読書ノート

中国の赤い星

著者のエドガー・スノウは中国の赤軍と共に生活し、外部の世界に「赤い中国」とはどんなものかを初めて伝えただけでなく、中国人自身の耳に達したソビエト地区の生活の最初の包括的な物語である。

実際、中国の赤い星 (筑摩叢書 29)は共産主義などに偏したものではないが、アメリカ共産党は本書の刊行後しばらく党文献として禁書に加えられたりしている。日本では、日本語版が1937年に雑誌に連載されたが、数回出ただけで公表が禁圧された。

毛沢東と著者

毛沢東は不死身であるという評判がある。毛沢東の死は何度も南京政府によって発表されたが、数カ月後には元気に新聞記事に復活した。毛沢東に世界最高の賞金を懸けられたが、一度も負傷したことがない。タバコを愛したが身体検査を受けて全く健康であると診断されたりもした。毛沢東の中国共産主義界における影響は、他の何人よりも偉大である。毛沢東は、ほとんどあらゆるもののメンバーであった。革命軍事委員会、中央委員会政治局、財政委員会、組織委員会、公共衛生委員会等々。

著者は毛沢東と書面による会見を行い、自分の幼少時代、青年時代、どういうふうにして国民党と国民革命の指導者となったか、どうして共産主義者になったか、赤軍はどういうふうに成長したかを話している。

毛沢東の話し方には飾り気がなく、生活は簡素であり、人によっては毛沢東をむしろ下品で、粗野だと考えるかも知れない。けれども毛沢東は素朴という奇妙な性質と、するどい機智、世俗的な詭弁とを巧みに結びつけている。

しかも毛沢東は、中国古典のひとかどの学者であり、立派な演説家であり、有能な文筆家であり、うまざる読書家であり、哲学と歴史の深い研究家であり、義務的事務には驚くほど細心であり、疲れを知らぬ精力家であり、また、天才的な政治局、軍事的戦略家でもあった。

毛沢東は、熱心な哲学学徒であった。毛沢東はマルクス主義の哲学に限って読書するわけではなく、古代ギリシャ人、スピノザ、カント、ゲーテ、ヘーゲル、ルソーはもちろん、他の哲学者のものも読んでいた。

毛沢東の生涯は、一世代全体の豊富な切断面であり、中国における革命運動の源泉を理解するための重要な手引である。

毛沢東の幼年時代

毛沢東は1893年湖南省の村で生まれた。父は毛仁生という名前。

毛沢東の父は貧農で、若い時に借金があったので軍隊に入らざるをえなく、長い間兵隊となっていた。後に父は村に帰り、節約し、小商売とその他の事業で小金を稼ぎ、やっとのことで自分の土地を買い戻した。その頃には中濃として少し土地を持っていたので、余剰分を使って、父は少しばかりの資本を貯めて、富農の地位を得た。

毛沢東は8歳の時に小学校で学び始め、13歳までそこに通った。朝早くと夜は田畑で働き、昼間は孔子家語と司書を読んだ。毛沢東の先生が厳しく過酷だったので、生徒をよく殴っていた。そのため、毛沢東は10歳の頃に学校から逃げ出した。逃げたことで家で殴られるのが心配だったので、家に帰るのが怖く、あてずっぽに出かけ、3日間さまよい続けたが、結局は家族に見つかった。毛沢東が家に帰ってみると、驚いたことに父はわずかに温和になり、先生はおだやかになった。この毛沢東の抗議行動のケッケは、毛沢東自身に深い印象を与えた。

毛沢東が少し文字を覚えると、父に一家の帳簿をつけさせるようになった。また毛沢東が算盤を使えるようになることを希望したので、毛沢東は計算の仕事を始めた。

父は短気でよく家族を殴った。家族には少しもお金をくれず、とてもみじめな食事しかくれなかった。一方、母は優しい人で、関大で情深く、いつでも持っているものを分け与えた。そして父の慈善には不賛成だった。そのため、家族内では2つの党があった。1つは父、すなわち支配者だった。反対党は毛沢東自身と母、弟、雇人だった。

