなかったならば、少なくとも何れかの天皇は、自分の叔母と結婚しなければならないとい、この時代に珍しくない運命に相対し、躊躇し拒絶したことだろう。

11世紀までは問題なかったが、この頃から藤原家の息女が次々に早世するようになる。後宮に入っても、出産しない。または誕生するのが皇女ばかりであった。こうして藤原家系に属さぬ天皇が即位する事態が発生する。藤原家を衰退に導く最初の功績をあげたのが、他ならぬこの天皇であった。

ほとんどの天皇は精神と意志の独自性を主張し得る年齢に達する以前に退位させられている。その在位は、当然、短期間だ。その短期間、宗教的世俗的行事に、儀式に忙殺され続ける天皇には、政治的野心に費やす時間も精力も残ってなかった。

光孝天皇という人がいる。彼は55歳の無能者だったし、在位は短期間であった。しかし、その間に藤原氏は、天皇がたとえ成年期にあろうとも、その新政権一切を藤原一門の氏長者に委ねるという慣例を確立してしまった。この時の統治権委任の勅が関白の基礎となる。大化の改新の制度から大幅に離反した執政権の出現である。これによって藤原氏は政治的ヘゲモニーを確立した。天皇が幼児にある場合には摂政となり成人後は関白となった。そして、この最高の地位を、藤原家の氏長者が代々占めることになった。

*  *  *

藤原氏の競争者のうちでも、他をしのいで最も有名な人物は、大学者で能筆家の菅原道真だった。9世紀末、菅原道真は国政の指導者の地位に就いていた。宇多上皇は、菅原道真を寵遇し、ついに藤原一門は失墜者になったかに見えた。だが、それは一時であった。藤原氏は活動を開始した。菅原道真が年少の天皇を廃す陰謀をたくらんでいると、当の年少の天皇に信じ込ませることに成功する。天皇は詔を発して、道具を太宰権帥の地位に左遷した。平安時代、九州の役所の長官に任ぜられることは、死神の接吻を受けることに等しかった。上皇の道教救助の努力は無益であった。これは901年のことである。菅原道真は2年後太宰府にて病死する。死因は「傷心」のためと言い伝えられている。

こうして菅原道真を政治の舞台から失脚させた藤原氏は、このほかにも危険な火の気を巧妙にもみ消している。菅原道真の子は男女23人であったと伝えられている。そこで娘たちを京に居留させ、息子たちを都外へ離散させた。

菅原道真の死に続く数年間、京には相次いで大凶事が起こる。平安京は旱害や洪水、火災に襲われた。これら全ての不幸を菅原道真の怨霊の呪いであると考えられた。菅原道真失脚に関係する書類は焼き捨てられた。左遷前の地位右大臣に復官させ、正二位を追贈し昇格させた。更に7年後、死せる菅原道真は太政大臣にまで昇進した。最高官位に就けられた。

*  *  *

紫式部が宮仕えに入った頃、藤原道長の全盛期となっていた。30年にわたる藤原道長支配の時期は藤原一門の顕栄の頂点であった。藤原道長は、傑出した美貌と治世をもつ娘に恵まれた。娘たちを利用することで、天皇家と強固な絆を作り上げた。そのため、藤原道長は高位の官職を必要としなかった。藤原道長自身は比較的低い階位に止まって満足していた。

藤原道長は贅沢と豪遊を愛し、誇示を好んだ。すなわち、「栄華」という言葉に要約されるものをことごとく愛した。彼は、自分の趣味を満足させるために、あえて公費をつぎ込むことすら辞さなかった。国司は藤原道長の思いのままにならざるを得なかった。また、人夫の集団が近くの民家に乱入し、藤原道長の邸の材料となる柱や戸、その他を奪うなどという、荒々しい放恣を見ても、藤原道長は為すがままに任せていた。

社会

平安朝社会は、階層性の基礎の上に成り立っていた。

官位精度の著しい特徴は、ある一個人の宮廷の位階が、彼の政府の官職を決定するとともに、その財産をも決定した。そして、ここでは官僚としての身分と役職を授かる決定的な条件が、他ならなぬ家柄であった。

貴族の生活を細かく見てみると、位階によって制限され規定される点がいかに多かったか、信じ難いほどである。政令により勅令により、それぞれの位階に応じて生活水準が徹底的に規定されている。すなわち、門の高さや用いる車の種類、随行者の数、例はいくらでも挙げられる。衣服も位の高低により厳密に定められている。その定めは、手に持つ扇の型までに至っていた。

人物評価の基準は、決定的な物が一つあるだけだった。ひとの出自である。

行政

中国の行政機関を借用したが、家柄を考慮に入れることと共に、知性の取り柄を確かめる試験制度を取り入れていなかった。

一度役職が設けられると、消えてなくなることは滅多に無かった。その結果どうなったかと言うと、仕事と呼べるほどの仕事は皆無の官省に、多くの役人が、肩書は立派につけていてもただ座っているだけとなった。

厄介至極な組織に出来上がっている政治機構は、実際の行政面よりはむしろ儀式と形式とを主な役目と考えるようになる。行政の方は、段々と途方も無い遅滞と非能率化を来すようになる。

経済

紫式部の時代、貿易・通商が国の経済に対して演じた役割は微々たるものにすぎなかった。金銭の流通はほとんどなかった。経済全体の動きを支える媒介物は、極東地域の主要産物、米であった。

大化の改新は、経済料の再分配に大いに関与した。その目的は、国の富を豪族氏上から中央政府へ転ずることであり、同時に富の不均等を少なくすることにあった。土地は全て公領に属すとの制定がなされて、中国から「班田収授法」(口分田)という創意に満ちた制度が受け継がれた。国民はすべて6歳になると田地の付与を受け、その田畑を死ぬまで保持し得る。

光源氏や彼の宮廷仲間たちが、不在地主あるいは種々の免租税荘園保護者としての、諸権利を主たる財源としていた。

*  *  *

社会の階梯の最下段に下って行くと、そこには農夫や漁師、木こり、その他の労働者がいた。人口の圧倒的多数を構成するのが、これらの人々であった。国家経済の上で唯一の生産者階級が彼らだった。しかし、彼らの人生についての実質的信頼し得る資料は、何一つない。平安朝の文学は、あれほど生き生きと位階階層の生活を伝えているが、一般大衆についてはほとんど一言も触れていない。我々が現在できることは、大衆の生活の単なる推測による再現に過ぎない。

10世紀初頭までに自由人と奴隷との間の区別が、ほぼ完全にその意味を失い、仮想自由民が奴隷を吸収して大体の均一な庶民階級を形成していた。その構成員の大部分が貴族領土や荘園の田地に働く農民だった。彼らの上には政府または荘園官吏から重税が課せられている。この時代の農民の実情は、おそらく餓死せずに生き続け、働き続け、子を生むという最低限の生活であって、こういう生活に必要不可欠な物以外ほとんど何も持たなかった。

