読書ノート

海がつくった世界史

人類にとって、食料を確保する上で、また、他集団の侵入と攻撃から自らの存立基盤を守る上で、「海」ほど決定的な要因となる外界はない。

地政学で読み解く! 海がつくった世界史 (じっぴコンパクト新書)は、海から地理と歴史と政治と経済を眺める必要性が喚起される中、書かれた。本書は、フェニキア、アテネ、ローマ、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカなど、古代から現代に至るまでに海の覇権を握った国々を取り上げ、その盛衰を地政学的な観点から紹介している。

シーパワーのアテネとランドパワーのスパルタ

クレタ文明に代表されるエーゲ文明が滅亡した後、数百年の空白期間を経て、紀元前8世紀からポリスと呼ばれる都市国家が分立するようになる。その一つがアテネである。

アテネは紀元前6世紀にペイシストラトスとその息子たちによる独裁政治の下で大きく反映したが、同世紀末にはクレイステネスが登場し、彼のもとで民主政が確率された。そしてこれ以降、約200年にわたり当時としては極めて珍しい民主政が安定的に持続した。

民主政を維持するためには陪審員や評議員に対する手当など、莫大な費用を必要とした。アテネがその経済的負担を担保できたのは、強大な海軍力によって海上支配を実現できたからにほかならない。

アテネの海上支配を決定づけたのは、ペルシア戦争である。紀元前480年、ペルシア帝国の王クセルクセスがギリシアに侵攻すると、ギリシア側はアテネをはじめとする各ポリスが連合を結んで対抗することにした。

ギリシア連合軍の識見を託されたのはスパルタで、陸軍もスパルタが出した。すスパルタは伝統的に陸上での戦いを重視してきたランドパワーの都市国家である。一方、海軍はシーパワーのアテネが主力を担った。

ギリシア連合軍は小アジアの洗浄でも勝利し続け、ペルシア戦争に勝利する。大国ペルシアを撃退したことで、ギリシア人は大きな自信を得た。

ペルシア戦争におけるギリシアの勝利は、その立役者であるアテネのギリシア世界における地位を大きく向上させた。そうした中、アテネは「世界の警察」のような意識を持ち始めた。

しかし、こうした状況はスパルタをはじめとする諸都市の反感を招き、アテネは紀元前431年からのペロポネソス戦争でスパルに敗戦。アテネとスパルタの両雄がギリシア世界を二分して戦ったこの戦争をきっかけに、アテネだけでなくギリシア全体が衰退へと向かっていった。

ローマ

ローマは、地中海世界で史上空前の反映を誇った、海の彼方の巨大な海洋国家であった。

ローマ帝国といえば、シーパワーの国というよりランドパワーの国としてのイメージが強いが、大帝国の基盤となったのは理工上ではなく、海洋支配によって得られる利益だった。

もともとローマは農業中心の国だった。紀元前3世紀、ローマはイタリア全土をほぼ支配下に置いていたが、強化に力を入れていたのは陸軍であり、初期にはまともな海軍を所有していなかった。当然、地中海にはまだ手を伸ばしておらず、地中海の海上交易を一手に握っていたカルタゴとは良好な関係にあった。

そうした中、イタリア半島沖に浮かぶシチリア王国で内紛が起こり、王屋内はローマに保護を求める一派と、カルタゴに保護を求める一派と分裂してしまう。

ローマとしては、シチリア王国がカルタゴの支配下に入ると、その驚異が目前に迫ってくることになるため、シチリア王国のカルタゴ帰属は絶対に容認できなかった。

また、もしカルタゴと戦争して勝利すれば、ローマはさらなる領地拡張を期待することができる。執政官の中には海戦を望む者もおり、ローマはついにカルタゴとの戦争を決意。紀元前264年、三次にわたるポエニ戦争の火蓋が切って落とされた。

第一次ポエニ戦争のシチリア沖海戦において、ローマ海軍は最強のカルタゴ海軍を相手に互角の戦いを見せたが、帰還時に暴風にあい、10万人もの犠牲者を出してしまう。それでも海戦経験を積むについれて、ローマ海軍は飛躍的に成長。第二次ポエニ戦争ではハンニバルの補給を妨害するなど大いに活躍した。そして紀元前202年、ローマはザマの戦いでカルタゴを倒し、西地中海唯一の大国へと躍進した。