しかし、反対党内には意見の相違があった。母は間接的攻撃の政策を唱えたが、毛沢東は経書を引用して、父自身の論拠で持って父と論争する、という、自分自身の有力な論法を発見した。父の毛沢東に対する得意な避難は、親不孝と怠惰だった。そのかわりに毛沢東は年長者は親切で、情深くなければならぬという景初の文句を上げた。ナサケモノだという父の避難に対しては、毛沢東は年取った者は、若い者より余計に仕事をしなければならぬ、父は私より三倍も年を取っているから、もっと仕事をしなければならぬ、と言って反論した。そして毛沢東が父の年になれば、もっと一所懸命働くと言明した。

毛沢東は幼年時代を回想し、けっきょく父の厳格さが彼を失敗させたと語っている。毛沢東は父を憎むことを覚え、家族は父に対する本当の連合戦線を作った。同時にそれはおそらく毛沢東に利益を与えた。そのために毛沢東は自分お仕事に非常に勤勉となり、また帳簿を注意深くつけるようになったので、父が毛沢東をとやかくいう口実がなくなった。

毛沢東は経書などに加え、岳飛伝や水滸伝、隋唐演義、三国志、西遊記などを少年の時に読んだ。毛沢東はいつもこういう本を学校で読み、先生が側を通る時には経書を上に乗せて隠した。

毛沢東は13歳の時に学校を辞めて、雇人を助けながら、田畑で長時間働き、昼間は一人前の仕事をやり、夜は父のために帳簿をつけた。それでも毛沢東は読書を続けるのに成功し、経書以外の手に入れうるものは何でもむさぼり読んだ。毛沢東は大好きな「盛世危言」を呼ぶ本を読んだ。著者たちは一群の古い改良主義の学者たちで、彼らは中国の弱点は西洋の機会―鉄道、電話、電信、汽船―がないことにあり、それらを輸入したいと希望した。

毛沢東は中国文学の古い伝奇小説や故事を読み続けた。たまたまある日毛沢東はこういう小説には一つ独特なことがある、土地を耕す農民がいないことに気がついた。いっさいの人物は戦士、官吏、または文人で、農民の英雄は一人もなかった。毛沢東は2年間このことを怪しみ、それから小説の内容を分析した。毛沢東は彼らは全て輝かしい軍人、人民の支配者で、彼らは土地を持ち、支配しており、明らかに農民を自分たちのために土地で働かせたので、自分で働く必要がなかったことを発見した。

毛沢東の読書はだんだん毛沢東に影響を及ぼし始めた。毛沢東自身ますます懐疑的になった。母は毛沢東を心配し始め、毛沢東が心身の必要に無関心だと言って叱った。しかし、父はとやかく言わなかった。ある日、父は集金に出かける途中で一匹の虎に出会った。虎は出会い頭に驚いて逃げた。けれども父はもっと驚き、後に奇跡的に助かったことをよく思い出し、仏教に敬意を表すようになった。

その年、非常な飢饉になって、長沙で数千人が食物を持たなかった。飢えた人が救済を乞うて省長のもとに代表を送った。しかし、省長は「どうしてお前たちには食物がないんだ。おれたちはたくさん持っているぞ」と言い返した。人々は省長の答えを聞くと怒り、民主大会を開いて示威運動を組織した。民衆は満州人の役所を襲撃し、省長を追い出した。皇帝は民衆を嫌って「暴民」とし、譴責した。新任の省長は、暴民の逮捕を命じた。暴民の多くは首を切られ、首は将来の「謀反人」に対する見せしめとして柱にさらされた。

この事件は毛沢東の学校で長い間論ぜられた。しかし、学生らは傍観者の立場から語っていた。彼らはそれが自分たち自身の生活にどんな関係があるか理解していなかった。毛沢東は、謀反人と一緒に毛沢東自身の家族のような普通の人々がいたことを感じ、彼らに与えられた処分の不公正を非常に憤った。