個人の存在が「汚らしい、貧しい、獣のような、はかなく短い」ものであった。農民は全くの文盲で、不安と迷信に取り憑かれ、自らの狭い経験の範囲外のことには何事にも無知だった。そしてひたすら利益を手にすることなく労働の日々を過ごしていた。生活の単調さは、神道の祭と結婚、出産、死によってやっと紛らされていた。中国文化の華麗も富貴も、仏教の深遠な教えも、都にある文明化した快適な生活風習も、農民の過酷な陰鬱な人生には何ら関わりのないものだった。田畑から解放された後、やっと数時間だけ、彼らは暗い家に戻り、仲間同士型を寄せ合うのだった。彼らはここで食べ、ここで眠る。寝所は板の上であった。食物の粗末さはこの下ないものだった。政府当局は、苦心惨憺、農民自らの労働の結果である生産物を農民自らが享有することを妨害する。凶作の年など、百姓たちは、よりしのぎやすい生活を求めて逃亡を企てることもあった。当時、逃亡は深刻な問題を提起している。百姓の逃亡を防止するために、政府は強い方策を講じた。旅行者に対し身分証明書の形態を要求したのもその一例である。とはいえ、当時の農民の運勢はまだまだ良い方だった。後には、骨身を削る貧窮に加えて、度重なる凶作や強制貢納の義務、過酷な軍役への徴発、そして内乱による難渋にも堪えなければならなかった。

更に一層人心を騒乱動揺させたのは、山僧の襲撃だった。981年、都を危害から守護する目的で設けられた一大仏教中心地である比叡山からの僧兵が、大路を大手に振って、政府に対する要求を強く示威していた。その後も、平安慈愛の住人たちは、これら武装した法師が定期的に山を下り、放火・略奪という仏教徒の名に相応しからぬ、したい放題の数々の非行を犯すことに戦々兢々として暮らした。

宗教

当時の日本人にとって、仏教を受け入れることが、すなわち他のいまひとつの宗教(神道)の信仰を許さぬことを意味する、という観念が存在しなかった。種種雑多な巨大な迷信網とは相容れぬはずのものである。が、この迷信との矛盾も彼らの考えには入らなかった。そして迷信は、日本古来の伝承と中国の民間伝承の両者から生み出されたものであった。

仏教は多くの点で神道と正反対の教えのように見える。しかし、日本史の大部分にわたり、むろん平安時代全期にわたって、仏教と神道とは平和共存の関係にあった。

日本において、二宗教の主導者間に起こった抗争とは、基本的には政治権力の闘争であった。仏教教団は日本土着の信仰を抑圧する野望を持ったことがない。しかも、それらの日本古来の宗教に順応するのが仏教だった。その順応の仕方は、ただ寛容のみであった。例えば、仏教によって土地の神々は、仏や菩薩の化身であると説かれる。紫式部の時代、仏教と神道との間に矛盾あり、とする考えは、たとえあったとしても、おおよそ無意味なものと一蹴されていた。

他方、神道とは極端に単純な宗教である。この単純者も二者間に争いがない原因となる。神道が十分に成熟した宗教であったら、ある種の宗教哲学を有し、論理体系があり、精密な儀式祭事を伴い、膨大な司祭制度があったとしたならば、当然仏教の侵入を拒めたことであろう。しかしながら、神道には哲学的な、内省的な、論理的な要素は存在しない。詳細に構想された祭儀もなく、階層的な司祭制もない。神道には聖者がいない。殉教者もいない。開祖すら存在しない。聖典はなく、当たり前だがその注釈書もない。教育と芸術に対する関心もない。そもそも仏教伝来によって初めてその名称が、仏道(仏の道)に相対するものとして神道(神々の道)という名が与えらられたのである。

*  *  *

出家剃髪をとげた人々に向かって羨望の年を表すことが、当時の習わしであった。が、平安朝貴族たちのうち出家生活に対して現実離れのした美しい幻を夢見ていた者は数少ない。僧院の生活とは、苦しい、愉しみのないものだった。尼寺はことさらそうだった。尼寺の陰鬱な空気、むさ苦しさは、いわば死せる人生に等しい、と彼らには思えたのである。少女が受戒し僧侶によって長い髪が切られる時、傍らにいる者は、彼女がいま「やさしい暖かい人生には無縁となって死んだ」ことを知る。そして涙を流す。

世を捨て仏道に入るとは、肉体の感覚的快楽を諦めること以上に大きな、犠牲を払うことである。そこでは愛するものから完全に離別することが要求されている。友人や妻、子供が、我が身より切り離されることなのだ。日常の生活からのみならず、心の内の想念からも外へ切り離されなければならないことだった。

迷信

平安期の人々が日常生活における様々な出来事を、実際に細めにわたって取り決める段になって基準としていたものは、宗教であるよりは迷信である場合のほうが遥かに多い。

いくつかの迷信には、神道の影響がうかがわれる。特に、呪術、巫術、その他の秘術に関連したものが目立った。これらには、原始宗教の持つシャーマン教的傾向が現れている。そして、呪術者は、しばしば神道の神々に向かって祈願していた。だが、彼らの大部分は、神道という一宗教の信奉者ではなかった。神道の影響を受けたもの以外に、他にも幽霊や悪鬼などと関係のある多くの俗信、数々の迷信があった。これらの由来を求めれば、現代なお起源が不明瞭な、日本古来の、得湯の民間伝承に端を発していると思われる。

日本は、儒教と共に陰と陽の二元論と五行の法則に基づく陰陽道の厖大な体系を輸入していた。天地間の陰の要素(女性的な、暗い、冷たい、受動的な、地・水、月)、陽の要素(男性的な、明るい、能動的な、天・火・日)の循環によって、人間界の諸事が支配されているという不思議な秩序の観念、および非科学的宇宙論より派生する観念に対して、遥かに強い関心を寄せていた。

中務省に属する役所の内、最も活発なものの一つは、陰陽寮であっった。ここでは天文歴法、占盤、吉凶禍福の算定などに関するもろもろの活動が司られている。政治が、自然界の成長の法則とか変事とか、いわば自然の基本的運動に即して進められるよう、政府は政策の方針を立てる際、この陰陽寮に助力を仰いでいた。大部分は中国より渡来したものであったが、紫式部が生まれた頃までには日本独自の展開を示すようになっていた。それゆえ、外来のものとは考えられていなかった。

更に、陰陽道占考の基盤である60周期の循環の法則もある。五行と呼ばれる法則の示す如く、陰陽の原理が全てに通用し時間をも支配するという考えである。12の自国のそれぞれを表す配役(子丑寅卯など)を十干(木・火・土・金・水の兄弟一対ずつ)と組み合わせることによって、専門家は日数年数両方に適応できる60単位の1サイクルを作り上げた。この循環の法則を正しく理解することで、未来の出来事の予測が可能であると信じられていた。

緊急を要する国事までもこの歴法の迷信によって遅らされた。1028年、平氏の謀反に対する遠征についても、反乱を放置しておけぬ状態であったが、実際に軍隊が派遣されたのは1ヶ月以上経ってからである。吉兆の日が見つかるまで待っていた。

