読書ノート

アレクサンドロスの征服と神話

アレクサンドロスが行きていたのは今から2,300年前だが、当時から現代に至るまで、人々はアレクサンドロスを振り返り、歴史書から娯楽作品、教訓的な伝記、空想的なロマンス、映画まで、多種多様な作品が作られてきた。

アレクサンドロスには人知が及ばない何かがある。アレクサンドロスはわずか33年しか行きなかったが、疾風怒濤の生涯で、精力と才覚は底知れず、人間の持つ可能性を極限まで展開した。神々と共に天上にあるべき存在になっていた。

ギリシャ

紀元前8世紀以降、ギリシャ本土とエーゲ海一帯に、ポリスというギリシャ独特の少国家が生まれた。都市部の周辺には農地が広がり、自由身分の農民に土地が割り当てられた。はじめは貴族が政権を独占したが、市民の大半を占める平民にもしだいに政治参加の道が開かれた。ポリスはごく小規模な国家で、市民である成年男子の数は通常数千人程度、小さなポリスでは数百人にすぎない。最盛期に1万人近い市民がいたスパルタや、4万人の市民を有したアテネは例外である。さらにギリシャ人は、紀元前8世紀から紀元前6世紀にかけて黒海や地中海沿岸地方に植民市を建設し、活発な交易活動を行いながらギリシャ世界を拡大した。ポリスの総数は1,500に及んだと推定されている。

この頃、東方では、紀元前8世紀にアッシリア人がメソポタミア地方を統一して帝国を建設し、エジプトにも版図を広げた。小アジアに多大な刺激を与えた。ギリシャ人はフェニキア文学を改良してアルファベットを作ったほか、彫刻や建築の様式、冶金術や金属加工術など、多方面に渡って東方世界から多くを学んだ。

その頃のギリシャ本土では、スパルタが王政の下で全市民が政治と軍事に専念する独自の国政を確立し、ペロポネソス半島の諸ポリスを同盟に組織してギリシャ随一の強勢を誇った。アテネは紀元前6世紀初頭、ソロンの改革で民主政への第一歩を踏み出した後、ペイシストラトスの僭主政下で商工業が発展し、中小農民の生活も安定するようになった。そして僭主政が倒れた後の紀元前508年、クレイステネスが国政を改革し、重装歩兵身分を中心とする民主政を確立した。

ペルシア帝国の後ろ盾のあるイオニアの反乱をアテネが支援したことがきっかけで、紀元前492年、ペルシア戦争が始まった。紀元前490年にダレイオス一世はアテネに軍を派遣したが、マラトンの戦いで敗退。次の王クセルクセスは紀元前480年に自らギリシャに遠征したが、サラミスの海戦に敗れて撤退し、残された陸軍も翌年プラタイアで敗北した。こうしてペルシア戦争はギリシャの勝利に終わった。

紀元前477年、アテネが中心となってエーゲ海と園周辺の諸都市はデロス同盟を結成し、ペルシア軍の再来に備えた。ギリシャ艦隊による反政作戦は小アジア南西部にまで及び、大陸のギリシャ所としはペルシアの支配を脱することができた。こうしてエーゲ海はギリシャの、いやアテネの海となった。アテネはペルシア戦争の勝利に最も貢献した国であり、その威信と強力な海軍力をもってエーゲ海に君臨したからである。紀元前5世紀半ばからは、政治家ペリクレスの指導の下で直接民主制を完成させ、デロス同盟の資金を独占してペルテノン神殿など数々の公共建築事業に投入した。こうしてアテネは政治的にも文化的にもギリシャ最大の国家として最盛期を迎えた。

一方、ペルシア戦争後のギリシャでは奴隷制が発達し、アジア人をはじめとする多数の奴隷が市場で売買された。アテネでは、よほど貧しい市民以外は2〜3人の奴隷を持つのが普通となり、中流の農民なら5〜8人の奴隷を所有して家事や農作業に使用した。奴隷制が行き渡り、それが日常生活に不可欠になるという現実が基礎にして、外国人=奴隷という観念が生まれた。もともと非ギリシャ人を意味しただけのバルバロイという言葉が、野蛮人や夷狄といった差別的な意味を帯びるようになった。その野蛮人の代表と見なされたのがペルシア人で、彼らの国では王だけが自由であり、他の者はすべて奴隷だと考えられた。