翌年新米がまた収穫されず、冬米が無くなってしまった時に、毛沢東たちの県に食糧不足が起こった。貧民は金持ちの農家から助けを要求し、「喫大戸(無料で米を食う)」と呼ばれた運動を始めた。毛沢東の父は米商人で米不足にも関わらず、県から城内へたくさんの米を運んでいた。かれの委託荷の一つが貧乏な村民に抑えられ、父の激怒は非常なものだった。毛沢東は父に同情しなかったが、村民のやり方も悪いと思った。

この頃、毛沢東の受けた影響のもう一つは、小学校の急進的な先生だった。毛沢東はその先生を讃美し、その意見に同意した。

時を接して起きたこれらのことは、反逆的な毛沢東の若い精神に永続的な印象を与えた。また、この頃に中国の解体を警告したパンフレットを読み、政治的意識も持つようになった。これを読んだ後、毛沢東は祖国の将来を思って、国を救うのを助けるのは全人民の義務であることを理解し始めた。

父は、父と関係のあった米屋に毛沢東を徒弟奉公させようとしたが、毛沢東は反対し、母の実家の近くにある学校に入学することを決めた。毛沢東は従兄弟と学校に行き、入学手続きをした。その時、毛沢東は16歳だった。

新しい学校で毛沢東は自然科学や西洋の学問音新しい科目を学ぶことができた。その学校の大部分は効果な着物を着た地主の息子だった。こんあn学校に子弟をやることができた農民は少数で、毛沢東は誰よりも貧しい身なりをしていた。毛沢東は田舎生まれだったので、嫌われた。毛沢東は精神的に非常に意気阻喪した。

毛沢東の長沙時代

毛沢東はどうしても長沙に行きなくなり始めた。長沙は湖南省の首都で大都会だった。この町は非常に大きく、多くの住民と無数の学校と総督の役所があった。その冬、毛沢東は高等小学校の先生に、中学に毛沢東を紹介してくれるよう頼んだ。先生は承知してくれ、最終的には入学を許可された。しかし、政治的な事件が急速に動いており、毛沢東はそこに半年しか留まりえなかった。

長沙で毛沢東は初めて新聞を読んだ。それは民立報と呼び、民族革命派の新聞で、清朝に対する広州暴動、黄興という湖南人の指揮下の72烈士の死を報道した。毛沢東はこの話に非常に感動し民立報は感動的な資料で紙面があふれかえっていることを発見した。

反外国資本運動が、四川―漢口鉄道の建設と関連して開始され、議会を求める人民の要求が広がるようになった。ソレに応えて、皇帝はわずかに資政院の創設を布告した。毛沢東の学校の生徒はますます煽動された。彼らは反清感情を豚のしっぽ(辮髪)に対する反抗をもって示唆した。一人の友人と毛沢東は、豚のしっぽをちょん切った。しかし約束した他の者は約束を守らなかった。毛沢東と友人は、そっと彼らを襲い、無理矢理に彼らの辮髪を切った。合計10以上が、毛沢東たちのハサミの犠牲となった。こうして、短期間のうちに毛沢東は仮洋鬼子のまやかしの辮髪をバカにする程度から、辮髪の全般的な廃止を要求するまでに進歩した。政治的思想がなんと見解を変えることか。

武漢起義の後に湖南に戒厳令が発令された。政治的局面は急激に変化した。多くの学生は軍隊に加わった。学生の一軍が組織され、学生軍の内に唐生智がいた。毛沢東は学生軍を好きになれなかった。毛沢東はその基礎はあまりに混乱していると考えた。毛沢東はその代わり正規軍に加わり、革命の完成を助ける決心をした。清の皇帝はまだ退位せず、闘争の時代だった。

