読書ノート

論語

「論語」は、中国古代の周王朝下の春秋時代の事実を伝える文献である。しかし、単なる文献に留まらず、中国の歴史と社会と社会とを動かし続けた一級の書物として存在している。しかも、中国だけには留まらず、一級の古典として朝鮮や日本などの仏教文化券の人々に読みつがれ、孔子という永遠の人物を語る一級の作品として存在している。論語は、孔子ならびに孔子の生きた時代と社会とを描きつつ、同時に、人間一般の様々な問題について、惜しみなく我々に語りかけてくる。

孔子は、よく酒を飲み、美味しいものを求め、良い服を着たがり、良く喋り、金銭も権力も好きであり、人を批評することを好み、目立ちたがりであり、、、要は、凡俗の行うことを行った。それだけに、我々と同じく挫折も多かった。しかし、我々と違って、挫折の苦しみや怒り、悲しみを昇華して一般化し、人間一般の問題ととして解決を図っていった。ここが我々と違うところである。

論語 (鑑賞 中国の古典)は、僕らが持っている様々な問題、苦しみや怒り、悲しみを解消する解決の方法を説いている。

孔子の生涯  〜まとめ〜

孔子の父は農民あがりであり、母は儒というシャーマンの系譜であった。父母共に社会的身分の低い階層出身であり、シャーマンの儒が知っていた礼は、個人儀礼的な小礼にすぎない。孔子は正規の師もいらず、ほとんど独学で20代となり、やっと魯国政府における祭祀関係の下役になれた。

その後孔子は、大礼を学ぶために、周王の住む都へ留学し、老子から耐冷を学んだ。

論語に「六十耳順」とあるが、孔子は60歳までは従順でなかった。個性が強く、人の意見をあまり聞かなかった。現代では定年になる60歳になるまで、孔子は自己主張の強い人物であった。

なので、30歳にして世に立つ自信を得(而立)」、40歳でその気持は揺るがないものになり(不惑)、50歳で使命感に燃えた(知名)。非常に精気のみなぎったエネルギッシュな孔子の生涯であった。

孔子の生涯

孔子の父は農民だった。

母は儒のシャーマンであったが、まだ宗教色が強かったので、主として喪(葬)礼の儀礼を職業とした集団であった。霊魂の存在を信じ、招魂儀礼をつかさどり、文字や記録を扱い当時の知識人でもあった。祭祀者であるから、農民に寄生して生きていた。ちなみに、日本の葬式での位牌や線香、三回忌などは儒教由来である。お経を読むのは比叡山延暦寺のお坊さんが始めた仏教由来もの。お盆は、儒教がメインだった中国で仏教を広めるために、儒教的な要素を組み込んだために誕生した。

この祈祷師的集団の一人である顔徴在という女性と、孔子の父は「野合」して孔子を産んだとされている。この「野合」の意味はよく分かっていないが、常識的な解釈をくだせば、正常な結婚ではなく、全ての人から祝福されなかった。しかも、孔子の幼少期に父は亡くなってしまった。

一方、父には先妻との間に10人の子供がいた。9人は女で、1人は男。この腹違いの兄が足が不自由だったらしく、大男で健康であった孔子に、一家の生計という負担が重くのしかかった。幼少期から青年期にかけて、農民の子として懸命に働いた。

脱農民・役人への志願

母の家で、孔子は儒教の祭祀儀礼を見て過ごすことが多かった。俊敏な頭脳を持っている孔子は、儒教を通じて、文字や記録を読解する機会を得た。「詩書礼楽」という古代中国社会の知識人の教養の基礎を身につけた。農民であり、知識人的という形で成長した孔子は、「脱農民」して完了となる道への願望を持ち始めた。

現代と異なり、当時の農業は苦しい労働であった。孔子は農民であり、農業の辛さを知っており、そこから抜け出そうとした。一方、同時に農業の重要さを知っていた。孔子は、その一生を通じて農民生の間隔を持ち続けていった。