アテネによる海上支配の発展は、陸の覇者スパルタに脅威を与えた。紀元前431年、アテネとスパルタはギリシャ世界の覇権を争ってペロポネソス戦争に突入した。アテネは、民衆に迎合する政治家たちの指導で無謀な作戦に手を出し、ありあまる国力を浪費した。両国は競ってペルシア王に使節を送り資金援助を求めたが、スパルタがペルシアから得た資金で艦隊を建設し、ついにアテネ海軍を破って降伏に追い込む。こうしてペロポネソス戦争は終結した。

ペルシア王の統制下で戦争を繰り返し、国力を消耗するギリシャ諸国。国外を放浪し王侯に雇われて生計を立てるギリシャ人傭兵たち。これが紀元前4世紀ギリシャの現実、ペルシア帝国の西の辺境と呼ぶしかない惨めな姿である。このギリシャを屈服させたのがマケドニア王国であった。

マケドニア王国

マケドニアでは、アルゲアダイという王家が代々支配し、貴族がそれを支えた。一般の自由人は農業や移動放牧に携わり、ギリシャと違って奴隷や隷属身分は存在しなかった。

軍隊の主力は騎兵だった。マケドニアの広大な平原は馬の飼育に適しており、貴族の子弟は幼いときから乗馬の訓練を受けた。古代には鐙が開発されていなかったので、騎乗の際には足で踏ん張ることができず、太ももで馬の脇腹をしっかりと締め付けねばならない。この体制で馬を自在に操り、しかも槍を持って戦う技術を持っていた。

マケドニアは、紀元前4世紀の前半に王位を巡る争いで王権が混乱し、さらに北方から侵入を繰り返され、マケドニア王国は風前の灯となった。ここに即位したのが弱冠23のフィリッポス二世である。急造の軍隊と巧みな交渉で危機を乗り越えると、翌年北からの驚異を取り除いた。その後は豊かな資源を最大限に活用し、強力な軍隊を育て、征服地を拡大して、わずか20年あまりでマケドニアをバルカン半島随一の強国に仕立て上げた。

フィリッポス二世は征服した地域に多くの都市を建設し、支配下の諸民族を強制移住させてそこに住まわせ、農地の開拓・開墾にあたらせた。バルカン半島随一の金鉱も手に入れ、大量の貨幣を打ち出して経済活動を活発にし、また金貨を諸外国の有力者にばらまいて支持者を増やした。結婚もまた大切な外交手段だった。一夫多妻の慣例に従ってフィリッポス二世は生涯に7人の妻をめとった。そのうち6人が周辺諸国の王家や貴族の娘であった。王の結婚は相手国との同盟締結であり、王国の安全保障政策に他ならなかった。

最も重要な課題は軍隊の整備と強化だった。フィリッポス二世は10代の頃にテーベで人質として過ごした経験を持っている。当時のテーベは、エパメイノンダスとペロピダスというギリシャ史上屈指の将軍の指導下で、ギリシャ世界の派遣を争っていた。フィリッポス二世は彼らの活動を観察し、ギリシャ諸都市の政治・軍事の実情を肌で知ることができた。その経験を元にフィリッポス二世は重装歩兵を改良し、5.5mの長槍をもたせてマケドニア独自の密集歩兵部隊を作り上げ、これを優秀な騎兵部隊と組み合わせた。フィリッポス二世は生産活動から離れた職業戦士を養成し、彼らを精鋭部隊といて組織した。王の命令一下、いつでもどこでもどんな長期間でも遠征できるマケドニア軍は、それまでのギリシャ人における戦争の常識、素人市民による限られた期間の出征というやり方を覆すものであった。こうしてバルカン最強、無敵の常備軍が登場した。

紀元前336年、フィリッポス二世は側近に暗殺され、息子のアレクサンドロスが王となる。この時のマケドニアは、バルカン半島とエーゲ海の大半をその版図に収めていた。この基盤があったからこそ、アレクサンドロスの大遠征が可能となった。