毛沢東の給料は毎月7元で、このうち毛沢東は毎月2元を食事に使った。それと水を買わなければならなかった。給料の残りは新聞に使い、新聞をむさbり読む読者となった。当時、革命を扱っていた新聞の中に湖江日報があった。同紙上で社会主義が論じられ、この記事欄の中で毛沢東は初めてこの言葉を知った。毛沢東は夢中になって、社会主義について数人の同級生に手紙をやったが、たった一人しか賛成してくれなかった。

革命の結果はまだ定まらず、清朝は完全に権力を放棄せず、国民党の内部には指導権をめぐって闘争があった。湖南では戦争の再発は不可避であると噂された。湖南人が行動に移ろうと用意していた時、孫逸仙と袁世凱は和議を結び、予定された戦争は撤回された。北と南は「統一され」、南京政府は解消した。革命派終わったと考えて、毛沢東は軍隊を辞め、勉学に帰ろうと決心した。毛沢東は半年間だけ兵士であった。

毛沢東はその後新聞の広告を読み始めた。その中に警察学校の広告に目を奪われた。そこに入学する決心をした。しかし試験を受ける前に「石鹸学校」の広告を読んだ。授業料は不要で寄宿は提供され、小学の給料が約束されていた。その広告は石鹸製造の非常な社会的利益、いかにそれが国家と人民を富ませるかを説き立てていた。毛沢東は警察学校に入る決心を変え、石鹸作りになろうと定めた。

そうこうするうちに毛沢東の友人が法律学生になり、彼の学校に入るように勧めた。毛沢東は非常に多くの素晴らしいことを約束したこの法律学校の魅力ある広告を読んだ。それは学生に3年間にっさいの法律を教えると約束し、3年後には学生はただちに官人になれると保証していた。毛沢東の友人はその学校を褒め続け、とうとう毛沢東は家に手紙を書き、広告のいっさいの約束を繰り返し、毛沢東に授業料を送ってくれるよう頼んだ。毛沢東は家族に法律家、官人としての毛沢東の将来の輝かしい姿を描いてやった。ついでに毛沢東は法律学校に入学金を払い、両親から何かを言ってくるのを待った。

ところが、また運命は商業学校の広告が邪魔に入った。もうひとりの友人が中国は経済戦のさなかにあり、一番必要なのはこうk民経済を建設し得る経済家であると毛沢東に忠告した。毛沢東はまた入学金を払い、商業学校に入学する許可を得た。しかしその間も毛沢東はいぜん広告を読み続けた。ある日毛沢東は公立高等商業学校の良いことを書いた広告を読んだ。毛沢東はそこで商業の専門家になるのは良かろうと定め、入学金を払って登録され、それから父に自分の決心を伝えた。父はすぐに商業上の抜き目のないことの利益を評価していたため、父は満足した。毛沢東はこの学校に入って、1ヶ月在学した。

毛沢東が新しい学校で困ったのは、大部分の科目が英語で教えられたことだった。もう一つのハンディキャップは、その学校には一人も英語の教師がいなかったことだった。こういう事情に嫌気がさして、毛沢東はこの学校を月の終わりに辞め、広告を読み始めた。

この頃、官設火薬庫が長沙で爆発した。大火事が起こり、学生は非常に面白がった。何トンもの弾薬と砲弾が爆発し、火薬は非常な炎を上げた。1ヶ月後に袁世凱は国民の政治機構を支配した。

毛沢東は一人で読書したり、勉強した方が良いという結論に達した。6ヶ月の後に毛沢東は学校を辞め、自分お教育予定表を作ったが、それは毎日省立湖南図書館で読書することにした。毛沢東は非常に規則正しく、予定に忠実で、こうして過ごした半年は毛沢東にとって非常に貴重だった。毛沢東は朝に図書館が開かれるとそこに行き、昼になると、毎日の昼飯である2つの餅を勝って食べるだけの時間しか休まなかった。毛沢東は図書館がお終いになるまで図書館にいて読書した。

