薔薇戦争は、今なお「分裂」の代名詞として語られる。この内乱は英国民の記憶に鮮烈に焼き付いている。
薔薇戦争の最終勝利者であるヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)の孫娘のエリザベスの時代に生きていたイギリスの有名な詩人は、薔薇戦争の遠因をリチャード二世を簒奪したランカスター家の「罪」に求めた。その罪ゆえに、イングランドの地はランカスター家とヨーク家による内訌の渦に巻き込まれるが、結局はヘンリー・テューダーの登場により両家は和合し、平和が回復された。
内乱の引き金は、本当にランカスター家による王位簒奪劇なのか。ヘンリー・テューダーの即位は、イングランドの真の平和をもたらしたのか。そして、内乱の前後でイングランドの政体はどのような変化を遂げたのか。薔薇戦争 イングランド絶対王政を生んだ骨肉の内乱では、テューダー王朝180年間の下で育まれた史観を念頭に置きながら、この未曾有の内乱を概説している。
「薔薇」とは何か
ランカスター家とヨーク家の徽章が、それぞれ赤薔薇と白薔薇であったために「薔薇戦争」と呼ばれている。「徽章」の代わりに紋章を使う例も散見されるが、これは正確ではない。紋章は、兜の鼻当てが大きくなりすぎて、互いの顔を識別できなくなった西欧の戦士たちが、自らの盾に各々紋様を描いたものを期限とする。この由来が示すとおり、紋章は個人と深く結びついている。主君のそれを家臣たちが採用する例はあっても、基本的には所有者たる個人によって使用されるものであった。
一方、徽章は、紋章同様その所有者にゆかりある意匠が採られたが、従臣や支持者たちに配られて、衣服に取り付けられることもあった。現代に例えるなら、選挙期間中、各陣営の関係者や運動員が候補者の似顔絵をプリントしたTシャツを着て指示を訴える図に通じる。
とにかく、赤薔薇はランカスター家の、白薔薇はヨーク家の徽章であった。内乱の最中に王家の数あるシンボルの一つにすぎなかった薔薇が、最終勝利者のイメージ操作の一環として多用され、ついには後世の人々の手で内乱そのものの名称とされるまでに地位を押し上げられたのである。
神罰としての薔薇戦争
当時、イングランドの王座にあったのは、プランタジネット家のリチャード二世だった。プランタジネット家とは、元をたどればフランス貴族の一門である。12世紀に、当時イングランドを支配していたノルマン朝の跡取り娘マティルダと、ジョフロア・プランタジネットの間に生まれたアンリ(ヘンリー)が、イングランド王ヘンリー二世として即位し、プランタジネット王家の祖となった。この王家は、3世紀にわたってイングランドの王座を保ち続けた。
リチャード二世の祖父エドワード三世には、百年戦争の英雄として名高いエドワード黒太子という長子がいたが、50に達する前に亡くなっていた。そこで、黒太子の子でエドワードにとっては嫡孫にあたるリチャードが祖父の跡を襲って即位した。ところが、王権神授の信奉者であった彼は、独断専行と寵臣政治に走って大貴族たちと反目した。やがてその王位は、リチャードの従弟で、ランカスター家の家長エンリー・ボリングブロクの手で奪い取られてしまう。ボリングブロクは、「ヘンリー四世」として即位し、ランカスター家出身の最初の王となるが、即位の敬意からして、その正当性には在世中から疑惑の目が向けられていた。そして、この簒奪こそが、かの「テューダー朝神話」の序幕となった。ヘンリー四世が奪い取った王冠は、息子のヘンリー五世に引き継がれ、英邁な五世王の下に再開された百年戦争は、イングランドの勝利のままに進行し、その治世は中世イングランドの最高潮とも謳われた。しかし、王は志半ばにして病に倒れる。生後9ヶ月で即位した、その息子のヘンリー六世は、統治者としては著しく不適格であったところに、フランス戦線での大敗を知って精神疾患を発症。国王は貴族たちの私闘を抑えきれず、秩序を失ったイングランドの地は、民衆の怨嗟の声に包まれる。やがて、ランカスター家の王権は、同じくプランタジネット王家の末裔たるヨーク家の挑戦を受け、血で血を洗う内乱に突入する。
ヘンリー五世と百年戦争
ランカスター家のヘンリー五世は、中世イングランドでも最も偉大な国王と言われている。かれは、百年戦争を再開し、幾度の重要な会戦で決定的勝利を収め、ついにフランスを屈服させた。
1337年11月1日、イングランド王エドワード三世は、フランス王フィリップ六世に挑戦状を送りつけ、両国は戦争状態に突入した。これが、百年以上の長きに渡って間歇的に展開される百年戦争の幕開けである。
戦況はしばらくイングランドの優勢に進む。大陸のアキテーヌとフランドル、ブルターニュに足場を築き上げ、クレシーの戦いとポワティエの戦いでフランス軍を打ち破り、フィリップの跡をついでフランス国王となったジャン二世を捕虜にするほどの完勝を果たした。フランス国内では農民暴動「ジャックリーの乱」が発生するなど混乱を極めるが、1360年のブレティニー条約でひとまずの和平が成る。
しかし、フランスは次の王シャルル五世の下、巻き返しを見せる。「税金の父」とも「最初の近代人」とも称されるシャルル五世は、国内の税制を整備し、財政改革に成功。これによって王家の財政規模は飛躍的に増大し、常備軍の設備が可能になった。この精鋭は、アキテーヌ戦線で目覚ましい活躍を見せ、フランスは南西部の失地回復を成し遂げた。フランス優勢の下で休戦が模索されていた1377年、半世紀もの間イングランドに君臨したエドワード三世が崩御。その後のリチャード二世は和平を志向する。フランスもまた、シャルル五世の死後、派閥抗争を繰り広げた。こうして、1396年、両国はパリで30年間の休戦協定に合意する。
ジャンヌ・ダルクの登場
百年戦争の戦況は、1428年に始まる要衝オルレアンの攻防を気に大きく転換する。オルレアンは、イングランドへの抗戦を続けていた王太子派の拠点であり、イングランド軍の重要な攻略対象だった。王太子にしてみれば、オルレアンが陥落すれば、パリの奪還はおろか、牙城ブールジュの維持すら困難になる。そのため守備隊も頑強な抵抗を見せたが、次第に劣勢に転じ、翌年には開場も時間の問題となった。しかし、ここで登場したのが、聖女ジャンヌ・ダルクである。彼女の登場以降、王太子派はイングランド軍の砦を次々と陥落させ、ついにオルレアンの包囲が解かれる。続くパテーの戦いでイングランド軍を壊滅させたジャンヌ・ダルクは、7月には王太子を伴って歴代フランス国王の載冠の地ランスへ入り、王太子は「シャルル七世」として即位する。
だが、ジャンヌ・ダルクの命運もここまでだった。1430年にブルゴーニュ公の同盟者にとらわれたジャンヌ・ダルクは、そのままイングランド川に売り渡されてしまう。ジャンヌ・ダルクの名誉を傷つけることが政治的に必要と判断したベッドフォード公の手回しで、「異端、偶像崇拝者、背教者、邪神の再発、虚言癖、悪質な不信心者、冒涜者、冷酷にして放縦」と断罪されたジャンヌ・ダルクは、翌年5月、ルーアンの広場で火刑に処される。
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本書は百年戦争の概略を述べた跡に薔薇戦争の説明に入るのだが、吐き気がするほど日本語が分かりづらい。読むのが嫌になってしまった。いつか時間ができたら読み直そう...。