読書ノート

荀子・韓非子

韓非子は荀子に師事したと伝えられている。荀子が説く「礼」と韓非子の説く「法」は根底のところで通じ合うものがあるが、荀子はあくまで儒家であり、韓非子はあくまで法家である。そのため、荀子と韓非子の間には思想の継承と発展があると同時に決定的な対立がある。

性悪説の提唱者として有名な荀子は、熟考型・学者肌の人間であった。「荀子」は、秦王や宰相の范雎などとの対話を除けば、論文集のようなものである。

韓非子は、学問の世界に終始することを良しとせず、実践者として自分の思想を実行することに生涯こだわった。「韓非子」は、政治の場での実践を目的として書かれた。その説得力のある卓越した文章は、読む者の心を捉えた。秦の始皇帝は「韓非子」に感動し、その思想を実践することによって天下統一を成し遂げた。

荀子・韓非子 (鑑賞 中国の古典)には荀子と韓非子が収録されている。

荀子の生きた時代

荀子の生涯は何一つ正確なことが分かっていない。最も信頼すべき資料は「史記」の孟子・荀卿列伝だが、それすら曖昧で簡略に書かれている。

荀子は戦国時代の中頃、趙に生まれた。50歳の時に斉に遊学した、と史記に記されている。斉への遊学前の人生はよく分かっていないが、趙の政治や文化が荀子の思想形成に大きな影響を与えた。

当時の趙は、武霊王が、北方の騎馬民族の服装と騎馬戦を採用して、富国強兵を実現し、息子の恵文王が治めていた時代だった。旧習にとらわれず、実利があれば夷狄の風習や制度を積極的に取り入れ、着々と成果を上げていた。

武霊王の後半と恵文王の治世にかけて、秦が韓と魏、斉を目標にしていたこともあり、趙は秦と比較的有効的な関係にあった。しかし、利害にのみ結ばれた有効が長く続くはずもなく、斉が趙と楚、魏、韓、斉の合従軍を統率させ、秦の攻撃を開始した。それにより秦の干渉を抑制することに成功し、斉はかねてからの目的であった宋を滅ぼした。

この時代の斉は、経済的には商工業の発達によって安定した財政基盤を持ち、思想・文化の面では、「稷下(しょっか)の学士」全盛の時代であった。「稷下の学士」とは、斉の都の南門の下に集った学者たちのことで、威王・宣王が上大夫の位に列するなどして彼らを優遇したため、諸国から多くの思想家が集まったと言われている。おそらくは荀子も早くからこの思想のメッカに遊学することを希望していたと思われる。

宋を滅ぼした後の斉は、逆に諸国の驚異となって反斉の気運が高まる結果となった。紀元前285年には、燕の楽毅が率いる五国(燕・秦・韓・魏・趙)の連合軍が斉を攻撃し、その翌年には斉の国都は陥落し、王は衛に亡命した。紀元前279年に田単が燕軍を撃破して斉を復興させるが、斉にはもはや昔の国力はなかった。

一方、最大の敵を叩いた秦の次の目標は三晋(韓・魏・趙)のとなった。紀元前283年に魏に信仰し、続けて韓・趙を攻撃し、さらに紀元前280年には楚に進軍した。このような秦の驚異に対して諸国は、反秦の奉の方向に進んだ。

荀子が斉に滞在していた期間は、趙と秦との関係はあっかの一途を辿っていた。度重なる秦の攻撃に亡国の危機を感じた韓は、上党の地を趙に献上して救援を求めた。これが引き金となって趙と秦の激戦が開始された。戦争は3年続くが、趙王が秦の策略にハマり、廉頗を解任して息子の趙括を後任とした。これで戦況は一変した。紀元前260年、趙は長平の戦いで大敗し、秦の将軍白起は趙軍40万人を殺し、秦の優位は決定的なものになった。

この戦争中、趙は斉に食糧の救援を求めたが、斉王は聞き入れなかった。そしてこれが敗北の最大の要因の一つとなった。

秦による邯鄲包囲が続く中、趙の平原君は義弟の魏の信陵君と魏王に書簡を送って援軍をお願いした。また、自らも食客を連れて楚に赴き、救援の軍を求めた。紀元前257年、平原君の要請に応じて、信陵君と楚の春申君とが援軍を率いて駆けつけ、趙は辛うじて秦軍を撃破し邯鄲の包囲を解くことに成功した。