この独学期間に毛沢東は多くの本を読み、世界地理と世界歴史を学んだ。そこではじめて毛沢東は、非常な興味をもって世界地図を見て勉強した。毛沢東は詩とロマンスを一緒に読み、古代ギリシャの説話を読み、またロシア、アメリカ、イギリス、フランス、その他諸国の歴史と地理を一所懸命勉強した。

毛沢東の家族は学校に入らなければ補助してくれなかったので、毛沢東は当時金を持たず、下職する新しい場所を探し始めた。そうこうするうちに、毛沢東は自分の「生涯」をまじめに考えた。そして毛沢東は教職に一番適していると定めこもうとした。毛沢東は湖南師範学校に入学することに決め、入学論文が認められ、入学資格を得た。その学校は授業料が無料で、寄宿料は安かった。

毛沢東は5年間師範の学生だった。毛沢東はその後、広告の誘惑には何とか抵抗した。とうとう本当に毛沢東は卒業証書を得た。この省立湖南第一師範学校での毛沢東の生活に起こった事件はたくさんあったが、この器官に毛沢東の政治的思想は形をなし始めた。ここでまた毛沢東は、社会活動において自分の最初の経験を得た。

毛沢東は自然科学の必須科目に反対した。毛沢東は社会科学を専門にやりたいと思った。自然科学は特に毛沢東の興味を引かなかった。毛沢東は自然科学を勉強しなかったので、その大部分の科目では良い成績を取らなかった。幸いにも社会科学の点がみな優秀だったので、他の科目の悪い点は帳消しになった。

毛沢東に一番強い印象を与えた先生は、楊昌済で、イギリス帰りの留学生だったが、後に毛沢東は彼の生活と密接に関係するようになった。彼は論理学を教え、理想主義者で、道徳性の高い人物だった。彼は自分の論理学を非常に強く信じ、学生に正しい道徳的な、有徳な、社会に有用な人物となれという希望を吹き込もうとした。彼の影響のもとに毛沢東は蔡元培の訳した論理の本を読み、「精神の力」と題した論文を書く気になった。毛沢東は当時理想主義者で、毛沢東の論文は楊昌済享受の理想主義的観点から彼に非常に褒められた。

毛沢東は、少数の親密な仲間を欲しかったので、ある日毛沢東は長沙の新聞に広告を出し、愛国運動に興味を持っている青年は毛沢東に連絡するよう、呼びかけた。毛沢東はしっかりした決断力あり、国のためにいつでも犠牲となる青年をという条件をつけた。

その広告では仲間はできなあったが、次第に毛沢東は一群の学生を自分の周囲に作った。そして中核が作られ、それは後に中国の問題と運命に広汎な影響を与えることとなった新民学会となった。彼らはつまらないことを議論する暇は持たなかった。彼らが行ったり、言ったことは、全て目的を持たねばならなかった。彼らには恋愛とか「ロマンス」の暇もなく時局は極めて重大で、知識の必要は女とか個人的なことを論ずるにはあまりに緊急であると考えた。毛沢東は女には興味がなかった。両親は毛沢東が14の時に20歳の女子と毛沢東を結婚させた。毛沢東は彼女と一緒に住んだこともなく、その後も一度も同居しなかった。毛沢東は彼女を自分の妻とは考えず、この頃彼女のことを少しも考えなかった。

毛沢東らはまた熱心な肉体鍛錬家だった。冬の休暇に毛沢東らは野外を歩き回り、山に登ったり、下りたり、城壁に沿ったり、河を横切ったりして歩き回った。雨が降ればシャツを脱いで雨浴だと称した。太陽が厚い時には毛沢東たちはまたシャツを脱いで日光浴と称した。春風が吹くと、これは「風浴」という新しいスポーツだと叫んだ。毛沢東たちは既に霜が降りた時に戸外で寝て、11月にも冷たい河で泳いだ。

毛沢東は他の城市の多くの学生や友人と通信関係を作った。だんだんに毛沢東はもっと密接な組織の必要を認識し始めた。1917年数人の友人と一緒に毛沢東は新民学会の創立を手伝った。それは70〜80人の会員を持ち、そのうちの多くは後に中国共産党と中国革命史上有名な人物となった。