アレクサンドロス

アレクサンドロスが生まれたのは、紀元前356年7月20日頃である。父はフィリッポス二世、母はオリンピアスである。

アレクサンドロスは、ギリシャ文化を吸収しながら国力を伸ばし、大王の父フィリッポス二世の時代にギリシャ世界を征服し、バルカン半島最強の国家に成長した。アレクサンドロスは、この強力な国家を受け継いで東方世界に攻め込んだ。その遠征範囲は、ペルシア帝国の全領土を含んで、インド北西部にまで至った。

当時、国際共通語としてはアラム語が広く使われた。文化面でもペルシア人はエジプトやアッシリアなど先行する文化から多くを学び、ペルセポリスの宮殿浮き彫りが示すように、彼ら独自のやり方でそれらを融合させていた。さらに王の道や宿駅精度といった交通・通信網を整備して、効率的な統合システムを構築した。

ブケファラス

アレクサンドロスが子供の頃の最も有名な逸話は、ブケファラスとの出会いである。ある商人がブケファラスという荒馬を売りに来た。売値は13タラントン。当時のギリシャでは1タラントンあれば富裕者に数えられたし、平均的な値段は0.2タラントンだった。ブケファラスは気性が荒く、誰も近づくことさえできない。アレクサンドロスは馬が自分の影の動きを怖がって暴れるのを見て取り、頭を太陽に向けて落ち着かせ、それから騎乗して見事に調教してみせた。誰もが歓声を上げ、フィリッポス二世は涙を流して喜んだ。遠征中のアレクサンドロスは、全ての戦闘で常にブケファラスに乗って戦った。紀元前326年、インドで馬が老衰のため死ぬと、アレクサンドロスはブケファラスの死を悼み、都市を築いてブケファラスと名付けた。

アリストテレス

アレクサンドロスが13歳になった時、フィリッポス二世はアレクサンドロスに本格的な帝王教育を施すため、哲学者のアリストテレスを教師に招いた。

アリストテレスはアテネに遊学し、哲学者プラトンが開いた学園アカデメイアに入って学問に励んだ。プラトンが死ぬと小アジアへ赴く。マケドニアに招かれたときは39歳。

アリストテレスの学校はエミザという風光明媚な土地に設けられ、ここにアレクサンドロスと同年代の貴族の子弟たちも集められた。プトレマイオス、ヘファイスティオン、リュシコマスなど、いずれも東方遠征でアレクサンドロスの側近として活躍する者たちである。

アリストテレスは、3年間、若者たちにギリシャ文化の精華を教えた。政治学、論理学から文学、医学に至るまで、その範囲は広大だった。アレクサンドロスの天性は、アリストテレスの指導を受けて開花した。とりわけ好んだのは、ホメロスの叙事詩「イリアス」である。アレクサンドロスは「戦術の資料」と見なし、いつも探検と一緒に枕元に置くほどだった。

フィリッポス二世の暗殺

カイロネイアの戦いでギリシャ地方を支配したマケドニアは、ペルシア遠征の実行に取り掛かった。

夏の初め、フィリッポス二世の娘クレオパトラと隣国の王子アレクサンドロスの結婚式が催された。花嫁はアレクサンドロスの妹、花婿は母オリンピアスの弟だから、これは叔父と姪の結婚であった。

饗宴の翌日は、宮殿のすぐ下にある劇場で音楽の協議会が開かれる予定であった。監修はまだ夜の明けないうちから続々と劇場に詰めかけた。ついにフィリッポス二世が白い衣をまとって劇場に姿を現す。左右には2人のアレクサンドロス、すなわち息子と花婿が付き添い、護衛兵には自分から離れてついて来るよう命じてあった。それからフィリッポス二世が玉座に向かって歩き始め、2人の若者から離れて1人だけになった瞬間、側近護衛官のパウサニアスが駆け寄り、隠し持っていた短剣でフィリッポス二世の胸を刺し貫いた。フィリッポス二世は大の字になって地面に倒れた。パウサニアスは劇場を飛び出し、逃走用に用意してあった馬に向かって走り出す。護衛兵たちが追いかけ、パウサニアスを取り押さえて槍で殺した。満場の監修の目の前で白昼堂々と行われた暗殺撃であった。