荀子の晩年、楚で過ごした十数年は、秦の武力による中華統一に対して、諸国が連合して最後の抵抗を試みた時期でもあった。紀元前241年には楚の春申君を中心とした合従軍が秦に攻撃に出たが、この戦いは合従軍の惨めな敗退に終わった。既に秦の国力が諸国の連合によっても太刀打ちできないほど強力なものになっていた。

紀元前238年、楚の考烈王の死をきっかけに李園が春申君を惨殺して、四君期の幕は下ろされ、それと共に諸国の連合による秦への大規模な犯行も終わりを告げる。そして、春申君の死を隔てること数年後、荀子も亡くなった。秦による中華統一まで、あと十余年を残すばかりの頃であった。

荀子の思想

荀子の生きた時代は、国家の滅亡や無道の君主の出現という自体が続発し、聖人の大道は実現されず、人々は呪い事や迷信を信じ、風俗を乱していた。そこで荀子は、儒家、墨家、道家の実績とその興廃とを探求し、それらを序列化して数万言の書に著した。

現実に正しい生き方をしながら恵まれない境遇にいる者、その逆に悪辣な行為をしながら栄華を極めている者も多かったため、世界を「善―吉」「悪―凶」対応の場とする発送の根底に勧善懲悪の糸が秘められていることを確実なものとすることが、人間にとって第一の課題であると荀子は主張した。

荀子は時運に恵まれず、名声もあがらず、門人も少なく、その恩沢も広く行き渡らなかった。しかし、荀子の送った不遇な一生と、荀子の思想が後世に与えた影響とはひとまず別々のものとして理解しなければならない。荀子の弟子であった韓非子が法家思想の集大成者であり、同門の李斯が秦の始皇帝の丞相として活躍したという事実は、荀子の本意に反したが、荀子の思想の部分的継承、発展の成果ではあった。また、漢の武帝の下で儒教に大きな役割を果たした董仲舒の思想も、荀子の性悪説と類似の思想から多大な影響を受けて成立した。

荀子

出藍の誉れ

学問は途中で止めてはならない。青い色は藍という植物から抽出されるが、原料の藍よりも青い色をしており、氷は水から作られるが、水よりも冷たい

荀子の開巻劈頭に位置し、学問の重要性を説いている。現在、「出藍の誉れ」の語は先生より優れた弟子という評判・名誉の意味で使われるが、ここでの「藍より青し」は、人間の宣帝的な本性が学問によって初めて優れたものとなるという例えとして使われている。

性悪説

人の先天的な本性は悪であり、人の善なる要素は全て後天的作為に基づくものである。人は生まれつき利益を好む性質を持っているため、結果として奪い合いが興って譲り合いは無くなってしまう。また、生まれつき妬み憎むという性質も持っている。このように人の先天的本質を放任し、人の生まれつきの感情のままに生きれば、必ず奪い合いが生じ、社会秩序の乱れを引き起こして無法社会が出現してしまう。

つまり、人は必ず先生の教による感化と、生きる規範としての礼儀の道とがあって、初めて譲り合うようになり、社会規範に合致して、安定した社会を実現するものである。必ず道徳的に優れた先生を探して師事し、良い友人を選んで交際をしなければならない。優れた先生や友人を見つけて過ごせば、目にするのは真心を尽くした行いや人を敬い人に譲る行いばかりとなる。もし、不善の人と一緒にいたら、耳にするのは人を欺き偽る言葉ばかりであり、自分自身に刑罰が加えられる状況に追い込まれても自覚がない状態となる。

礼儀は賞刑に勝る

一般に人が行動を起こす場合、それが温床目当ての行為であったならば、自らの意図に反して損害を受けることが分かればその時点で行動を止めてしまう。したがって恩賞・刑罰・権力による強制や謀略による誘導などは、人に全力を尽くさせ命まで投げ出させるためには十分な手段ではない。おおかた恩賞・刑罰・権力や謀略を手段として用いて、下の人々を厳しく圧迫して仕事の成果だけを手に入れようとするならば、外敵が退去して押し寄せて来たような場合に、彼らに陥落寸前の城を守らせようとすれば必ず反逆され、敵と遭遇して戦わせようとすれば、必ず逃げ出され、苦労が多く煩わしい任務に就かせようとすれば必ず逃亡されてしまうことになる。そのような手段を用いれば、あっという間に下の人々が離れ去ってしまう。そしてやがては、下の人々がはんt内に君主を支配するようなことにもなりかねない。

道徳的に優れた賢者を選出し、誠実で慎み深い人を登用し、両親や目上によく仕える人物を引き立て、孤児や寡婦を収容し、貧しくて生活に苦しんでいる人に援助を与えるのであり、このようにすれば庶民は政治に安心感を抱くようになる。このような状況が整って初めて、為政者である君子も安心して地位を保つことができるようになる。古くから「君主は舟であり、庶民は水である。水は舟をのせてはいるが、水が舟を転覆させる」と言われている。