また、共同体は、習慣・習俗によって動いており、それを重んじる生活であった。そうした習慣・習俗の固定化が、長幼の序を始めとする礼を形成し、その礼に基づく道徳を生み出した。当然、この道徳の熟達者(長老)が共同体の指導者(聖人・聖王)となる。

異なった共同体の間をつなぐ場合、各共同体の習慣・習俗だけでは十分でない。そこで、諸共同体を包括的に共通化するものとして、法という観念が登場した。それは、諸侯の国が連合してその上に君臨した周王朝が弱体化し、力のある諸侯が諸国を統合してゆく過程でいっそう必要とされた。

共同体の根底にある道徳と、法的社会の根底にある法とか各所でぶつかりあった。そのぶつかり合いが春秋時代に表面化した。ちょうどそのころ孔子が生きていた。

孔子は農民的であり、農業型節約経済、共同体、道徳による領導、といった意識に親近感を有していた。その意識をすくいあげ、思想として後に組み上げた結果が、儒教思想である。それに対立するのが、法家思想である。

下級役人になる

大半の人間は農民として一生を終わるが、孔子は文字が読め、古典の知識があり、礼楽の教養があった。孔子はその技術を買われて、20歳を超えた時に、穀物倉庫の管理者となった。公平であり、出納の計算が正確であった。さらにその後、家畜の管理者になった。穀物相手よりも、動物相手の方が難しい点を考えると昇進であった。

こうした村役人となれば、この後、地方の有力者として生き残っていくことができ、既に脱農民として成功したことになる。

しかし孔子の欲望はそこに安住することを許さなかった。村役人ではなく、祖国である魯国の中央成長入りを願った。

孔子は20代広汎、中央政庁の礼楽関係の下役になったらしい。しかし、孔子は国家儀礼のような大礼の素養に乏しかったため、勉学をし直すため、周王の都に留学に行った。そして老子から礼を学び帰国する。これが「30にして立つ」。その時、老子は、「お前は我を出しすぎる。謙虚であれ」と注意している。孔子は、いわゆる「目立ちたがり」であった。

仕方なく開塾

しかし、帰国しても孔子は登用されなかった。技術職の職はあったが、孔子は行政担当、ひいては政治家という、一段と広い活躍ができる職を望んだが、その地位を得られなった。

その大きな理由は、当時の魯国の事情にあった。魯国には、季孫氏と孟孫氏、叙孫氏という三権門があった。三桓という。この三桓(季孫氏が強力)が、魯国の実権を握っており、国君はロボットであった。ところがこの三桓も、それぞれの執事(家老)」に実権を握られていた。季孫氏の場合、陽虎という家老であった。その陽虎が季孫氏の当主を動かし、季孫氏の当主が魯国の国君を動かすという構図であった。だから、孔子が魯国の中央政庁に進出しようと思えば、結局は陽虎の意向が重大となる。ところが、孔子は陽虎に対して屈辱の思いがあった。孔子がまだ17歳のころ、季孫氏が人材登用のため「士をもてなす」ことを行ったことがあった。つまり、求人したわけである。これに応じて、無名の孔子が訪れた。田舎の少年が、おずおずと訪れたことであろう。この時、陽虎が「お前のような小僧の出る幕でない」と罵って追い返したのである。

孔子はやむを得ず出国し、隣国の斉国で職を得ようとしたこともがあったが失敗し、再び帰国する。これは30代の話である。そして帰国後、どうやら魯国の国都で学校を開き、弟子を養成し、儒教徒集団を作り、一つの勢力として揺るがぬ地位を得ていった。斉国の就職は失敗したとは言うものの、斉国の国君とは面談したほどであり、孔子の名は既に高まっていた。その余勢をかっての開塾である。「40にして惑わず」とは、この頃の心境を言う。