その後、カルタゴは復興を遂げたが、ローマはささいな条約違反を口実に戦争を仕掛け(第三次ポエニ戦争)、紀元前146年にカルタゴ市街に火を付けて廃墟とした。これによってカルタゴは滅亡し、カルタゴの反映の礎であった海上貿易網はローマのものとなった。

ヴァイキング

ヴァイキングは単なる海賊ではない

ヴァイキングといえば、残虐な海賊をイメージする人が多いと思うが、彼らは単なる海賊ではなく、偉大な航海者・探検者であり、遠距離の交易に携わる商人であった。

そもそもヴァイキングとは、8〜11世紀にかけて北ヨーロッパのスカンジナビア半島やユトランド半島(現デンマーク)を本拠とし、東西ヨーロッパに南下したノルマン人を指す。

部族として見ると、ノール人(ノルウェー人)、、スウェード人(スウェーデン人)、デーン人(デンマーク人)の3つに分かれていた。

ヴァイキングが南下してヨーロッパ各地に進出していったのは、地理的理由によると考えられている。スカンジナビア半島やユトランド半島は極寒の地で、作物が育ちにくく、自給自足が難しい。そのため、漁業や交易なども行っていたが、人工が増加するにつれて生活が苦しくなり、海外に進出したと言われている。また、ヴァイキング内の権力闘争に敗れ、追放された者たちが新天地を求めたという側面もある。

ヴァイキングについて地政学的観点から注目すべきは、強大な海軍力と優れた商才を背景にしたシーパワーである。

ヨーロッパ世界はヴァイキングが作った?

では、ヴァイキングのヨーロッパ進出はどのように進んだのか。

8世紀末、ノール人とデーン人はアイルランド島を何度も襲撃する。後にダブリンやウォーターフォードといった都市に発展する交易都市を築いた。

アイルランド島のグレートブリテン島にもたびたび攻撃を行い、9世紀後半には島の東西部以外を支配する。その後、イングランド王国のアルフレッド大王によって侵攻を食い止められたものの、11世紀初頭にはデンマーク王国の王子クヌードがイングランド全域を征服。さらにノルウェーやスウェーデン、スコットランドなども支配して、北海沿岸に一大海洋帝国を建設した。

しかし、クヌートの死後、帝国は一気に崩壊してしまい、イングランドはアングロサクソン人の国となった。

また、ヴァイキングは9世紀半ば以降、アイスランド島への移住を始めた。

さらに、ルスと呼ばれるノルマン人の一派の族長リューリクがバルト海からロシアの内陸部に入ってノヴゴロド王国を建設した。ルスはロシアの基礎をつくり、国名の由来にもなった。

強大なシーパワーを持ったヴァイキング。彼らはヨーロッパの形成にあまりに大きな影響を及ぼした。

ポルトガル

ポルトガルはイベリア半島西部に領土を持つ小さなシーパワー国である。この小さな国こそが、15世紀から17世紀前半にかけてヨーロッパで続いた大航海時代の先駆者であり、交易によって莫大な利益を獲得するとともに、世界各地に植民地を獲得してアジア、アフリカ、アメリカにまたがる海洋帝国を形成した。

そもそもヨーロッパ諸国が海を目指した理由は、イスラム勢力の台頭にあった。7世紀、アラビア半島に誕生したイスラム帝国は次第に領土を広げていき、やがてバルカン半島から北アフリカ、中央アジア、イベリア半島に及ぶ大帝国へと成長した。

その結果、アジアの物産を運ぶ陸路のシルクロードも、ペルシア湾や紅海などを経由する海上のマリンロードも、イスラム勢力の支配下に入り、そこを通過するには高い関税を支払わなければならなくなってしまった。そうした状況の中、ヨーロッパではイスラム勢力を打破しようとする戦いが繰り広げられた。それが11世紀に始まる十字軍の遠征であり、718年以降のイベリア半島で展開されたレコンキスタ運動であった。

当時のポルトガルは、「航海王子」の異名を持つ王子エンリケが航海学校を設立するなど、航海術や天文学の普及に力を入れていた。

ポルトガルが最初に目指したのは、ジブラルタル海峡の対岸に位置するアフリカの都市セウタである。1415年、この年を攻略して地中海と大西洋を繋ぐ海峡に地歩を築いたポルトガルはその後、陸伝いにアフリカを南下。ヴェルデ岬やアゾレス諸島を発見して、15世紀中に西アフリカにおける貿易体制を整えていった。そして西アフリカ各地へ植民し、奴隷貿易やプランテーション経営で莫大な利益を得つつ、インド、アジアを目指した。