人々に君主として挑む者は、安泰で射たいと思うならば政治を寛大なものとして人々を愛するのが一番であり、繁栄を得たいと思うならば礼を盛大にして、国家の規範とし、優れた人物を尊重するのが一番であり、功業と名声とを挙げたいと思うならば、賢者を尊び納涼のある者を登用するのが一番である。そしてこれこそが、人々に君主として挑む者の守るべき大きなポイントとなる。

韓非子の生きた時代

韓非子は戦国時代の終焉を生きた。韓非子が亡くなって13年後、秦の始皇帝は中華統一した。

春秋時代の強国晋は六卿によって分断され、やがて六卿のうち趙・魏・韓は諸侯になり、晋を滅ぼしてしまう。また、斉国では、呂氏がの政権が続いていたが、臣下の田氏が強奪する。これらにより戦国時代が幕を開ける。

戦国の諸侯は、国力の充実と共に天下を狙う。この覇権争いに参加したのが、戦国七雄の斉と楚、燕、趙、魏、韓、秦である。戦国時代を三分して見てみると、初期には魏が清涼を振るい、中期には斉が強国となり、晩期には秦が派遣を目指して着実に歩みを進めた。

紀元前255年に周が滅亡した。紀元前230年に韓が滅亡。紀元前225年に魏が滅亡。紀元前223年に楚が滅亡。紀元前222年に趙と燕が滅亡した。紀元前221年に斉が滅亡した。どの国も秦の強力な力に屈せざるを得なかった。紀元前220年、秦は天下統一を成し遂げた。

韓の歴史

六国(斉・楚・燕・趙・魏・韓)のうちで最初に秦に滅ぼされたのは、韓非子が生まれ育った国の韓である。韓の祖先はもともと周王室と同性の姫氏であった。晋に仕えて韓原に封ぜられたので、地名にちなんで韓を性としたと言われている。

紀元前403年、韓の景侯は魏・趙と共に諸侯に列せられ、名実ともに戦国諸侯の一員となった。

紀元前376年、哀公は魏・趙と共にかつての主家である晋を滅ぼし、翌年には鄭を滅ぼし、韓の都をこの地に移した。この鄭は春秋時代に名宰相の子産を生み出している。子産は、法律の文章を県に鋳込むことによって、中国の歴史上初めて一般民衆に法律の内容を公表するなど、法家の先駆とも言うべき政治改革を実施したことで有名である。また、鄭は古来商人の力が強い国であった。韓は、法家的、商業的な景洪の強い精神風土のただなかに都を置いたことになる。

その後、昭侯は鄭の遺民である申不害を宰相として用い、申不害の力によって韓は大いに国力を充実させた。この申不害は後世の韓非子の思想に大きな影響を与えた法家である。

韓最後の王である安の時代は、しばしば秦からの侵略を受け、辛うじて独立国の対面を保っていたが、実質的には秦に隷属していた。秦の始皇帝が天下統一を決断した時、韓は六国の中にあって最初に滅ぶべき運命にあった。紀元前230年、韓は滅亡する。韓非子がこの世を去ってから3年後である。

韓非子の生涯

韓非子は、韓の諸公子であった。諸公子とは君主の傍系の子供のことである。

韓非子は吃音であった。うまく喋れないからこそ書作をよくしたと司馬遷は述べている。

また、李斯と共にときの大儒者・荀子に師事したとも言われている。荀子の唱えた礼思想は法家の法に一歩近づいたものであった。韓非子はさほど抵抗を感ずることなく、この儒家である荀子の下で研鑽を積んだ。李斯は、自分の才能が韓非子には及ばないことを自認していた。

韓非子が成人した時、底校は秦の圧迫のためにすでに弱体著しい状態となっている。この状況を目にして、韓非子はしばしば書状をもって韓王を諌めた。

しかし、韓王は韓非子の意見を用いることはできなかった。韓非子の意見とは、法家思想に基づいて政治の改革と人事の刷新である。韓王がこれを用いることができなかった理由は、王自身の暗愚によることもあるが、革新を好まない旧勢力からの力が強く働いていたからである。

韓非子は傷心のうちに法家思想の実践を断念し、その情熱を著述に傾けた。韓非子の思想は、この著述によってほぼ完成した。

韓非子の著書を秦に伝えた者がいた。始皇帝は韓非子の著書を読んで、「この著者と会って交際できるならば死んでも恨まない」とまで言ったという。李斯は韓非子がその著者であると教える。そこで秦は韓を攻撃することになる。事急なるに及んで、韓非子を使者として秦に送り込んだ。