魯国の政争

魯国政界では重大事件が起こっていた。まず、孔子が斉国在住中の頃であり、関わりなかったが、国君の昭公が三桓から権力を奪い返そうとして、軍勢を率いて三桓を突如襲撃した。しかし、三桓のレン合成力に敗れて亡命したことがあった。この不幸な国君は亡命先で客死する。孔子が42歳の頃である。

その後、孔子が49歳の頃、三桓それぞれの家の不満分子が連合し、三桓の当主それぞれを失脚させようというクーデターが起きる。その総帥が陽虎であった。どうもこの時に陽虎が孔子を迎え入れようとしたらしいが、孔子は行かなかった。

国君の定公はこのタイミングをすかさず利用して孔子を抜擢した。国君は、孔子と孔子学派の新興集団を抱え込むことによって、三桓を叩こうとしたのである。三桓の内、最有力の季孫氏は本拠を反乱軍に押さえられていて弱っていたところにつけ込んだわけである。

孔子はやがて閣僚となり、三桓に代わって魯国の実権を握る。「50にして天命を知る」のはこの時であった。店名とは使命感という意味合いが強い。

実質的に首相格となった孔子は、節約経済と道徳重視という凡農業主義を打ち出した。しかしそれは当時の商業経済の発展を留める奉公であり、国民に人気がなかった。節約政策が消費の魔力に勝てないのは、歴史上、何度もあったことである。結局、孔子は失脚する。56歳だった。

諸国への遊説 〜老いての帰国

これ以降、諸国を回って政策を説いた。もちろん、弟子を引き連れての大掛かりな就職活動であった。けれでも志を得られず、68歳の時、帰国することになる。その頃、色々な意見に耳を傾けるようになった。「60耳順」である。10数年の放浪であった。

中央集権的な統合の根幹は法であり、法によって結ばれる法的社会の到来が、近い将来において確実であった。そういう統一国家においては、もはや従来の共同体の習俗・習慣・道徳だけでは律しきれないものが予想されてきた。事実、親が盗み働いた時、子供は親を司法機関に証言するのが正しいとする「法の正当化」が評価されつつあった。

秦王朝に続いて建国された漢王朝は、共同体との妥協を図りつつ法的社会を少しずつ進めていくことになる。すなわち、なだらかな法的社会化を目指していくことになる。その思想的理論づけの役目を担ったものが、孔子の儒教の中の礼教性を特に更に発展させた経学という学問であった。

礼教性というのは、礼による秩序を教えることである。この礼は、小礼の場合は共同体を律することができ、大礼の場合は、共同体を包括する国家を律することができる。この礼教性は、需要を支える大きな柱であり、この礼教性を発展させたものが、経学という変形した儒教であった。この経学は漢代から儒教の中枢を占めることとなる。

儒教におけるもう一本の柱の感性面、すなわち宗教性は切り落とされるのであるが、消滅はしないで、人々の家庭生活の中で生きのびていくこととなる。

礼教性は経学・政治・社会の中に、宗教性は生きた実践として家庭生活の中に、と。しかし、両者は、祖先崇拝とその場所である家とよって依然としてつながっていく。

このように、「原儒―儒教―経学」という歴史となって、孔子の思想が後に伝えられていくこととなる。それは、全中国の歴史を貫流する巨大な「中国の精神」であった。

68歳で祖国に帰り、73歳、世を去るまでの最晩年、再び学校を開き、思索にを続けていた頃、その思考が最も濃密であった。おそらく、その時期に儒教が理論化されていった。

魯国と斉国

斉国と魯国は、大将的な国家であった。魯国は、伝統的な農業経済国家であった。農業は定着的であるから、地縁的・血縁的共同体がそこに結びつく。孔子は、母方の血から言えば、半分は儒教であるが、父方らの血から言えば、半分は農民である。だから、生産においては、農民的意識を脱することはできなかった。