その他種種雑多の起源より出る禁忌のあれこれが山なすほどあった。例えば、手の爪を切ってよいのは丑の日のみである。足の爪は、寅の日以外ダメとされる。入浴は、5日に1度のみ、しかも吉日の場合のみ許された。

人体を説明する際、陰陽道の学者は、内臓の主要器官がそれぞれ五行に、季節に、色彩に、または味覚に、結び付けられた対応表を引き合いに出した。たとえば、肝臓は五行のうち水の要素に対応する。冬は肝臓の季節であり、黒がその色、塩辛さがその味であるとされる。同様に、心臓は火、夏、赤、苦味に相当すると言う。

もし、秋に熱病にかかった者がいたとする。医者は例の対応表を取り出し、患者のどの器官が悪いのか、その原因は陰が過剰のゆであるのか、あるいは陽過剰の所為であるかを決めようとする。

病気の性質が判明すると、意志は十干十二支表を取り出し、治療を始めるのに適当な日と時間とを定める。そして、その治療法はもっぱら鍼と灸によっていた。

人体には、これら十二の通路の箇所が左右対称を成している。6つは陰に属し、他の6つは陽のもの、そしてこの各々が主要な内臓器官に結びついている。これらの通路は、何らかの原因で塞がり得るのであって、その場合は陽が過剰となり陰が活動しなくなる。鍼を差し込む目的は、ふさがった路を開いて不健全な状態を回復することにある。

灸もまた、複雑な陰陽の相互関係の理論に基づいている。鍼は陽を抑える目的であったが、灸の場合は、陰の過剰を抑えるためにあった。患部と連関する部分に円錐形の艾を置き、火を点じて皮膚に達するまで燃やすのであるが、これは物凄く痛い。そして、効果は全くない。

「よきひと」とその生活

伝統的な日本を想像する。文化面では、能・歌舞伎・俳句・浮世絵・三味線・茶道・生花などの芸能、また禅などの盆景が挙げられる。社会面では、侍と芸者が挙げられる。思想の特徴としては、真理に対する直感的理解と突発的啓示とを重視する禅仏教的な人生経験の考え方を、しばしば武士道として知られる武士の倫理を、忠義と人情という2つの要請についての極めて強い意識を、また自殺に対しての、恋問題にからむ心中に対しての、極端に寛容な態度を、挙げられる。民家建築の面では、敷き詰められた畳を、大きな共同浴場を、掛け物を飾る場所としての床の間も挙げられる。食品では、魚の刺身と醤油が、(天ぷらとすき焼きは西洋より輸入された)挙げられる。しかし、ここに列挙された事柄は、どのひとつをとってみても、紫式部の時代に存在していたものではない。

平安朝政界の重要人物のほとんどは、公務対して無関心であった。職務を遂行するよりは、優雅な漢詩を作ること、華美な儀式を几帳面に見守ることを好んで時を過ごしていた。地方に散在する荘園の管理にいたっては、一層気乗りしない者の方が多かった。この仕事は、とりもなおさず、彼らの貴重な日々の都の外で送らなければならないことを意味していた。思わしくないことには、卑俗な百姓を相手にしなければならない。貴公子たちが敢えて田舍へ遠出する時も、自分の領地を視察するつもりがあるわけではない。日がな一日、狩を楽しむためですらない。それは、秋の紅葉を鑑賞し歌を詠むため、山寺へ参籠するための旅行である。平安京と日本全体が遊離していた。都会の貴族たちの間に強健活発な生活や自立の精神を尊ぶ態度は育成されなかった。

政府の各部門官省は多くの場合、人員過剰となり、形式化の傾向、政務を全て祭祀式典にすり替えるという傾向を持っていた。元来精力的に働いていた官僚ですら、挫折感と怠惰に流される定めにあった。この現象は藤原家の主流系に属さぬ、そのための実量を持たぬ地位に甘んじていた人々に特に著しい。

*  *  *

当時、美男子のり想像は、小さな口と細い目、顎の先に一寸たくわえた顎髭のある色白の丸顔である。そして髭を別にすれば女性の美人像もこれと全く同じであった。美男子は女性のように美しかった。当時随一の美男とうたわれていた藤原伊周は色白で完全な丸顔だった。

平安朝の貴人たちは男も顔に白粉を塗っていた。また、髪や衣に香料を惜しみなく付けた。香料を調合する技術は高度に発達していた。当時はごくわずかな人々が名ばかりの入浴をするに過ぎなかった時代である。衣服が豪華に仕立てられ選択が困難であった時代である。香は非常に実用的な目的に役立っていた。既成の商品として香があったわけではなく、自分自身の独自の香を作っていた。

女性には逞しい落ち着いた冷静な男性の方が理想的であると見え、感受性の豊かな情緒のきめ細かなタイプ、現代では女々しいと言われるタイプの男子を好んでる。

*  *  *

食い物についての記録はほとんど皆無だった。これは食い物自体が卑俗な話題であるとされていたからである。酒の宴に関しては記録が多いにもかかわらず、食事の内容についてはほとんど書かれていない。清少納言は、大食感を嫌悪していた。身分のある人は、優美に食物をつまむべきである、と清少納言は書く。下層階級の人々の最も見苦しい点は、がつがつと獣のように食べ物に食らいつくことであった。

主食は米である。精製された米は主として貴族階級の食用にあてられる。米に対する副食で一般的なものに海藻類や大根があった。果物と木の実も食されることが多く、菓子にもなった。だが、砂糖は使われていなかった。氷は、特別な保存質に貯えられ、夏になると削氷に甘葛の汁をかけた一種のシャーベットが、裕福な人々の好物になった。魚は煮るか焼くか塩漬けにされる。刺し身は食されなかった。鮑のような貝類は特に好まれていた。仏教の影響により肉類は避けられていたが、狩で捕らえた鶏肉は、食用として許されていた。しかし、狩自体は珍しい時代だった。庶民的な野菜には、里芋・茄子・人参・葱・大蒜(朝鮮から移入された)などがった。

食前の内容そのものは種類も乏しく単調であった。この点、中国料理は異なる。道教の影響とも考えられるが、中国の料理に示される多彩な種類と手の混んだ調理法は、当時既に世界一流となっていた。平安京の生活では、食卓の楽しみは高く評価されず、割烹と栄養の両面で食膳は総じて貧弱であった。

アルコールを含まぬ飲料と言えば、水しか飲まれなかった。牛乳は、奈良時代に飲まれたことがあるが、嫌悪され飲まれなくなった。茶は、一般には普及することはなく、薬用の目的でのみ用いられた。茶の流行を見るのはこれより200年後後である。

10世紀の日本の飲み物として最も重要なものは酒であった。700年前に中国の旅行者が日本人について「強い酒を浴びるが如く飲む」と記している。宴において、客人には地位の順に従って次々に酒が注がれる。盃を口に運ぶ前に、しばしば歌を一首詠むこと、あるいは詩の朗詠が求められていた。飲酒の遊びもいくつかあって、敗れた者は一気飲みをさせられていた。こうして大騒ぎの酒盛りになっていった。

