ヘンリ八世は、近代イギリスの礎を築いた君主であり、ルネサンス的教養を身に着けた学識豊かな王でもある反面、私欲のために国教会を設立した専制君主や、気に入らなくなった妃を次々と処刑した好色漢とも言われる。今なお評価が名君と暴君で大きく分かれている人物である。ヘンリ8世の迷宮―イギリスのルネサンス君主 (-)では、ヘンリ八世の人物像とその世界を様々な角度から描き出している。
ヘンリ八世の治世
ヘンリー・テューダー(ヘンリ八世)は、1492年イングランド王のヘンリ七世とその妻ヨークのエリザベスの次男として生まれた。若い頃からルネサンス的な教養を身につけつつ騎士道に憧れて育った。気楽な次男坊であったが、1502年に兄のアーサーが亡くなり彼の運命は大きく代わった。
1509年、17歳でヘンリーは即位し、ヘンリ八世となった。煩雑な政務は、ヘンリ七世の晩年頃から宮廷内で頭角を現していた聖職者トマス・ウルジーを重用して彼にすべてを任せた。ウルジーは、よーく大司教と枢機卿、大法官といった聖俗の要職に就き、その権勢を恣にした。とくに外交面で、ヨーロッパの軍事的成功を願うヘンリ八世の要望を受けて、その政治手腕を振るった。しかし、何度か試みられた大陸への軍事介入は上手くいかず、軍事費負担ばかりが増えていくことになった。
華やかだったヘンリ八世のち生に暗い影が指したのは、後継者問題に発する妻キャサリンとの離婚問題であった。この騒動からローマ教会との決裂、国教会の設立という、イギリス史の大きな転換が始まる。
この転換期に活躍したのは、離婚問題の処理に失敗して失脚したウルジーに代わって国政を担ったトマス・クロムウェルである。クロムウェルは、宗教改革を利用して、修道院を解散し、その膨大な土地財産を国王のものとした。この土地は後には財政逼迫のため売却され、購入者を中心に新しい地主ジェントルマンが形成され、その後のイングランド統治を支える階層になった。また、クロムウェルが行政を司っていた1530年代には、枢密院の精度が整うなど、行政改革も進んだ。ウェールズがイングランドに併合され、精度的に一体化したのもこの頃である。
宗教改革路線を維持し、大陸のプロテスタント諸国との連携に苦心していたクロムウェルは、これ以上の改革を良く思わない宮廷内の保守派の策動がにより、1540年に突如失脚する。クロムウェル亡き後のヘンリ八世は、大陸進出の夢を追い、スコットランドとも事を構えるようになった。しかし、莫大な財政負担だけを残し、音だった成果を得ることはなかった。
ヘンリ八世の40年ほどの治世は、その方向性が一貫していたわけではなかった。宗教的にも親カトリックからプロテスタントの間で揺れ動き、外交面でも国際関係の常として諸外国の生き馬の目を抜くような権謀術数に翻弄された。ウルジーやクロムウェルはその犠牲者と言えるが、最もよく知られているのは、離婚問題に賛意を示さなかったため処刑されたトマス・モアである。
キャサリン・オブ・アラゴン
メアリーはヘンリ八世と最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの間に生まれた娘である。キャサリンとヘンリ八世には他の子も生まれたが、生き残ったのはメアリーだけであった。そしてこの唯一の子が女児であったことが、ヘンリ八世の結婚問題、そして国教会の成立へと時代を向かわせる。
メアリーは幼少の頃から他国の王侯との結婚交渉が進められていたが、いずれも進展しなかった。カール五世との婚約もされたが、メアリーを他国に嫁がせると、将来の両国の合併の可能性があったので、その選択が慎重に期され、実現しなかった。
イングランドは女性の王位継承権が認められているので、メアリーがヘンリ八世の後継者になることは法的には問題なかった。しかし、テューダー朝はヘンリ八世の父、ヘンリ七世によって打ち立てられたばかりだった。そのため、プランタジネット朝の血統を引く男性もいた。女性であるメアリーとプランタジネットの男性では、どちらが上位の王位継承権を主張しうるのかは微妙な問題だった。ヘンリ八世は男性嫡子を切望した。しかし、キャサリン・オブ・アラゴンに新たな子供を期待することは難しくなった。
キャサリンとの子供を諦めたヘンリ八世は、別の女性との間に男児を儲けることを画策した。その時ヘンリ八世の目に止まったのが、アン・ブーリンである。
アン・ブーリンに乗り換えたヘンリ八世だが、正式な結婚による子供でなければ王位を継承させるわけにはいかないので、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を解消する必要に迫られた。
当時、この手の訴えは問題なく認められていたが、キャサリン・オブ・アラゴンの甥である神聖ローマ帝国のカール五世の圧力によって、教皇がヘンリ八世の主張を認めない、という事態になり話はこじれた。
アン・ブーリン
1533年、ヘンリ八世が任命したカンタベリ大司教トマス・クランマーによって、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚が無効と宣言された。この時点では、まだ「国教会」の設立には至っていないが、当時既にアン・ブーリンはヘンリ八世の子供を宿しており、その出産までに「正式の」結婚をしなければ、生まれてくる子供が非嫡出子となる。ヘンリ八世は急ぐ必要があった。