この頃毛沢東の思想は自由主義、民主主義的改良主義、空想的社会主義の観念の奇妙なな混合物だった。毛沢東は「十九世紀民主主義」、空想主義、古臭い自由主義について多少ぼんやりした情熱を持っていた。毛沢東は明確に反軍閥主義者であり、反帝国主義者だった。

毛沢東は、1912年に師範学校に入学し、1918年に卒業した。

革命前夜

長沙の師範学校に在学している間の毛沢東の使った金は、入学料も含めて全部でたった160元だった。そのうちの3分の1は新聞に使わなければならなかった。新聞に加えて本や雑誌も買った。父はこの浪費を悪罵して、無駄な紙ぺらに使う無駄な金だと言った。けれども毛沢東は新聞を読む癖をつけた。当時の新聞は中国では珍しいものであって、多くの人達に、ことに官吏連中は、それを極端な増悪の眼で見ていた。

学生時代の最後の年に母が亡くなった。以前にもまして、毛沢東は郷里に変える興味を全く失った。その年の夏に毛沢東は北京に行く決心をした。湖南出身の多くの学生はフランスに行って、「苦学」して勉強しようとしていた。世界大戦中フランスはこのやり方で、若い中国人を自国のために召募していた。

毛沢東は湖南出身の学生たちと北京に行った。毛沢東はヨーロッパに行きたいとは思わなかった。自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らす方がいっそう有益だと感じたからである。

北京での生活はお金がかかるように思われたので、毛沢東は師範学校時代の恩師である楊昌済を頼り、図書館主任である李大剣を紹介してもらった。李大剣はの問に中国共産党の創立者になる。李大剣は毛沢東に図書館の助理員の仕事をくれ、月8元の俸給を貰えた。

毛沢東の仕事は新聞を読みに来る人の名前を記録することだったが、大多数の人は毛沢東を人間並みには扱わなかった。

毛沢東は無政府論についてのいくつかのパンフレットを読んで、それから大きな影響を受けた。始終毛沢東の家を訪れた朱謙之という名前の学生と、毛沢東はしばしば無政府主義や中国におけるその実現性について議論をした。当時毛沢東は無政府主義の提唱する多くの議論に賛成した。

北京での毛沢東の生活状態はひどく惨めなものだったが、古都の美しさは生き生きとして、画期のつぐないをしてくれた。毛沢東は「三眼井」と呼ばれる場所で、小さな部屋に7人の人たちと同宿していた。

毛沢東は1919年に2度目に上海に行った。そこで毛沢東は再び陳独秀に会った。最初は北京で毛沢東が国立北京大学にいた時に彼に会ったが、彼はおそらく他の誰よりも毛沢東に影響を与えた。

1920年の冬に毛沢東は初めて政治的に労働者を組織しこの運動において、マルクス主義理論とロシア革命史の影響によって導かれるようになった。毛沢東はロシアの諸事件についてたくさんの本を読み、また当時ごくわずかしか華文では手に入らなかった共産主義文献を熱心に探し求めた。歴史の正しい解釈としてマルクス主義を取り入れた。毛沢東は中国語訳の「共産党宣言」と「階級闘争」、「社会主義史」を読んだ。1920年の夏には毛沢東は理論的にもまた、ある程度実践的にもマルクス主義者になり、この時以来毛沢東は自分をマルクス主義者だと考えた。同じ年に毛沢東は楊開輝と結婚した。

毛沢東の幼年時代・長沙時代は、妻の賀子貞や共産党の領袖たちも知らない内容である。彼らは毛沢東の共産主義者になる前の時代については何一つ知っていなかった。毛沢東はそういう時期を一種の暗黒時代とみなし、真の生活は共産主義者になった時から始まったのだと考えていた。