*  *  *

「よきひと」の主食の時刻は、ほぼ午前10時と夕方4時頃である。紫式部の生きていた時代に、間食の習慣が下層から上層へ、つまり労働者階級から貴族階級へと広まった。干タコとか煎餅が間食となった。そしてこの間食により第一の食事が従来より2時間ほど繰り下げられた。1日は軽い朝食から始まるようになる。

だが、平安朝の食事時間、就寝時間は何も固定したものではなかった。時刻は水時計で測られた。これは至極面倒な方法だった。特定の宮廷管理を除いて、正確な時間の感覚を持つ者はいなかった。時計の奴隷となる人間もいなかった。時間は正確に守られることが不可能なので、1日1日は、そこはかとなく過ぎ去る。区切りがはっきりしない。標準時刻の観念は全然なかった。時間がどれほど経過しているかも分からず、いま何時頃だから就寝すべきであるという考えはなかった。

*  *  *

有閑階級は遊ぶことには多様多彩な遊戯、競技を十分に持っていた。まず「碁」である。これは奈良時代に中国から輸入され、貴族階級の間に人気を博していた。賭け事と言えば、「すごろく」が花形だった。すごろくは碁と比べて下品と考えられていたので何度も禁じられたが、効果はなく続けられた。簡単なサイコロ遊びとして「調半(ちょうばみ)」と呼ばれるものもあった。女性の間で人気があったのは「乱碁」で、この遊びは一本の指の上にどれだけ多くの碁石を乗せられるかで勝負を決める遊びである。

室内での遊びの中には古典故事の知識を必要とする遊びもあった。二組に分かれ、一連の問題、かけ言葉などを出し合って遊ぶ「なぞ(謎)」がある。また、「韻塞」も行われた。これは古詩の一字を塞ぎ隠して、詩の内容・韻律から、あるいは自分の教養で押し当てさせる遊びである。これら以外に、文字を旁と辺に分けて、片方を隠し他方を当てさせる、という遊びもあった。

平安期の男子貴族に最も人気のあった野外遊戯は、蹴鞠(けまり)である。まず円を描き、競技者はその内側で革製のボールを蹴る。競技の意図はこのボールを次々に蹴って地面に落とさぬようにすることである。

様々な遊戯の中に、観覧を楽しむための競技もある。その中に「相撲」があった。これは貴族たちの娯楽のために地方から集められた相撲取りが演じたものである。貴族は、競馬や弓術の競技も見物した。この時代の唯一の残酷なスポーツと言えるものは「鳥合」でり、これは貴族平民の問わず人気がある賭け事の一つであった。

女性は、野外に出かける機会が滅多になかったので、屋外の娯楽は少なかった。だが女性の楽しみとしては大規模なボートレースである「舟競」を観ることだった。また冬には「雪ころがし」に興ずる楽しみがあり、女性たちが、タライや銀の器に雪を盛り上げて遊んだという記録もある。

*  *  *

平安朝上流階級の生活は、一定のは2に限定され、息苦しいものであった。彼らの生活は、ほとんど室内に限られていた。特に女性の場合、屏風と几帳の外側へ、薄明かりの中より光の中へ出ることは滅多になかった。男性も同じだった。彼らは宮廷内に都内の邸内に時を過ごすことが多かった。また彼らは旅行を避けた。屋外の生活は主に庭園内の遊戯あるいは寺院への訪問に限られていた。

上流階級の人々の興味と関心の範囲も同様に狭い範囲内に限られていた。中国文化に尊敬を持っていたが、大陸の現状には全く無関心だった。しかも中国より向こうは大海原の底に沈んでいていると思っていた。社交の面でも無関心を貫き、自分以外の階層の人々にも完全に無関心だった。自分が属する階級以外の者を人類の枠の中に入れていなかった。思想と思想の対決にも関心がなく、仏教を信仰していたが、人間存在の問題とか悪の起源についても考えなかった。過去はカビ臭いものとして軽蔑し、未来は自分のり外と直接関係ないので興味なかった。現在を享受することに全精力を捧げていた。そして男性の場合、地位と身分とを確保することに精力を注いだ。

このように自分自身の存在と行為のみが関心事なる、小さな閉鎖的社会では、ひとの会話は限定された狭い範囲のことを話題にすることとなる。

時間があり余ってもてますこと、ここからゴシップが生まれ氾濫する。特に女房たちの間に。大抵の場合、意地の悪い誹謗中傷であった。ゴシップの迫害により死に追い込まれる者もいた。

美の崇拝

政治のせいで学問の優位が崩された。国内で手に入れたくなる役職のほとんどは、特定の家系に属するある一家門に約束されていた。地位の割当は個人の能力とは全く無関係になされていた。以前高い地位を誇っていた教育は、紫式部の時代、低い所に落とされた。

当時、中国古典を研究することが学問だった。しかし、教育は国民全人口のごくわずかの人々に与えられるものであり、大学やその他学校に入学可能かどうかは、家柄によって決定されていた。個人の才能は問題にされなかった。女性は、たとえ優れた才能の持ち主であったにせよ、学問から全く除外されていた。

紫式部と同じ階層に属する人々はほとんど学問に関心を抱いていなかった。ところが、学問以外の文化と共用を身につけることとなると事情は違った。そして、これらの人々の築いた文化は、驚くほど多方面に渡っている。また、彼らの文化は美を見極める判断力の根底の上に成り立っている。例外なく平安朝の貴人は、男女共々、ひとつならず芸術を見に付けた人々、素人芸術家であった。

芸術の中心は、何と言っても詩歌だった。平安朝貴族の日常生活を成立させるのに、詩を作ることを詩を贈ること、詩を引用することは不可欠な要素であった。全世界を見回しても、これほど、人の詩歌の才能を重視する社会は存在しなかった。「源氏物語」には、作者自身の作である歌が800首余り含まれ、その他無数の歌が引用されている。貴族階級の日常生活を描写する作品の中核を成すものが詩歌であった。

また、会話中に歌が詠まれることもあった。

時に応じて適当な歌を詠むことに、もし失敗すれば、それは社交上深刻な無礼を働いたことを意味する。

平安時代の上流階層の人々は、歌に明け、歌に暮れる生活を送っていた。重要な行事や事件で歌の伴わないものは何ひとつなかった。出産があれば祝の歌が雨あられと降り注がれる。歌の贈答が、正式の求婚の、婚姻の席の、中心をなしていた。また死期が近づけば、平安朝貴族は歌を巡って展開してきたその生涯を、別離の歌を詠むことで締めくくらんとした。

*  *  *

平安朝日本における詩歌の姉妹芸術は、書道であった。詩文を愛好する人々は、実際に文字を筆写することが多くの楽しみを味わっていた。

書道は、芸術の中でも高い地位を占めている。芸道の好事家鑑定家の揃っていた社会では、能書きが重んじられること必定であった。人の礼節や感受性、人格は、話や書くものよりも、その人の筆の跡を見ることでよりよく知り得るという信念を、人々が持っていたことである。平安時代、歌が不得手であること、筆のわざが稚出であることは、共に由々しい弱点となる。

