読書ノート

エリザベス女王

エリザベスは側近を使いこなして国庫の運営に大いに力を尽くした。厳しい点も怒りやすい点もあったが、女王の地方巡幸のおりの優しい心のこもったスピートは人々の心を深く掴んだ。

幼児の頃から厳しい環境下で育ちながら、十分に人文主義的な教養も授けられた。そうした経験から時に応じた硬軟両様の態度の使い分けを身に着けた。エリザベスはお世辞や追従も好んだが、それは絶対王政期の各国の君主の通弊とも言える。

スペインの圧力など、イングランドにとって存亡の危機ともいえる厳しい難局を切り抜けていったエリザベスの人間的な力量は、大いに評価されて良い。それをうまく補佐したのが、有能な側近であった。

テューダー朝の成立と新旧両教の対立

14世紀半ば、国会方面とイタリアを結ぶ海上交通ルートを通って黒死病(ペスト)がやってきた。ペストはヨーロッパ全域に広まり、ヨーロッパの人口の三分の一が死んだ。不足した農業労働力に対しての領主側の締め付けは農民の反発を招き、社会は大きく動揺した。

またこの時期、ドナウ川流域にはイスラム勢力のオスマン帝国が進出してきており、その北にはビザンツ帝国を継承すると称するモスクワ大公国が位置し、その南西にはリトアニア・ポーランドが、北の北欧にはデンマーク中心のカルマル同盟があった。これらの防壁となっていたのは神聖ローマ帝国であったが、16世紀前半に、ルターらによる宗教改革が起こり始めており、皇帝や各国国王を中心とした西欧諸国の中央集権の動きに微妙な影響を与えていた。イベリア半島のスペインとポルトガルはレコンキスタ(国土回復運動)をほぼ終えており、アメリカ大陸やインド洋方面への進出に踏み出していた。イングランドやフランスなどもその機会を狙っていた。

イギリスでは、1509年にヘンリー七世が死去し、新国王に即位したヘンリー八世は、その直後に兄嫁と結婚した。ヘンリー七世は薔薇戦争を終結させてイングランドを統一したが、彼もヘンリー八世も、大陸政策には大きな成果を上げなかった。

ヘンリー八世の治世初期に重く用いられたのが、ヨーク大司教、枢機卿、大法官、教皇特使へと地位をあげさせてきたウルジーであった。ウルジーが私邸として建てた家は、王宮をもしのぐ豪華なものであった。ウルジーの権力と豪華な生活は、中世後期から根強かった聖職者への反感をさらに増幅させた。

当時のヘンリー八世は王妃キャサリンとの結婚から娘メアリーしか得ておらず、安定した後継者として男児誕生を切望していた。しかし、すでに王妃は40代となっており、男児に恵まれる期待は薄かった。そこでヘンリー八世は、ローマ教皇からキャサリンとの離婚の許可を得て、若い新王妃と結婚しようと考え始めていた。ヘンリー八世は、キャサリンの侍女のアン・ブーリンに強く惹かれており、教皇庁にも勢力を持つ大法官ウルジーを交渉にあたらせれば許可は得られると、なかば楽観視していた。しかし、事は思惑通りに進まなかった。ローマ教皇クレメンス七世はカール五世の叔母にあたるキャサリンの離婚を許すことはできなかった。

結局、ウルジーは交渉に失敗し、国王がローマに召喚されるかもしれない事態にまで追い込まれた。ウルジーは最大限の恭順の意を示したが許されず、職を失い、ロンドンに護送される途中で死亡した。

ヘンリー八世は問題解決のために議会を利用しようと考え、1529年に議会を招集。失脚したウルジーに代わって登場したトマス・クロムウェルがリーダーとなり、次々に反ローマ立法を用意した。1536年まで続いたこの「宗教改革議会」が旧教協会からの分離を推し進めた。

その後、大法官の地位をウルジーから継いだトマス・モアも、「宗教改革議会」を手動したクロムウェルも、ヘンリー八世の不興を買うことになり、やがて処刑されてしまう。

ヘンリー八世は、新しい結婚を認めようとしないローマ教皇から離脱することを考え始めていた。

期待したアン・ブーリンの産んだ子も女児であったが、彼女こそが後のエリザベス女王である。

1634年、ヘンリー八世は「国王至上法」に基づき、「ローマとは断絶した旧教教会」を樹立した。

1536年に男児を流産したアン・ブーリンは、国王の寵愛を完全に失い、新しい結婚を望むヘンリー八世により不義の疑いまでかけられて処刑されてしまう。ヘンリー八世はその後、3番目の王妃となるジェーン・シーモアと結婚して、ようやく待望の男児エドワード(後のエドワード六世)を得た。ヘンリー八世の3人の子供たちの王位継承順は、1位エドワード(新教徒)、2位メアリー(旧教徒)、3位エリザベス(新教徒)と定められた。