一方、斉国は、海岸線が長く、製塩が盛んであり、塩を売って莫大な利益を挙げ、商業的色彩が濃かった。商業は移動的であるから、共同体の意識から離れやすかった。とすれば、共同体における規律(道徳)」以外の規律を求めるようになる。それに応えたものが、法であった。

このように、「斉国―商業―法的行政」と「魯国―農業―共同体」とが対比を見せ始めたのが、春秋時代であった。孔子は、魯国的行政を理想としていたから、商業的国家(斉)が農業的国家(魯)に変わり、更に、理想的農本国家(道ある国家)」へと変わることを求めていた。

孔子は、一貫して減税論者である。そして減税したために生じた国家財政の不足分は、節約によって補おうとした。これは、農業経済が中心である時は説得力があった。農業経済の本質が節約経済であるからである。しかし、孔子の時代は、同時に商業経済の発展期であった。これは本質的には消費経済である。とすると、必然的に国家財政の膨張へと繋がっていく。

過ちを認める

人間誰しも過ちがある。それを認めるということは、単に謙虚というだけのことではない。本当の自身があるからこそ認めるのである。その過ちを認めて改めることで、少しもその人間の優れているところがダメになるものではないことを知っているからである。逆に過ちを認めることがその人間を更に大きくする。

論語

孔子の死後、弟子はみな3年の喪に服し、子貢はさらに3年を食えた。師を失える集団は、その後、8派に分裂した。しかし、孔子の残した数々の教えは、門人たちの胸に深く刻み込まれていた。やがてそれは、一冊の書物「論語」となって世に現れた。孔子は、人間としての生命を終えた後、「論語」という書物の中に永遠の生命を与えられたのである。論語は、孔子の門人たちが、先生と弟子たちとの対話の記録を、孔子の死後に各自持ち寄り、討論を重ねつつ編纂したものである。

ただ、「論語」が最終的に整理され、原稿本の形に定着したのは、後漢時代に入ってからであり、それ以前には、いくつかの特色ある「論語」が同時に存在していた。

三つの論語

まず、漢代の初め、論語の伝本には、露論語、斉論語、古論語の3種が見られた。「魯」「斉」は共に現在の山東省に位置する当時の国で、魯は孔子の生国、斉はその東隣の国で、春秋戦国期を通じての強大国であった。両国とも学術の振興に力を注いでいた。しかし、漢の景帝の時代、魯の共王がその宮殿建築のため、孔子の旧宅を取り壊したところ、その壁中から、周代の文字が書かれた古い「論語」が発見された。これを古論語という。

そして、後漢の末、一人の大儒が世に現れた。以後の中国の学問に決定的な影響を与えた鄭玄(じょうげん)である。上記の古論語を参酌して、20篇からなる「論語」の定本を作り上げ、その注釈を完成させた。当代随一の学者による「論語」の影響力は計り知れず、以後、この鄭玄の論語が盛行して、「論語集解」の原型となる一方、漢の初めに併存していた3種の論語は、その役割を終えた形となり、この世から姿を消すに至る。

さて、紀元前136年、漢の武帝によって五経博士が設置されて以来、儒学の地位は不動のものとなり、易・書・司・礼・春秋の五経が経典として尊奉された。当時、「論語」は五経にこそ含まれなかったが、孔子の思想を伺い得る重要な本として、「孝経」と共に、五経に準ずる高い地位を得られていた。

人を愛すが仁

論語には仁について語ることが多い。「仁」とは、「人を愛す(愛人)」ということである。大切なことは、「人」という目的語がある点である。「人」という目的語を老いて精密化しているところが重要である。

「仁」は「愛」であるということが大切だが、「人を」というふうに、他へ向かっていくものであり、かつ、他でもない人間に対してということである点、つまりは積極性と「人間に対して」という点が重要である。事実、「論語」の中の「仁」は積極的である。例えば、「身を殺して以て仁を成す」。決して消極的でない。