筆跡は人の心の鏡である。源氏の世界の人々はこう考えてたい。それゆえに、あるいは恋人となるかも知れぬ男性より、妻となるかも知れない女性より最初の手紙が送られるとき、人々はふるえおののきつつ待っていた。いったいどれほどの魅力が他にあろうとも、ただこの悪筆であるという一事が、人間の価値を地に引きずり降ろすのである。

男性の恋情を得る最初のきっかけは女の筆跡で、女の姿を見る前に恋心を憶える男も時おりある。そしてこれは男性に限らない。女性も同様に、よく書かれた文字の不思議な魅力には敏感に反応していた。

*  *  *

歌道と書道両者に高い価値をおく社会では、書簡文のやり取りが重要になった。

音楽もまた、平安朝貴族の日常生活に重要な役割を演じていた。彼らは音楽を聴いて楽しんだ。教養がある人々とは、鑑賞者に留まらず、笛や琴を演奏することのできる男女であった。もともとは中国に紹介されたものだったが、平安時代には完全に日本の文化生活に根を下ろしていた。音楽演奏が年中行事の式典となり、その他素人の即興音楽会が催された。

*  *  *

上流階級の社会には、時間の余裕が十分にあった。そのため、人々は美の世界を細部に渡って開拓することおに没頭できた。彼らの高い審美感覚に伴う規範はますます洗練され高くなっていく。そして、その規則のうちの細目はますます細かくなってゆく。例えば、文に結びつける花の色合いが正確に規定されていた。色彩感覚は特に発達していた。色彩の印章がどうであったか、王朝文学にはその表現が豊かに示されている。

美に対する感受性は、論理の世界の善よりも高く評価されていた。仏教の影響が強かった社会ではあるが、概して道徳原理より様式美が人々を支配していたのが平安朝である。

美の経験が、常に抽象的思索に対して優位に置かれ、感受性が思想の深さより重要視された。いかに博学であろうとも、儒学の博士たちは愚かしい人物にすぎず、人々に受けいられなかった。それは、博士らが優れた、新しい美的感覚を持ち合わせていないからである。

美の崇拝は、優美な魅力のある一社会の形成を促した。ここには多くの欠点があり致命的弱点もあった。しかしながら、それにも関わらず、この社会は、これからも世界文化史上重要な位置を占め続ける。西洋では未だ人々の生活が信じ難いほど粗野だった時期に、平安朝社会には既に洗練された生活、完成された紳士理想像についての概念が生まれていた。平安朝時代には、ヨーロッパ社会がルネサンス時代まで知らなかったものが、既にあった。

平安朝女性と男女関係

女性は全ての公事公務から除外されていた。これが当時の一夫多妻制と相まって、女性は甚大な自由時間が与えられ、文学の追求に専心することができた。

漢字は相変わらず圧倒的権威を保持し続けていた。男性間のあらゆる真面目な文章は漢字で書かれていた。漢字の優位が男性間に存在している反面、女性は「仮名」という表音文字を自由に最大限に使うことができた。それが彼女らをして生来の日本語、実際に口で語られる言語を記録することを可能にした。

平安朝の自国語文学の成長は、瞠目すべきものであらう。この成長は、紫式部の時代に頂点に達した。そして表音文字の使用に負うところ大であった。この分野こそ女性の独壇場であった。その国語字音は女で、新しいジャンルの文学(日記・旅行記・物語など)が次々に仮名文字で書かれるようになった。女性が文学界をリードしてゆく。ある有名な文人は、仮名文字で日記を書く決心をしたとき、あたかも女性が書いていると思わせようとしたほどである。

圧倒的多数の女は田畑に出て歯を食いしばって労苦していたのであり、男たちの非常な取り扱い方にも無言の忍従を続けていた。彼女たちは若くして、しかも何度も子供を産み、老いるのを待たずして死んでいった。彼女らにとっては、物質的な自立あるいは文化的逸興を望むことは、無意味なことだった。

*  *  *

おしなべて女性の顔は白く、下ぶくれの丸顔である。目は長い引目、閉じたも同然で、見るべくもここには眼の表情はない。鼻はちっぽけな紋切り型。あるかないか分からないくらい小さな丸、それが口である。

裸身には美的会館を起こすものではなかった。

しかし、髪の毛だけは例外だった。平安美人の頭髪は真っ直ぐに伸びた、光沢の良い、とてつもなく長い髪である。頭の中央で髪は分けられ、そのまま肩を越えて、黒い滝の落ちるように下に向かう。立ち上がった際に、床に届く長さが理想とされた。平安朝の紳士を悩殺するには見事な頭髪をちらりと見せるだけで十分だった。剃髪が、女性にとってまさに悲劇的な道に踏み込むことと考えられていたのは、一度断たれた髪は二度と元の長さに伸びることがなかったからである。

肌の白さもまた美人の印であり、高貴の生まれを示すものだった。宮廷の貴公子や女房を描いた絵画では階層が高くなるにつれ、ますます色白の顔になるのが普通であった。身分に相応しい色白の顔を創るため白粉も豊富に使用された。こうして出来上がった白色の下地の上に、既婚夫人の場合は頬に軽く紅を施すのが慣わしとなっていた。また、唇にもバラの蕾のような色合いを適当に添えるため、紅を塗っていた。

彼女たちは眉毛を抜き取っていた。しかも、もとの眉の位置に、あるいはほぼ一寸ほど上に奇妙な汚れともシミとも見える引眉を念入りに描いた。歯を黒く染める習慣があった。この染料は、鉄と五倍子の粉(ふしこ)を酢または茶に浸して作られた。平安時代以降何世紀かの間にこの奇異奇怪な習慣は国中に広まり、ある女性が既婚であることを示すこととなる。だが平安時代ではこの風習が上流階級に限られたものであって、未婚既婚を問わなかった。

眉毛を抜くことも歯を黒くすることも拒否する人は、周囲の人々からますます替わっていると思われた。普通の眉毛は毛虫と同じ扱いを受け、白い歯は皮を剥いた毛虫という扱いだった。お歯黒で染めていない歯は、笑うとぎらりと光る、身の毛が逆立つ歯であった。

高貴な生まれの女性像は、とてつもなく大きな衣服の外皮にくるまっている。また実にゆたかな黒髪を長く下ろしている。ちっぽけな背丈をしている。また、あるかないかの目と鼻、口、青白い顔に黒々とした歯の持ち主であった。

*  *  *

女性は宗教的には低い地位に置かれていたが、法律に関しては、平安朝女性の地位は著しく恵まれたものであった。一般的な法令によっては、女性の財産相続および保持権が保証されていた。荘園領地内の不動産あるいは物権という相続財産を得ていたし、自分自身の住居を所有することも法律で叶えられていた。女子の遺産が目当てで誘われ、求婚する男性の例もいくつか残っているほどである。