1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰までたどり着き、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが東アフリカからインド洋を横断してインド西岸のカリットに到着。香辛料を買い付けて帰国し、これによりインド航路が開かれた。この時に買い付けてきたコショウの売買だけで、渡航費用の60倍もの利益が出たと言われている。

ポルトガルは優れた航海術と海軍力によって、インド西岸のゴアやアジアへの航路上の要衝であるマラッカ、紅海への入口となるアデンなど、戦略上の重要拠点を次々と落とし、その地に商館や要塞を建築した。

ただし、ポルトガルの占領地は海縁部の都市に留まり、他国を面として支配を試みた形跡はない。アジアを領域的に支配することは最初から考えておらず、代わりにインド洋沿岸で交易拠点を確保して、香辛料の生産と流通を掌握しようと目論んでいたといえる。

1510年、南アフリカにも到達し、現在のブラジルにあたる地域を植民地化した。黒人奴隷をアフリカから連れてくるなどして支配地域を拡大していく。

16世紀半ばには中国や日本にも到達。1543年に日本の種子島にポルトガル人が漂着して鉄砲を伝えたのは有名で、その後、ポルトガルは日本との貿易をほぼ独占した。1557年には中国の明からマカオを貸借して、中国の生糸や金と日本の銀の取引をする中継貿易も行い、大きな利益を上げるようになった。

しかし、その栄華は長くは続かず、16世紀後半から勢いを失い始め、1580年にアヴィス朝が断絶すると、スペインに併合されてしまう。

スペイン

スペインは15世紀半ばから16世紀後半までの間、「太陽の沈まない国」と呼ばれるシーパワー大国であった。「太陽の沈まない国」とは、南北アメリカ大陸を中心に、アジアにまで植民地を持っており、常に領土のどこかで太陽が昇っている状態を意味する。

そもそもスペインはヨーロッパの最西部のイベリア半島に成立した国である。イベリア半島は長い河川がなく、海沿いの平野も狭く、人々の多くは山間の谷間に住むしかなかった。香辛料など東方の物産をヨーロッパにもたらす東方貿易を行おうにも、オスマン帝国に交易路を抑えられていた。結果として、他国の貿易商人の力を借りるしかなく、しかも、北アフリカのベルベル人をはじめとするイスラム勢力の侵入の矢面に立つという状況だった。さらに南地中海にはオスマン帝国の庇護を受けるベルベル人の海賊が跋扈していたので、地中海方面はすべて塞がれていた。そのため、14世紀にはヨーロッパで最も貧しい地域だった。

スペインが海に乗り出す決意を促したのは、1469年にカスティーリャ王国の王女イザベルとアラゴン王国の王太子フェルディナンドが結婚したことを契機とする。ともにカトリック王であった二人の結婚により、停滞していたレコンキスタが再開されたのである。

ポルトガルに続いて大航海へと乗り出していく。そして1492年にはコロンブスを支援してアメリカ大陸を発見するに至る。

アフリカを経てアジア・インド方面へと向かったポルトガルに対して、スペインは大西洋を横断し、ピサロ、コルテスといったコンキスタドールの遠征によって、新大陸を支配下に置いていった。

こうしてスペインは空前の反映を実現し、1516年に相違したハプスブルク家出身のカルロス一世は、神聖ローマ帝国の皇帝も兼ねて「カール五世」とも呼ばれた。

その後、カルロス一世(カール五世)からスペインを継いだフェリペ二世は、アメリカ大陸やネーデルランドを領有し、1571年にはオスマン帝国とのレパントの海戦に勝利を収める快挙を成し遂げる。それまで不敗を誇っていたオスマン艦隊を破ったという自信は、スペインの人々に高揚感を与え、冒険精神がさらに高まり、スペインはポルトガルとともに大航海時代の牽引役となっていく。

スペインの発展を支えたのが植民地政策と貿易である。スペイン貿易ではマニラが重要期な位置を占めた。

1521年、マゼラン率いるスペイン船団がフィリピンにたどり着くと、スペインは1529年にサラゴサ条約によってフィリピンの領有権をポルトガルに認めさせた。1571年にはルソン島にマニラが建設され、スペインはマニラを中継地として世界的な貿易を開始した。