孔子のありがたい言葉

口先がうまく愛想のよい人には、少ないものだよ

他人からお上手を言ってもらい、褒めてもらって喜ばない人間はいない。また、愛想のよい相手を喜ばない人間はいない。しかしたいていの人は話下手であり、美男美女でない。人間は、自分射ないものを求める。

諸侯の国を治めるには、慎重に事業を行って、(民から)信頼され、費用を節約して人民を可愛がり、人民を使うにも(農繁期をさけて)適当な時を選ぶことだ

農業は、主要産物の収穫が年一回であるからである。一回の収穫のあとは、それを少しずつ使って、翌年の収穫時まで食い延ばしをしてゆかねばならないし、また、農業は天候次第というところがあるので、いつ来るか分からない天災に備えて、食糧を備蓄しておかねばならない。とすれば、節約ということが必然的である。ことに孔子の祖国の魯国は農業国であるから節約が必要であった。それに、孔子自身、農民出身であるから、根底に節約という農家的発送があった。

若者は、家では父母に孝行をつくし、外では目上の人によくつかえよ。慎重に行動してうそをつかず、誰でも分け隔てなく愛して、特に仁の人に親しめ。これだけのことをしてまだ余裕があれば、書物を学ぶことだ

知識・技術は、それ自身の持つ面白さがある。そのため、本来は道徳実践のための手段であった知識・技術の学習それ自身がいつの間にか目的となってしまい、道徳の実践を忘れてしまいがちとなる。例えば、礼楽についてはよく知っていても、礼が何のためにあるのか、という最も大切なことが分からない礼楽専門家が生まれてきたりする。いわゆる「論語読みの論語知らず」である。この事情は今も昔も変わらない。

人が自分を知ってくれないことは気にしなくてよい。(自分が)人を知らないことこそ気にかけるべきだ

学んでも考えなければ、はっきり理解できない。考えても学ばなければ、確かなものとならない

人間でありながらその言葉に信用がなければ、何事もうまくできるはずがない

定公が訪ねた「君が臣下を使い、臣下が君に仕えるには、どうすれのが良いだろうか」
子曰く「君が臣下を使う時には礼を守り、臣下が君に仕えるには忠実であることが大切です

利益ばかり考えて行動すると、怨まれることが多い

地位のないことが気にしないで、地位を得るだけの実力がないことこそ気にかけるべきだ。自分を認めてくれる人がないことは気にしないで、人から認められるだけのことをしようと心がけることだ

君子は正義に敏感であり、小人は利益に敏感である

君子と小人の対比は、「論語」中、何度もある。これは、人間を識別する基準である。君子と小人という二種類によって、「理想(君子)は……だが、現実(小人)」は――だ」ということを示しているものである。

優れた人に会ったら、自分も同じ様になりたいと思え。つまらない人に会った時は、自分はどうか、反省してみることだ

徳があれば孤立することはない。必ず同志ができるものだ

弟子が「私にはそれを学ぶ力が足りません」と言うと、子曰く「本当に力が足りなければ、途中でだめになる。しかし今、お前は力を尽くすことなく自分から見切りをつけている」

人が生きているのは、正直だからである。それを欺いて生きているのは、運良く助かっているにすぎない。

仁とは、まずあれこれと苦労して後に利益を得る。これを仁というのである

古典を祖述して創作をせず、昔のことを信じて愛好する。ひそかに自分を老彭(ろうほう)にならべてみる

経学では、世界・人間の知恵は、すでに聖人が作っているとする。その記録が古典である。一般の凡人ごときが、聖人を越えて知恵を作るなどということは、おこがましいことになる。

後世の者は、どうすればよいかというと、古典を読み解き、そこに自分の意見を述べるのが良いとなる。

思うに、世の中には知りもせずに創作する者がいる。しかし私は、そんな態度をとらない。多くのことを聞き、その中から善いものを選び出して従い、多くのものを見て覚えてゆく。こうした人間は智者に次ぐ者である