平安朝の上流階級の女性は、結婚して妻になると、式の後、当座の間両親の家に住み続けた。こうして攻勢では伝統になってしまった夫と姑の独裁制から逃れているのが普通であった。これまた女性の自律性を強めることになる。女性は、また身体に危害を加える暴力からも保護されていた。規則によって、夫が妻を打擲することを堅く禁じていた。夫が妻を殺害することも禁じられていた。許されるのはたまたま妻の密通を現行犯でおさえたときだけであった。

藤原氏一統の主家の妻に嫡男が生まれたとて、また、やがてその子から嫡男が生まれるにしても、男子に天皇の座が巡り回ってくるはずのないことは、自明の理であった。しかし、彼女に女子が生まれれば、才知美貌に恵まれて、皇子のあるいは天皇の閨室となり、未来の天皇の母となるという可能性が十分に備わっていた。

上記の政略を立て得るのは、貴族社会のある特定の階層に限られていたわけではない。身分の低い地方官の家に生まれた娘にしても、最高位の男と結びつきを持ち得ることが考えられた。日本の歴史を通じて、女性が男子よりも喜ばれるのは後にも先にもこの時代だけだった。

男子については、自分の息子が優れた家筋お養子として組み入れられるよう、あらゆる努力を惜しまなかった。名門に生まれ才気に恵まれ、見た目麗しき乙女に対しては、縁組を狙って激しい競争があった。

平安期文学に共通する主題に「妻争い」があった。これは、数多くの男が、あるt香知恵の女を手に入れんと争うことの意で、この種の競争を巡って展開する作品が、ほかならぬ平安朝物語文学の「竹取物語」である。

*  *  *

平安朝の大多数の女性は、内に閉じこもって閉鎖された動きのない人生を送っていた。偶然何かのきっかけで家の門を出る機会があっても、彼女の周りには牛車の壁があり、回教徒が顔を覆うベールと比較にならぬ完璧さで、他人の眼から見が守られていた。邸内では薄明かりの中に生活していた。そこでは日中と夜間の区別が付きかねる、それほどの薄暗さの中で生きていた。そして、女性は几帳の陰に隠れているが普通であった。夫と父以外の男性に対しても、姿を見せることはない。そして、これが当たり前だった。たとえ両親たりとて直接自分と顔を合わせないでいる。「鬼と女とは人に見えぬぞよき」。

この階級に生まれた女性は、召使いに侍られ囲まれて生活していたので、家事の義務からは解放されていた。育児の必要もなかった。そして、彼女たちの毎日はほぼ完全に座ったままの生活で、家の中を動き回って家事にいそしむことはない。その代わり、宙を眺めていつまでもいつまでも座っていた。ただ、そこはかとなく、歌が贈られてくるのを、誰かが訪れてくれるのを心待ちにしている。しかも、歌も来ず訪問もない1日となることが多い。「つれづれ」とは、「手持ち無沙汰の時間」という意味で、この言葉は、女性の生活を言い表す際の、基本的な語彙であった。しばしばこの語が使われる時、「つれづれにくるしむ」あるいは「つれづれをなぐさむ」という句になる。ここでは、閑暇とその結果は、身体に対する苦痛と感じられるほどになっていた。

*  *  *

男女の性関係は厳格な規律に従って統制されていた。その規律の基礎は、大体において階級の差異に置かれていた。

最初、「なかだち」という結婚の媒介者が男子とその家族に対して結婚に相応しい少女について話をする。この仲人の役目として、彼は事がうまく進みそうならば男女両者の間を取り持ち、正式の結婚申込みを行う。次に関心をそそられたならば、男は女に対して31文字の歌を贈る。歌には淡い恋心がしたためられている。歌を受け取った女は返歌を即答しなければならない。自筆のこともあるが、多くは娘の家族が代筆する。返歌を受け取ったら、男は慎重にそれを分析し、筆の巧さ、歌の才能は、その女の性格と魅力の確実な指針である。その女の返事が稚出であれば、この段階で男は損害必至で実りのないこの取引きに、見切りをつけてよいのであり、そのままにして二人の関係は自然に消滅するに任せて良い。

彼女が合格と決まれば、最も良い吉日の夜、男は女の家に密かに訪れる手はずを整える。忍び込むというのは全くの風習で、家族は事の進展を一歩一歩手に取るように理解していた。

翌日の夜、男は第二夜の訪問を、前回と同じく「密かに」行う。明け方、また這い去っていく。使者はその日の文通のために多忙を極める。

第三の夜は最も重要であった。その夜、「三日夜餅」として知られる餅の小片が、女の家族あるいは従者によって準備されて、彼女の部屋に置かれる。この餅は神道の父母神、伊弉諾尊・伊弉冉尊に対して備えられたものであり、新婚の男女がこれを食す瞬間が、婚礼の中心であった。男子と女子の結びつきが、ここにおいて宗教的に聖化される。

新婚の男女が家族友人の門前で飲食を共にすることによって、二人は既に結合していることを公に明示する。平安時代の祝宴の場合、三日夜の餅に引き続き同じ夜行われるのが通例であった。しかし、時には2、3日後に祝われたりもしていた。酒と食物は新婦の邸で用意され、婿は友人2、3人と共に招かれるのが普通であった。正式にはこの機会に初めて婿が花嫁の親族と対面することになる。

こうして二人は正真正銘の夫婦となる。女の元へ忍び込む必要なく、好きな時間に訪ねて良くなる。

第一夫人は普通婿の親族によって選ばれる。選ばれる前に十分検討され、交渉されている。考慮される最も大切な点は、社会的、政治的、経済的利益である。そして結婚はできるだけ早く計画されるのが良いとされた。配偶者同志の意志や願望は大体において問題にされない。

男女の結婚は、最年少は、男は14歳、女は12歳と定められていた。上流階級では12歳になるとすぐに結婚の約束が取り決められた。第一夫人は花嫁というよりは、むしろ、若く幼い夫君に対する保護者の立場にあるかのようにしばしば見えたことでもある。

第一夫人となっても結婚式後引き続いて両親と共に暮らすというのが当時の慣例であった。結婚生活が満足できるものであれば、夫婦は妻の住む邸宅へ夜通うのが慣わしであった。時には婿が居を完全に妻の里へ引き移すこともあった。これは日本古来の結婚制度である。夫の父親が死去または引退し、夫が一族の長となった時、この第一夫人は父母の家を離れ、夫の邸内北側の一棟の主婦として威厳を身に着け、使用人を統率し、またある場合には、彼女自身の事務官を置き、自分の財産管理に当たらせることになる。

彼女の責任は、できる限り孫を生むことである。子供を多く出産すれば、家族内における彼女の地位もそれだけ確実なものとなった。彼女は特に、娘の育成についても責任を負わされていた。娘たちは数々の高雅な芸道を修めるため、身分に相応しい訓練を受けなければならない。そうして、婚期到来と共にそれぞれ高い身分お家柄へ正妻となって迎えられることを願い、あるいは娘たちが天皇の後宮女官にもしくは中宮皇后として立てられ、家門のゆるぎない栄達を願って娘を育てることが、妻に期待された義務であった。