さらに16世紀半ば、南アメリカのボリボアでポトシ銀山が発見されて大量の銀河産出されると、スペインは独占的開発を行い、ヨーロッパへの輸出を開始した。産地ではスペイン王国の厳重な管理のもとで採掘が行われ、採掘された大量の銀をスペインのガレオン船がメキシコ西岸のアカプルコから太平洋を横断してマニラへ運んだ。そしてマニラに至った銀は中国の絹や陶磁器と交換され、中国へと運ばれた。

また、ポトシなどで産出された銀の一部がヨーロッパへと送られた結果、銀価格が暴落して物価が高騰する価格革命が引き起こされている。

オランダ・イギリスの台頭とスペインの衰退

スペインは1580年、ともに世界を二分する勢力を誇っていたポルトガルにおいて王朝が途絶えたのを見るや、一気にポルトガルを併合する。

当時のスペインは、オランダ独立戦争やイタリア戦争への介入、オスマン帝国との戦いなど戦いが打ち続いて戦費の支出に苦しんでおり、蓄積された資本を産業の育成に生かすことはなかった。

やがて1588年、イギリスとのアルマダの海戦で「無敵艦隊」と呼ばれたスペイン海軍が大敗する。これをきっかけにスペインの衰退が始まった。

スペインが勢いを失うと、後進の海洋国家であるイギリスやオランダが台頭、スペインは植民地を次々に失い、ますます衰えていった。

イギリス

ヨーロッパ大陸では内紛が頻繁に起こっていたが、海を隔てたイギリスはほとんど影響を受けなかった。その一方で、自ら海に出ていかなければ領土は増えないという土地柄だった。

1588年にエリザベスが即位し、絶対王政が最盛期を迎えた頃にようやく海へと乗り出した。国内では中央集権が進み、貨幣制度も統一され、国内産業も発展して、国力が充実した時期だった。

イギリスは島国なので陸上からの侵略に備える必要はない。イギリス自身も百年戦争以降、大陸への介入を控えていたので、強力な陸軍を持つ必要もなく、その分、海軍力の強化に注いだ。その結果、強力な海軍と高い航海技術という、抜群のシーパワーを有することができた。

そのおかげで、イギリスは、アルマダの海戦、トラファルガーの海戦と、本土上陸を企図する他国軍を全て撃退することができた。

アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を撃破すると、イギリスの海外進出の勢いはますます加速。アメリカの植民地化を狙ったイギリスは、1674年までに3回にわたってオランダと英蘭戦争を戦い、オランダの中継貿易に大打撃を与える一方で、新大陸のニューアムステルダムを奪い、ニューヨークと改名するなど、北アメリカ東岸一体を支配下に収めた。1713年にはユトレヒト条約でフランスからニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾地方を獲得し、北アメリカに大きく勢力を伸ばした。

イギリスはさらにユーラシア大陸にも触手を伸ばした。1600年に東インド会社を設立してアジア進出の足がかりを作ると、インドをめぐってフランスと戦って勝利を収め、インドを植民地として手に入れた。しかし、この時点では、まだイギリスによるインド経営は海岸都市に留まっていた。

こうして海洋進出を進める一方、本国では立憲王政が確立し、1707年にはスコットランドを併合してグレートブリテン王国が成立。さらに1760年以降に産業革命が起こり、イギリスの産業は一気に発展した。この産業革命が、さらに広大な市場を求める動きへと駆り立てていくことになった。

1783年、アメリカ合衆国が独立を果たしたことにより、イギリスは大きな転機を迎える。アメリカの独立はイギリスにとって大きな打撃だった。産業革命によって功業や農業など様々な産業が発展し、イギリス国内の生産能力は一気に拡大していた。しかし、製品を大量に作っても、売れなkれば意味がない。

イギリスにとって、アメリカという植民地は、国内で売れなくなったものを買わせる格好の相手だった。ところが、アメリカは独立してしまったため、小さな島国である本国ではとても捌ききれない。そこで、イギリスは新たな植民地政策を打ち立てた。これまで海縁部に限っていたインドの支配を内陸部へと拡大するとともに、インド洋を支配するためにビルマなどの周辺海域を攻略、マレー半島も植民地化してチョークポイントのマラッカ海峡を掌握した。こうしてインド洋や西太平洋を連絡する海上権を掌握した。