若年のエドワードが1553年に夭折すると、既に定められていた王位継承順に従ってメアリーが国王に即位し、メアリー一世となる。メアリーはカール五世の王子フェリペと結婚していて、強く旧教の立場に立って、イングランドの新教を抑圧した。そのため新教の国教会を指導してきた大主教や主教などに処刑された者も多く、そのためメアリーは「ブラッディ・メアリー」とも呼ばれた。

メアリー一世は、夫であるスペイン国王フェリペ二世との間に子供をもうけてイングランドの王位に就けたいと考えており、他方イングランドの新教徒は新教派のエリザベスの王位継承に期待をかけていた。それだけに旧教徒のメアリーから見れば、エリザベスは最も邪魔な存在であり、機会があれば王位継承から排除したいと人物であった。

メアリー一世は後継者をもうけることができず、旧教の信仰を守るという条件つきながらエリザベスを王位継承者として認めるというように態度を和らげていった。1558年11月半ばにメアリー一世は死去。イングランド国民から大きな期待をかけられていたエリザベスは、姉メアリーの王位継承排除の画策を乗り切り、25歳の若さで王位を継承した。

エリザベスの即位

女王エリザベスに最も多くを指南した人は、ウィリアム・セシルであった。セシルはエドワード六世の時にも職についており、国務卿でもあったが、メアリー女王の下ではそれらの職から罷免されていた。セシルはエリザベスの即位によってこの職に復帰していた。

寵臣ロバート・ダドリー

1562年、天然痘にかかったエリザベスは、一時重篤になり、セシルら枢密議官の側近はハンプトン・コートにかけつけて、後継者の問題を協議したほどであった。幸いエリザベスは回復したが、王位継承についての不安が表面化した出来事となった。エリザベスはまだ30歳前後で結婚によって後継者を得ることもできる年齢であり、求婚者は多くいた。

しかしエリザベスはこうした結婚に全く気が向かなかった。これはエリザベスの寵臣であるロバート・ダドリーの存在があったとされている。エリザベスとダドリーは同年代で、また同時期に共にロンドン塔に入れられており、ここで二人は親しくなった。

メアリー一世時代からダドリーは軍人として大陸にも赴いていた。エリザベス即位後には更に出世して王室馬寮長、枢密議官に任ぜられ、1564年には伯爵位も与えられてレスター伯に叙せられた。しかし、ダドリーの妻エミリー・ロブサートが謎の死を遂げると、宮中には謀殺を疑う者も出て、女王を疑いを避けるためか、やや距離をおくようになった。

エリザベスの晩年

エリザベスの晩年は、平穏ではあったが、かつてのような荒々しいほどの活力は失われていた。1603年1月、冬の悪天候の中をリッチモンド宮に移動した頃から、エリザベスの健康状態は急速に悪化した。3月に入るとエリザベスは薬や食事も受け付けなくなり、医師の指示には全く従わず、ベッドに寝ることさえ拒否して、クッションの上に見を横たえていたと言われている。

定まった王位継承者がいなかったエリザベスの死去の際の「王位継承」は大問題であった。しかし、ロバート・セシルら側近は既にスコットランド国王ジェームズ六世がイングランドの新国王となることを宣言する布告を用意して、その原案をスコットランド国王のもとへ送っていたようであった。エリザベスは、1603年3月24日に、69歳で死去したが、その前に彼女がジェームズを王位継承者に指名していたかどうかは、明確ではない。

この王位継承を無事成功させたのは、ロバート・セシルだった。セシルはエリザベス治世末の極めて困難な問題を自分で背負ったまま、イングランド新国王ジェームズ一世の時代にも政界の実力者として仕えることになった。

このようにして、エリザベスの死去によってテューダー王朝はヘンリー七世以来、3世代5人の国王たちで終わりを告げ、スコットランドのステュアート王家がイングランドの王位を兼ねることになった。この時はまだ同君連合の形であったが、やがてこれが王国合同に発展して、大ブリテン王国(グレートブリテン)を形成していく。

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