普通、正妻の長子が家督を継いだが、子供生まれない場合は第二夫人の子供とかを養子に迎え入れた。

平安朝の法律や社会の慣習では結婚関係はかんり自由であり、男性側にその自由が認められていた。しかし、絶対に許されない行為があった。それは、第二夫人に正妻の位置を与える行為である。誰彼問わず、妻の座を覆すのを認め許した男があるとすれば、正妻の家族はこぞって彼を攻撃した。また、その行為が社会的論理的に非難の的となった。

紫式部

紫式部には、他の宮廷女房のほとんどが関心の的としてた日常の軽い社交・噂話・冗談の言い合いなどを楽しもうという気は全然なかった。紫式部には、徳の高い貞淑な人物だったと言われている。

彼女の姿は、もう一人のライバル、やはり宮廷女房として仕えていた清少納言とは全く対照的だった。物怖じもの静かな性格とは、全く逆が清少納言だった。

紫式部の日記の一節に、「清少納言という女房は、大変高慢な面持ちをしていて、全く驚きである。学才を鼻にかけてあちこちに書き散らしている漢文などを気をつけて見ると、やはりまだまだ欠点だらけのものしか書けていない。あんな風に、いつも自分は個性的なんだと見せようと意識してばかりいる者は、必ず5日は他人から軽蔑されるようになるに決まっている。私には、あの人の将来は気の毒なものとなるに相違ない、と思えてならない。もちろん、才女には違いないはずだが、ああいうひとが、場違いな所であるのもお構いなしに、自分の感じていることをすぐおもてに出して見せたり、手当り次第、興味をひく物を持ち出してはひけらかすことばかりしていては、周りから軽薄な人間だと思われるに決まっている。こんな女の末路は良いわけがない」と書いていたりする。

紫式部の生家は、すぐれた文筆家を出している家柄ではあるが、藤原氏の家門のうち傍流の一つに過ぎなかった。しかし幼時より、たしかに彼女は詩文に長じた人々に囲まれ、学芸の香高い雰囲気の中で育てられた。漢詩を作ることが子供の頃の遊び事となっていた。

紫式部の父は長男に対してかなり期待していたので、漢籍の教養を十分積めるよう配慮をととのえた。紫式部の日記には、父と子が司馬遷の「史記」を読む真剣な様子が描かれている。男子と異なり女子に対しては、教養のための必修課目の中にこの種の勉学が入ることがない。そして、兄の傍らにいて自ら学べるところを学び取りつつ、兄の勉強を利用していた。父は、娘が奇妙にも漢籍に興味を寄せ学ぶ有様をそのまま見守っていたらしい。ある時(これも日記に書かれている)、父は2人の子が学ぶ姿を観察して、紫式部の方が兄に勝って漢字を読み取る力を持っているのを知る。あの有名な父の嘆きは、この時言ったものである。「おまえが男の子であったなら、どんあに嬉しいことだろう」。

紫式部の少女時代についての資料はほとんどない。紫式部の時間は、大部分が読書と和歌に捧げられていた。このことは、紫式部が標準的な漢籍、仏典に通暁することとなったし、また自国の文学にも広く精通していた。彼女の学識教養は求婚者となり得る何人かの男を怖気づかせたことであろう。いずれにしろ、紫式部は20歳まで結婚の約束を誰ともしていない。紫式部の結婚話は、その当時の女性としては遅かった。

長続きしない結婚だった。1001年(紫式部の伝記で最初に出てくる正確な年代)、紫式部の夫は不帰の客となった。原因はおそらく疫病だった。しかし、紫式部の寡居生活2、3年後に書き起こされた日記にも夫の名前が出てこない。しかも、紫式部は、二人の間に生まれた子供について一言も語っていない。紫式部には娘が一人いた。これだけしか分かっていない。紫式部はこの娘について何も語らなかった。

夫の死後5年間、紫式部は実家に戻って生活していた。この期間に紫式部の小説創作が始められた。

そしておそらく紫式部は1025年から1031年の間に齢50某で亡くなったか、僧院に入り世を捨てたと考えられている。

紫式部の障害に関してはこの様に真実が乏しい。

*  *  *

中国の書物を読むことはここの社会では女性にとってのタブーとなっていたので、紫式部の侍女たちは、女主人がこのような非正統的な楽しみ方をしているのを見とがめて、恐ろしい予感を感じていたりもした。漢字が書いているということで、お経ですら女が読んだりするのを止められていた。宮廷内において、紫式部は外国の古典文書の知識をひた隠しにしていた。他の女房たちが、自分の興味を嗅ぎつけはしないか、という不安は一首の固執心理となっていた。

紫式部は、彼女が生きていた時代までの主要な日本文学作品をよく読んでいた。一条天皇は「源氏物語」を読んだ際、「この人は日本紀をこそよい給ふべけれ。まこと才あるべし」という感想を述べた。

歴史書および宮廷公文書年代記などだけに紫式部の知識は限られていない。紫式部は、まず厖大な「万葉集」を始めとし8世紀以来の日本詩歌の宝庫を知り尽くしていた。平安初期の数多い仮名文字の作品、日記や紀行記、雑感文など、広く読んでいた。更に、紫式部は、仏教の儀礼・階層・教団について豊かな知識も持っていた。

「源氏物語」をめぐって

「源氏物語」の原本は、54章から成る。しばしば独立に、流布されていた。紫式部の小説は、「ドン・キホーテ」、「戦争と平和」、「カラマゾフの兄弟」の二倍の長さだった。ただ、「失われた時を求めて」よりかは短かった。

小説の出来は、1世紀の4分の3以上の期間に渡って展開する。ここには、4世代の人々が登場する。そして、登場人物の数は、ほぼ430人にも昇る。しかも、これがモブを除いての数である。そしてこれらの登場人物はほとんどの場合、互いに血族関係を持っている。そのため、初期の注釈者たちは、小説中の個々の登場人物をその中に含みこむ系図作成の仕事、すなわち果てしないシジフォスの労苦にも似た仕事に、何年もつぎ込んでいた。池田亀鑑の「源氏物語事典」では、系図のページが活字印刷で70ページ以上にも及ぶ。しかし、紫式部は一度たりとも系図上の矛盾をしなかった。物語中最も目立たない人々についてさえも、家系に関しての統一に破綻を見せない。

また、この小説全体、どの一節を取り出してみても、その個所の年代を月日に至るまで明確に定め得て、曖昧さが残ることはない。どの個所についても、重要な人物のそれぞれの年齢を性格に割り出し得る。「源氏物語」全体が、用意周到に組み立てられた、一個の芸術的統一体である。

10世紀についての覚書

ヨーロッパの10世紀は、無味乾燥なみすぼらしい時代である。前世紀の度重なる異民族侵入の波が去って、ヨーロッパ大陸は、おおかたに荒廃し疲弊しきっていた。支配者たちは、零露した国土の散々たる文化水準を、もはやこれ以上低下させられず、ただ維持し続けることに汲々としていた。