また極東ではアヘン戦争を仕掛けて清王朝を圧倒する。1842年には南京条約によって香港の割譲を受けて極東進出を果たした。これ以降、フランスとともに中国の港を次々と開港させ、領事を駐在させるなど、ユーラシア大陸の周縁部を次々と支配下に収めた。

しかし、これでもイギリスは満足せず、1874年に帝国主義を主張して、さらに勢力を広め始めた。1875年にはエジプト政府の政策難に乗じてスエズ運河の権利を買収すると、アフリカや太平洋の島々への進出を開始した。カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策を推進して、1910年には南アフリカ連邦を成立させた。太平洋ではかねてから囚人などを送り込んでいたオーストラリアを1901年から本格的に自治領とした。

こうしてイギリスはドーヴァー海峡、ホルムズ海峡、マラッカ海峡、そしてスエズ運河といった世界各地のチョークポイントを確実に押さえて世界の4分の1を制覇する世界最大の国となり、「パクス・プリタニカ」と呼ばれる絶頂期を迎えた。

しかし、そんなイギリスも、第一次・第二次世界大戦後、地位が揺らいだ。かつて植民地として統治していたアメリカが勢力を伸長させ、世界中に基地を設けて影響下に置いていった。加えて、各植民地で独立戦争が起きるなど、イギリスの支配力は一気に低下。イギリスは解体へと向かった。

琉球

琉球王国は、中国の庇護のもと中継貿易によって栄えた東アジアの貿易国家である。

沖縄は第二次世界大戦後のアメリア直接統治時代を経て、1972年に日本に返還された。しかし、今なお多数のアメリカ軍基地が置かれており、深刻な政治・社会問題となっている。こうした状況は、沖縄の地政学的要因によってもたらされたとも言える。

那覇を中心に円を描くと、台湾や中国の上海などは九州とほぼ同じ距離にあり、フィリピンのマニラや韓国のソウルは東京よりも近い。作戦可能空域を半径4,000kmとすると、東アジア〜東南アジア全体、さらにロシア南部までを包括できてしまう。

さらに注目すべきは中国の太平洋への出口に位置していることで、沖縄を押さえておけば中国の太平洋進出を阻むことができる。つまり、沖縄は軍事戦略上、極めて重要な場所であるため、世界の警察たるアメリカにしてみれば、そう簡単に基地を手放すわけにはいかないのだ。

沖縄は、琉球王国の誕生以前から、モノやヒトの移動が活発な土地で、東シナ海の交易ネットワークの拠点の一つとなっていた。そのシーパワーとしての存在感が一層強まったのが琉球王国の時代だった。

1368年、朱元璋(洪武帝)におって明が建国されると、その4年後に琉球王国は明を中心とした国際体制に参入していく。当時、明の商人は海禁政策で貿易を禁止されており、琉球王国は彼らに差し替わる形でアジア各国との中継貿易を開始した。青磁や武器などの中国品を海外に売り、コショウや染料といった海外の品を中国に売り込むという貿易システムが構築され、その交易対象地域は東南アジアのほぼ全域に及んだ。

那覇は、現在の香港やシンガポール、ドバイのような国際貿易のハブとなり、琉球王国の中継貿易をより一層発展させた。

日本の中の琉球という側面に加え、中国の中の中級という側面も持ち、日本でも中国でもない独特の存在感を示しながらハネイの道を歩んだ琉球王国。その反映の背景には、他国は決して持ち得ない地の利とそれを巧みに生かすことのできる知恵があった。

世界で起きている様々な出来事を理解するためには多角的な視点で俯瞰的に見渡すことが必要になる。その際に大変役に立つのが「地政学」である。地政学とは、ジオポリティクス(ジオ=地球の+ポリティクス=政治)、すなわち「地理の政治学」のことで、人文地理学に一分野から発展して成立した。世界地図を広げたり、地球儀を眺めたりしながら、各国の戦略に思いを巡らせ、自国の将来の戦略を考える。それが地政学の本質である。

海軍力で圧倒したり、各地に植民地をつくって発展したり、貿易網を構築して経済力で支配したりと、各覇権国の戦略は様々である。そうした戦略を中心に、図版や写真を多用しながら海の世界史を読み解いている。

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