パウサニアスにはフィリッポス二世を殺す個人的な理由があった。パウサニアスがゲイの恋人が不倫をして、それでフィリッポス二世に助けを求めたが無視されたのが理由で恨みを抱いたのであった。

東方遠征

アレクサンドロスの東方遠征は3つに分けられる。1つ目は、遠征懐紙からダレイオス三世を倒し、ペルシア帝国が滅亡するまで。2つ目は、中央アジア侵攻から、フュファシス(現ベアス)で遠征を中止し反転を決意するまで。3つ目は、インダス川を下り西へ進んでバビロンに帰還し、アレクサンドロス自身がこの世を去るまで。

遠征開始〜ペルシア帝国滅亡

まず、国家財政について、フィリッポス二世は鉱山の開発や戦利品によって王奥を潤したが、絶え間ない戦争や賄賂、側近への大盤振る前により資金を浪費した。そのため、アレクサンドロスの遠征出発時、国家財政は火の車だった。国庫には60タラントンしかなく、フィリッポス二世の借金は500タラントンもあった。そこでアレクサンドロスは、800タラントンを借金して遠征費用を捻出した。手持ちの資金は70タラントン、借金が200タラントンで、携行した食料は30日分しかなかった。財務状態が改善されたのは、イッソスの戦い後にペルシアの豪華な財宝を手に入れてからである。

紀元前334年、マケドニア軍とギリシャ同盟軍は、アンフィポリスに集結し、東方遠征に出発した。20日後に渡河点のセストスに到着。副将軍の長老パルメニオンが本隊を率いて海峡を渡り、アジア川に上陸した。

ペルシア側では、小アジア各地の総督や将軍たちがゼレイアに集まり、対応を協議した。ギリシャ人傭兵隊長メムノンは、焦土作戦によってマケドニア軍を食糧難に陥れ、撤退に追い込むことを提案したが、地元の総督アルシテスの強硬な反対により却下される。こうして、両軍はグラニコス川の戦いに入った。マケドニア軍が騎兵を先頭に川を渡って攻め込み、アレクサンドロスの周囲では騎兵同士の乱戦となる。アレクサンドロスは敵の刀でやられそうになるが、間一髪で側近に救われた。その間に中央部の歩兵が相手を圧迫し、ペルシア軍は敗走した。

それからアレクサンドロス一行はフリュギア地方の首都ゴルディオンに到着した。ここは交通の要衝で、ペルシアの「王の道」もここを通っていた。

紀元前333年春、パルメニオンの部隊がゴルディオンで合流した。出発前にアレクサンドロスはゴルディオンの城砦を訪れた。そこには古の王ミダスが奉納した荷車があり、轅の結び目を解いた者が王になる、との伝説があった。アレクサンドロスはこれに挑戦し、剣で紐を一刀両断して解決した。これが有名なゴルディオンの結び目である。

一方、エーゲ海ではメムノン率いるペルシア軍が活発に行動し、ギリシャの島々や諸都市を奪回していった。メムノン副隊長は、戦争全体をマケドニア・ギリシャ方面にそらせようと考えていた。もし、この作戦が成功していたら、遠征軍は本国から遮断され敵地で孤立してたと思われる。しかし、メムノンは作戦の途中で病死してしまい、作戦は失敗する。

アレクサンドロスは、キリチア地方を平定してからイッソス湾に向かった。その途中、アレクサンドロスは、ペルシア軍がアマノス山脈の東に宿営しているとの情報を得て、直ちにアマノス山脈南の峠に向かった。

しかし、アレクサンドロスの急病(急性肺炎)とマケドニアの進軍の遅れがダレイオス三世の判断を狂わせた。ダレイオス三世は待ちきれず軍を動かし、アマノス山脈の北側からイッソスに向かう。両軍合わせて10万近い軍勢が空前のすれ違いを起こした。敵が背後に現れたことをしると、アレクサンドロスは直ぐに北上した。