民は、政治に従わせることはできる。だが、政治を理解させることはできない

民衆には愚かしさも同時に存在する。よって、その真実を孔子はえぐり出した。ここには民衆の無知という事実が示されている。

その地位にいるのでなければ、その政務についてとやかく言わない

孔子は4つのことを断たれた。勝手な判断をせず、無理押しをせず、固執することなく、我を張らない

子貢が交友のことを質問した。子曰く「誠意を持って告げ、よいことを勧める。聞き入れられなければ、しばらく止め、無理強いをして自分を辱めることになってはいけない

友人に忠告して聞き入れらなければ、交際を止めるといった奉公のことが述べられている。このように、友人は血縁者でないから、自由に離れることができるが、血縁者の場合はそう簡単ではない。親の場合、聞き入れらなければ、泣きながら土下座してでも願うのが良い。

君子以文会友、以友輔仁
君子は学問(詩書礼楽)によって友達を集め、友達との交際によって、仁の徳を成長させる

この文は、友人同士が互いに勉強し合うことを示すので、学校やその建物や組織の名称として固有名詞をつけるときによく出典とされる。例えば、「輔仁大学」「以文会」「会文館」というふうに。

君子は知らないことについては黙っているものだ。名が正しくなければ、言葉も妥当でなくなる。言葉が妥当でなければ、政治も成功しない。政治が成功しなければ、礼・楽も盛んにならない。礼・楽が盛んにならなければ、刑罰も適切さを欠くようになる。刑罰が適切さを欠けば、人民は不安で手足の置き場がなくなる。だから君子は、名を正して何かに名をつけたら、必ず言葉ではっきりわかるようにし、言葉に表したら、必ず実行できるようにするものだ。君子は自分の言ったことに対しては、決してなおざりにすることなどないのだよ

為政者自身が正しければ、命令しなくても行われるが、為政者自身が正しくなければ、命令しても従われない

はやくしようと思わないように。小さな利益に目を奪われないように。はやくしようと思うとうまくいかないし、小さな利益に目を奪われると大きな事が成し遂げられない

国に正しい道が行われている場合は、言葉を厳しくし、行いも厳しくする。国に正しい道が行われていない場合は、行いは厳しくしても、言葉は穏やかにする

人が自分を知ってくれないことは気にしなくもよい。自分に才能がないことこそ気にかけるべきだ

自分自身には深く責め、人には責めるのをゆるくすれば、怨みごとから遠ざかることができる

どうしよう、どうしようと言わない者は、わたしにはどうしようもない

過ちをしても改めない、これこそ過ちというものだ

日に日に未知のことを知り、月々に覚えたものを忘れないようにする。学問を好む者といえよう

天命を知らなければ、君子とはなれない。礼を知らなければ、身を立てることはできない。言葉を知らなければ、人を知ることはできない

「命・礼・言」は「天・地・人」である。

「命」は、人間の運命であり、これは天が与えたものである。それが天命であれ、使命であれ、最終的には運命である。

「礼」は、人間社会の規則のことである。地上の避けることのできない約束であり、人間は人間社会―当時にあっては共同体―を離れて生きることはできない。礼は共同体の象徴である。

「言」は、人間個人の表現である。「命」は「礼」に似て、言語体系として存在しているものであるが、「言」は、言語活動・言語行為である。人間の生き生きとした行為である。「言とは心の声」である。

運命・共同体・言語行為―この三者を理解できる知性こそ人間であると孔子は考えていた。

「論語」全篇の結びのこの言葉に、孔子の全思想が濃密に、かつ意味深長に託されている。

短く・忙しく生きる自分の一生とは何か?同じ悩みを昔の人はどう解決したか?こう思う時に論語を開き、孔子の生き方を知るべきである。

古典の特徴であるが、論語は何回読んでも新しい発見のある一級の書物である。

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