史記の列伝の記事によると、秦王は韓非子を手に入れるために韓を攻撃したことになる。韓非子に対する秦王の執着心にはただならぬものがあったと言える。

韓王は、秦王の韓非子に対する執着を利用して自国の延命を謀った。かくて韓非子を使者として送り出した。韓非子は祖国の命運を担って使者となる。

紀元前234年、韓非子は秦に入る。秦王は喜び、韓非子を任用しようとするが、まだ韓非子を信用できれずにいた。秦王の心を見透かしたように、李斯が韓非子を中傷する。「韓非子は韓の諸公子であるからには、韓のために働いて秦のために働かない。韓非子をこのまま任用せず、久しく秦に留めてから韓に帰せば、禍根を残すことになる。いま法によって誅殺せよ」と言った。秦王は李斯の言葉に心を動かされ、ついに韓非子を獄に入れる。弁明することも秦王に会うこともできずに、韓非子は李斯から送られた毒を服して自ら命を断つ。紀元前233年のことである。

韓非子を自殺に追い込んだ李斯が、韓非子の思想を実践することによって秦の天下統一を実現させる。韓非子は優れた理論化であった。さらにその理論を実践するための技術と熱意とを持ち合わせていた。しかし、韓でそれを実行するには、韓が韓非子に与えた機会はあまりにもおそすぎた。秦において実行するには、韓非子は韓を愛しすぎていた。韓非子は実践において結局何一つとして成し得なかった。

韓非子の思想

韓非子は法家思想の集大成者である。商鞅の「法」、申不害の「術」、慎到の「勢」を体系化したところに韓非子の思想の新しさがある。

「法」は、君主によって制定され成文化され、そして民衆に向かって交付される実定法である。その具体的な内容は、民に対する刑罰の規定が中心となっている。また、「法」は、客観的な基準であり、全ての民があらゆる場合に従うべき規範である。そしてこの「法」による支配は、法家以外の思想家全てを否定した思想によって完成する。「焚書坑儒」と呼ばれる秦の思想統制は、この考えを実践したものにすぎない。

「術」は、決して公表すべきものではない。君主が胸中に秘めて、臣下の無能を見抜き、臣下を思いのままに操るための技術である。また「法」が民を対象にしているのに対し、「術」は臣下を主な対象とした技術である。

「勢」は、君主の権勢のことである。この権勢をたとえわずかでも臣下に委譲すれば、君主の主権者としての地位は危うくなる。そこで、君主一人のみが権勢を保持しうるような体制を確立する。これが「勢」の思想の中核である。

君主が「勢」を掌握することによって、君主の公布する「法」はその権威を保証される。そして「法」による支配が行われることによって、逆に君主の「勢」がより強化されることになる。また、君主は「勢」を掌握しているからこそ、自らは手を拱いたままでも、「術」を用いて臣下を操ることができる。そして「術」を用いて臣下を思いのままにすることによって、「勢」をより盤石なものとすることができる。

韓非子は、人間を定義して、「利」を追い求める存在であるとする。人間関係は完全に利害関係として捉えられる。君主と臣下の関係は言うに及ばず、親と子の関係すらも例外ではない。己の利害のためには、人間はおヨアに対してさえ危害を加えるのである。

韓非子にとって人間の歴史とは、人口の増加とそれに伴う資材の相対的な減少とによって、「利」に対する人間の欲望が増大する過程であった。その行き着く所は、「利」のために力ずくで争う世の中である。韓非子が生きた戦国の世は、まさにそのような時代であった。

人間がこのような存在であり、時代がそのような状況である以上、君主は「法」を用いて支配を確立するしかない。法家の法体系は、君主に逆らえば罰せられ、君主のために功績を上げれば恩賞を得るようにできている。臣下にとって「法」に従うことが「利」を得ることになる。かくて、個々人の「利」は、「法」を媒介として君主の「利」に吸収され、統制される。

このように「利」の集中する君主の地位を、君主の妻子や臣下が狙うのは、韓非子の人間観からすれば当然のこととなる。そこで彼らの心を見抜くために君主にとって「術」がどうしても必要とならざるを得ない。

韓非子のこの「利」の思想が形成された背景には、経済の活発化した当時の社会があった。それは、利潤を目的とし、人間関係を売買の関係で捉えるような商品経済的な思考が、徐々に浸透していた社会であった。

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