イングランドは、ノーマン人が整復する前の世紀にあって、デイン人との無意味な悶着を未だ繰り返している。イタリアにとっても、この世紀は波乱万丈の時期である。ビザンツ帝国との貿易を確立し、後代のベニスの偉大さを確保することも可能となる。ベニスの統督が最初の「海の結婚」を祝ったのが997年であった。ところが、国の大半は北から異国人にとって、所かまわず支配されていた。

ドイツでは、サクソン王朝が神聖ローマ帝国を再興していた。

ヨーロッパを北に向かうと、スカンジナビアでは、ヴァイキングの侵略はスカンジナビア半島に住む人々の未開の生活を豊かにし、洗練する結果をもたらした。北欧英雄物語が、文字に書き留められ、初めてはっきりと文学の世界に仲間入りした。スカンジナビアにおいて、10世紀は重要な黎明の時代であった。

ビザンツ帝国は、南からイスラム教徒、北からスラブ民族とモウコ人の襲撃に耐え抜き通した。度重なる包囲攻撃にも関わらず、コンスタンティノープルは決して陥落しなかった。しかし、ビザンツ帝国は見る影もないほど縮小されてしまった。

中国では、10世紀、唐王朝が決定的な崩壊を見た。唐の没落の後、宋朝が960年に興る。その間に約50年間の不安定な過渡期がある。ここで政権の連結が切れる。

宋は、紫式部の生まれた頃に始まり、約3世紀後に至るまで続く。中央集権行政の着実な発達があり、芸術が更に一層開花する時代である。中国絵画や磁器などの多くの芸術様式において、世界を先導し続けた。

唐が瓦解したのと同じ世紀にもう一つの王朝が崩れた。約250年続いた新羅は、統一のなった朝鮮を中国の一属国として統治してきたが、ここに終焉を見ることになる。長い間、新羅の為政者たちは中国の政治制度を吸収し、社会的にも文化的にも、朝鮮半島を小さな唐に改造しようと務めてきた。新羅の衰退は中国の大唐王朝のそれと時を同じく、終焉もほぼ同時期に訪れた。936年、王建が半島を統一、500年近くも続くことになる高麗を興す。10世紀は朝鮮の最も傑出した宗教詩人や均如大師(きんにょだいし)を産んだ。


「源氏物語」を中心とする世界において、前後約100年の期間中、日本語でものを書いた注目に値する作家のほとんどが女性である。この時期ほど、圧倒的に女流作家が文学界に君臨する事態は、文学史上、類まれな現象であった。しかも、女性の地位が伝統的に決して回復され得ぬ劣等位に決定づけられている世界に起きていた。

紫式部は無限の注意をもって詳細を見つめ見極めつつ、自分の眼で観察したありのままの世界を、ありのまま描写した。ここには、ひとつの美しい世界の、底しれぬ興味をやまずそそられる世界の、真実の絵図が、与えられている。しかし、「源氏物語」に描かれている人々は、10世紀日本の人口の僅かなパーセンテージを代表するにすぎないということは知っておかねばならない。

光源氏の世界 (1969年) (筑摩叢書)では、平安朝文学が多方面の資料を礎にして新たに見直されている。この点、日本文学の研究としてはあまり多くないと思う。しかも、平安朝文化の様相が、ヨーロッパ文化のコンテキストから眺められ、証拠を挙げて光源氏の世界が独特であると示されること、これが光源氏の世界 (1969年) (筑摩叢書)の独自性である。しかも著者のモリスは、平安期の人々と共に、肩肘張った学問を売り物とする態度を軽蔑している様子もある。

そして翻訳も非常に良かった。とにかく良書である。

おすすめ記事

読書ノート

2021/4/13

なんでもわかるキリスト教大辞典

キリスト教の教えや特徴、独特の用語をキリスト教の内部にある複数の流れ、要は「教派」ごとに説明している。聖書や神学、教義、教会史、礼拝学、芸術、個人の伝記、信仰録など、キリスト教を知るための切り口は様々だけど、その中でも「教会」に焦点を当てている。図解も多くわかりやすい。

続きを読む

読書ノート

2021/3/31

政治のキホンが2時間で頭に入る

政治とは国会と内閣、裁判所について学ぶことである。この本は政治について「分かった!」という感覚を与えてくれる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/14

医者が教えるサウナの教科書

「仕事ができる人はサウナが好きではなく、サウナが好きだから、仕事ができる」として、サウナへの愛を語っている。理由なしにこれを言うとただの洗脳だが、サウナが仕事のパフォーマンスを上げる医学的根拠をきちんと説明して、医学的に正しいサウナへの入り方(ととのい方)を紹介している。

続きを読む

読書ノート

2021/4/20

プロテスタンティズム

ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明は事実に反する。ルター自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。

続きを読む

読書ノート

2021/4/21

ナチスの発明

野蛮で残虐な侵攻や迫害は世界のあらゆる国、あらゆる民族でも行われた。それが最も極端な形で現れたのがナチス(ヒトラー)である。人類は、ナチスが何を思い、何をやったのかを、もっと冷静に、もっと深く知る必要がある。ナチスの時代を真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観は、そろそろ修正されなければならないのではないか。

続きを読む

読書ノート

2021/4/22

楽しみながら学ぶベイズ統計

面白くて多様な事例を使って、ベイズ統計の基礎と活用法を解説する入門書である。本書をマスターすることで、不確実な事柄を数学でモデル化して、限られたデータの中でより良い選択を行えるようになる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/28

仏教が好き!

根っからの仏教好きな二人による仏教の愛の対談。古色蒼然とした仏教イメージが一気に吹き飛ばされる。

続きを読む

読書ノート

2021/5/27

日本人のための第一次世界大戦史

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。歴史からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代を正しく理解するということ。まず第一次世界大戦という基本的な史実を知らなければならない。

続きを読む

読書ノート

2021/5/20

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

続きを読む

読書ノート

2021/6/6

物語創世

文字を読むことができる人は一読に値する本。聖書からハリー・ポッターまで、書字技術の発展と共にそれらがどう広まり、どのように宗教、政治、経済を歴史や人物そのものを変えていったのかを説いている。

続きを読む

読書ノート

2021/6/8

日本車は生き残れるか

本書は、欧米に比べて日本がいかにダメなのかを語るのが目的ではない。日本の自動車産業も一刻も早く、モノづくり以上の付加価値を生み出すことで、「日本経済の大黒柱」であり続けて欲しいと願っている良書である。

続きを読む

読書ノート

2021/8/21

完全教祖マニュアル

新興宗教の教祖になれば夢は全て叶う。本書を読むだけで遥かに有利なスタートを切れる。本書を信じ、本書の指針のままに行動してください。本書を信じるのです。本書を信じなさい。本書を信じれば救われます。

続きを読む

読書ノート

2021/9/20

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。

“終わりの見えない戦乱の世”も、まさに先の見えない時代であった。そんな時代を生き抜いた武将たちのエピソードが、参考にならないわけがない。歴史は、失敗も成功もバズりも炎上も書いてある、生きた教科書である。

続きを読む

 

 

 

 

 

 

 

-読書ノート
-, ,

© 2023 Fukurogiブログ Powered by AFFINGER5