この無効宣言によって、当初からヘンリ八世とキャサリン・オブ・アラゴンの結婚は存在しなかったことになり、自動的にメアリーは非嫡出子の扱いとなった。それは、メアリーにとっては屈辱であったし、とうてい承認できるものではなかった。メアリーにとって、キャサリン・オブ・アラゴンの後釜に座ったアン・ブーリンとクランマーは許すことのできない存在となった。
一方、アン・ブーリンに期待されたのは、男児を産むことであった。しかし、最初に生まれた子供は女児(エリザベス)で、ヘンリ八世を失望させた。不運にも、その後のアン・ブーリンは、妊娠はするものの流産を繰り返し、男児を儲けることはできず、ヘンリ八世のアン・ブーリンに対する関心は衰えた。
アン・ブーリンから男児を得ることを諦めたヘンリ八世は、アン・ブーリンに罪をかぶせて処刑した。複数の弾性との姦通と、メアリー及びヘンリ・フィッツロイの殺害を企てた、というのがその罪状であった。しかし、それらはでっち上げというのが一般的な理解である。アン・ブーリンの処刑は、当時のイングランドで行われていた斧による斬首ではなく、本人の希望により、フランスから処刑人を呼び寄せての刀剣での斬首であった。非常にもヘンリ八世は、アン・ブーリン処刑の翌日、次の妃となるジェーン・シーモアと結婚し、処刑の10日後に結婚した。
ジェーン・シーモア
ジェーン・シーモアは、キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリンの侍女として宮廷に出仕していた女性である。
ジェーン・シーモアとの結婚からヘンリ八世待望の男児エドワードが生まれることになる。しかし、ジェーン・シーモア自身は出産の時に亡くなってしまう。この男児が後にエドワード六世として、ヘンリ八世の跡を継ぐことに成る。
クレーヴのアン
ジェーン・シーモアの死後、ヘンリ八世は新たな妻を探した。ここでヘンリ八世の視線は海外に向けられた。そして、ヘンリ八世の目に止まったのが、ドイツのユーリヒ・クレーフェ・ベルク公家のアンである。クレーフェを英語読みした「クレーヴのアン」として知られている。
しかし、この結婚は、肖像画が実物よりも美しかったためにヘンリ八世は失望して終わる。さすがに結婚を回避することはできなかったので、ヘンリ八世はしぶしぶ結婚して、半年後に結婚の無効が宣言されることになった。
クレーヴのアンは結婚解消後「王の妹」という称号と複数の居城を得て、宮廷内に出入りを続けることになる。メアリーとは同年代であったため、両者の関係は良好であった。その関係は終生続いた。
クレーヴのアンは、ヘンリ八世の妻の中では最も長生きし、1557年に死去した。
キャサリン・ハワード
5番目の妃となったのは、クレーヴのアンの侍女であったキャサリン・ハワードである。クレーヴのアンに失望したヘンリ八世が、その近くにいたキャサリン・ハワードに注目したとされている。結婚時、キャサリン・ハワードは20歳前後であったとされている。
しかし、キャサリン・ハワードの育ちの問題が徒となって、キャサリン・ハワードとヘンリ八世の結婚はほどなく終焉を迎える。ヘンリ八世と結婚する前に付き合っていた恋人と密会を続けていたことが露見し、姦通の罪で1542年に処刑されてしまう。
キャサリン・パー
最後の妃キャサリン・パーとヘンリ八世が結婚したのは、キャサリン・ハワードの処刑から1年半後の1543年夏である。
キャサリン・パーは、17歳で最初の結婚をしたが、数年で死別した。その翌年、倍以上の年の離れた男爵と再婚し、貴族の令夫人となる。1543年に夫が亡くなると、豊かな遺産を得たが、キャサリン・オブ・アラゴンに仕えた母親の縁で、メアリーのハウスホールドに入ることになった。そこでヘンリ八世の目に止まってしまう。
球根を承諾したキャサリン・パーは、1543年7月にヘンリ八世と3度目の結婚をする。結婚式にはメアリーとエリザベスも花嫁の付添として出席した。王妃となったキャサリン・パーは、メアリーやエリザベスとも良好な関係を築き、2人と王との関係改善に努めた。その結果が、庶子扱いのままながらメアリーとエリザベスの王位継承権を認めた1544年の王位継承法の制定につながったと言われている。
メアリーからすれば、4歳年上の新しい王妃は、かつて自分の母親に仕えた女性であり、侵攻は異なるものの、高い教養を備えた信頼できる人物であった。ヘンリ八世の晩年、まだ幼少のエドワードも含め、各々の母親が異なり、立場も異なる兄弟が、「母親」キャサリン・パーの下で、「家族」としてまとまった、最後の平穏な時間を過ごすことになったとされている。
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ヘンリ八世時代の正確が様々に色分けされ、その妥当性が議論されるということは、結果として、ヘンリ八世自身の性格や時代の特徴を捉えにくくしている。本書は、多面的で謎の多いヘンリ八世の人物像とその時代を、様々な角度から描き出してみようという試みである。
ヘンリ八世の時代を正面から検討しようとした書籍は、本書以前にはほとんどない。本書がヘンリ八世という迷宮のような人物の「入り口」となる。