アレクサンドロスは、近衛兵を率いてペルシア軍の軽装歩兵を突破、中央のダレイオス三世めがけて突進した。これを見てダレイオス三世はいち早く逃走し、ペルシア軍は総崩れとなった。アレクサンドロスは、ダレイオス三世を追撃したが、追いつくことはできなかった。

ダレイオス三世が残した豪華な天幕と見事な調度品は全て鹵獲され、同行していたダレイオス三世の母・妻・三人の子どもたちも捕虜となった。アレクサンドロスは、彼女らを王族にふさわしく丁重に扱った。

紀元前332年初冬、アレクサンドロスはエジプトに到着した。総督は抵抗を阻止し、エジプト人はアレクサンドロスを解放者として歓迎した。ナイル川に沿って、太陽神ラーを祀る宗教都市ヘリオポリスに至り、ついで古王国時代の首都メンフィスに入る。ここで彼は、聖なる牝牛のアビス神に犠牲を捧げ、事実上のエジプト王=ファラオになった。

その後、カノボスに行き、都市を建設した。これがアレクサンドリア、後にヘレニズム世界最大と謳われた都市である。そこへマケドニア艦隊司令官のヘゲロコスが到着し、エーゲ海の島々を全てペルシア側から奪回したと報告した。こうして、エーゲ海・東地中海の制海権をマケドニアは手にした。

同性愛の絆

アレクサンドロス自身の意図とは別に、遠征軍の秩序を保つ上で大きな役割を担っていたのは、同性愛関係による将兵同士の個人的な絆であった。古代マケドニアの社会は、ギリシャと同じく、男性同士の同性愛によって成り立っていた。それは兵士たちに、明日をもしれぬ戦闘の連続や、厳しい陣中生活を乗り切るための精神的な糧を与えた。戦時・平時を問わず、彼らの間に友愛を育み、競争意識を育て、恐怖心を克服し、お互いの名誉と勇気を高めた。年長者が若者を導いて一人前の戦士に育てる、という教育の機能も果たしていた。

不敗を誇ったテーベの神聖部隊300人は、恋人同士を組み合わせて編成され、そのことが2人して死地に赴くだけの高揚感をもたらした。アレクサンドロス自身もヘファイスティオンと愛人関係にあったと言われている。

インド王ポロスとの戦い

紀元前327年、アレクサンドロスはインドに向かった。アレクサンドロスは本隊を率いて、冬の間にカブール渓谷北側の山岳地帯を経て、スワート地方に入る。ここでも抵抗する町は徹底的に破壊し、住民たちを容赦なく殺害した。

ヒュダスペス(現ジェルム)河畔では、インド王ポロスの恐るべき大軍が待ち構えていた。ポロスは、歩兵5万、騎兵3,000、戦象130頭を率いていた。アレクサンドロスは敵軍の正面に別働隊を配置し、本体は28キロ上流を渡河させた。そこに駆けつけたポロスを打ち破ると、渡河した別働隊がこれを追撃して勝利を決定づけた。

アレクサンドロスはポロスの武勇と2mに達する彼の堂々たる体躯に感嘆し、領地を安堵した上、新しい土地を付け加えてやった。また勝利を記念して河の両岸に2つの町を建設し、東岸の町には勝利を意味するニカイア、西岸の町には死んだばかりのブケファラスにちなんでブーケファラと名付けた。

志の高い人間にとっては、いかなる艱難辛苦といえども、それが輝かしい大業の達成に導くかぎり、艱難辛苦それ自体に限界はないと私は考える

これはアレクサンドロスの演説での言葉である。アレクサンドロスは、常に未知なるものを更に遠くに求めた。たとえ他に相手がいなくても、アレクサンドロスは自分自身を相手に競った。それゆえアレクサンドロスは、いつまでもどこまでも敵を求め、敵を倒し、勝利を収めて絶えず不敗であり続けねばならなかった。それだけがアレクサンドロスの卓越性、並の人間を超えた英雄たることを証明している。こうして名誉欲こそがアレクサンドロスを内面から突き動かし、世界の果てを求める原動力になった。

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