誰でも本書から中国の革命家たちが述べている圧政と逆運に対する人民の闘争の様々な経験から何ものかを学ぶことができる。人民は一度実践的な社会的綱領と正直な進歩的な指導を与えられるならば、人民の不屈の力量に対する永続的な信念を通じて勝利は獲得されることを本書は示している。また、人民はどんなものであろうと、たまたま手にし得る手段をもって更生できることを本書は証明している。

おすすめ記事

読書ノート

2021/4/13

なんでもわかるキリスト教大辞典

キリスト教の教えや特徴、独特の用語をキリスト教の内部にある複数の流れ、要は「教派」ごとに説明している。聖書や神学、教義、教会史、礼拝学、芸術、個人の伝記、信仰録など、キリスト教を知るための切り口は様々だけど、その中でも「教会」に焦点を当てている。図解も多くわかりやすい。

続きを読む

読書ノート

2021/3/31

政治のキホンが2時間で頭に入る

政治とは国会と内閣、裁判所について学ぶことである。この本は政治について「分かった!」という感覚を与えてくれる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/14

医者が教えるサウナの教科書

「仕事ができる人はサウナが好きではなく、サウナが好きだから、仕事ができる」として、サウナへの愛を語っている。理由なしにこれを言うとただの洗脳だが、サウナが仕事のパフォーマンスを上げる医学的根拠をきちんと説明して、医学的に正しいサウナへの入り方(ととのい方)を紹介している。

続きを読む

読書ノート

2021/4/20

プロテスタンティズム

ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明は事実に反する。ルター自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。

続きを読む

読書ノート

2021/4/21

ナチスの発明

野蛮で残虐な侵攻や迫害は世界のあらゆる国、あらゆる民族でも行われた。それが最も極端な形で現れたのがナチス(ヒトラー)である。人類は、ナチスが何を思い、何をやったのかを、もっと冷静に、もっと深く知る必要がある。ナチスの時代を真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観は、そろそろ修正されなければならないのではないか。

続きを読む

読書ノート

2021/4/22

楽しみながら学ぶベイズ統計

面白くて多様な事例を使って、ベイズ統計の基礎と活用法を解説する入門書である。本書をマスターすることで、不確実な事柄を数学でモデル化して、限られたデータの中でより良い選択を行えるようになる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/28

仏教が好き!

根っからの仏教好きな二人による仏教の愛の対談。古色蒼然とした仏教イメージが一気に吹き飛ばされる。

続きを読む

読書ノート

2021/5/27

日本人のための第一次世界大戦史

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。歴史からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代を正しく理解するということ。まず第一次世界大戦という基本的な史実を知らなければならない。

続きを読む

読書ノート

2021/5/20

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

続きを読む

読書ノート

2021/6/6

物語創世

文字を読むことができる人は一読に値する本。聖書からハリー・ポッターまで、書字技術の発展と共にそれらがどう広まり、どのように宗教、政治、経済を歴史や人物そのものを変えていったのかを説いている。

続きを読む

読書ノート

2021/6/8

日本車は生き残れるか

本書は、欧米に比べて日本がいかにダメなのかを語るのが目的ではない。日本の自動車産業も一刻も早く、モノづくり以上の付加価値を生み出すことで、「日本経済の大黒柱」であり続けて欲しいと願っている良書である。

続きを読む

読書ノート

2021/8/21

完全教祖マニュアル

新興宗教の教祖になれば夢は全て叶う。本書を読むだけで遥かに有利なスタートを切れる。本書を信じ、本書の指針のままに行動してください。本書を信じるのです。本書を信じなさい。本書を信じれば救われます。

続きを読む

読書ノート

2021/9/20

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。

“終わりの見えない戦乱の世”も、まさに先の見えない時代であった。そんな時代を生き抜いた武将たちのエピソードが、参考にならないわけがない。歴史は、失敗も成功もバズりも炎上も書いてある、生きた教科書である。

続きを読む

 

 

 

 

 

 

 

-読書ノート
-, ,

© 2023 Fukurogiブログ Powered by AFFINGER5