人に尊敬されたり、人の上に立ったり、人を率いたり、人を操ったり、、、これらは誰もが夢見ますが中々難しい。しかし、たった1つだけ夢を叶える方法がある。それが、教祖である。新興宗教の教祖になれば、夢は全て叶う。
完全教祖マニュアル (ちくま新書)は、「でも、教祖って難しいんでしょ?」とか「霊感を受けたり、悟りを開かないと無理なんじゃないの?」と誤解している人に向けて、「教祖って難しいものじゃないし、特別な才能や資格もいらないよ」と教えてくれる良書である。
完全教祖マニュアル (ちくま新書)を読むだけで他人より遥かに有利なスタートを切れる。自覚してください。完全教祖マニュアル (ちくま新書)を読むだけで、サクセスライフが始まるのです。
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教祖になろう
教祖の成立条件は2要素しかない。「なにか言う人」と「それを信じる人」。この2つだけ。「なにか言う人」が教祖になり、「それを信じる人」が信者となる。
たとえば、奥さんの膝で震えている男がいるとする。彼は姉さん女房に泣きつき、自分を襲った怪奇現象を必死に訴えている。「本当なんだ。超自然的存在がオレの首を絞めたんだ」。彼女は夫を慰めて言います。「あなたの言うことを信じるわ」。そうです。この瞬間、夫は「教祖」になったのです。ちなみに、この男の名前をムハンマドといいます。イスラム教の教祖ですね。
また、教祖は人をハッピーにするのがお仕事です。教祖というと、どうしてもうさんくさいイメージが付きまとう。人を洗脳し、お金を巻き上げ、思うようにこき使う。宗教なんかにハマってしまうと不幸になる。
しかし、事実はその逆です。教祖は人をハッピーにする素敵なお仕事なのです。イエスは何をしようとしましたか?戒律により硬直化した社会を打破し、人々をハッピーにしようとしたのです。釈迦は何をしようとしましたか?輪廻転生によるカースト制度を打ち破り、人々をハッピーにしようとしました。あなたの使命もはやり「人をハッピーにする」ことである。
教祖はただお金を稼げるだけではなく、信じる人をハッピーにし、そして、彼らからの尊敬も得られる素晴らしい職業なのです。お金さえあれば人生幸せなわけではありません。人々に必要とされ尊敬され影響を及ぼしてこそ、あなたの人生は充実するはずです。教祖こそが、あなたの人生を最も幸福なものにしてくれる、最高のライフスタイルです。
本当に信者はできるの?
日本人は「なんとなく無信仰」である。この「なんとなく無信仰」という感覚は、元をたどると、明治政府の政策に当たる。「外国からプレッシャーかかってるから信仰の自由は容認しないとなぁ」「でも、できれば天皇だけ崇拝してほしいなぁ」という板挟みの中で試行錯誤していくうちに、「信仰の自由は認めるけど、特定宗教を信仰せずに天皇だけ崇拝しているのが普通だよね?」という感覚ができあがり、それが第二次大戦後に「天皇崇拝」の部分が抜け落ちて、今までなんとなく続いているだけです。
この日本人の宗教アレルギーは、逆に考えると、付け入るスキでもある。宗教を頭ごなしに嫌うあまり、宗教に対して無知なのです。また、戦前の国家神道の反動で、戦後は宗教について教育で触れることがタブー視される傾向にあります。実際、学校でも高校まで宗教のことなんてほとんど教えてくれない。しかし、知識がないということは、耐性がないということである。無菌室育ちで免疫がないので、これは狙い目になる。
教義を作ろう
教祖を目指す人が最初にすることは、教義の作成です。
文章に自信のない人は、最初は頭の中で作っておいて、その都度、口頭で弟子に指示するだけでも全然OKです。放っておいても後で弟子たちが巧みに成文化してくれます。仏教もキリスト教も、そうやってできたので大丈夫です。
なお、ある程度教祖として大成した後は、ふらふらしたり、適当なことを言ったりするだけでも、それが教義となるので大丈夫です。あなたの行為に隠された深い真意は弟子たちが一生懸命考えてくれます。そうなれば自然体で行きていくだけで良いので楽ちんです。釈迦もお腹が痛くて寝てるだけで、その姿が大仏になったくらいです。
また、言っていることが前後で少し食い違っていても気にしないでください。弟子たちが適当にアレンジして辻褄を合わせてくれます。
なので、少しくらいのミスは気にせず、勇気を出して初めの一歩を踏み出しましょう。
話は変わるが、例えば、電車に乗っている時に、目の前に婆さんが立っているとする。普通の人は「席を譲ってあげた方がいいな」と思うことでしょう。しかし、実際にそれを成し遂げる時には若干の心理的葛藤が発生します。「断られたら気まずいな」とか、「老いぼれ扱いするなと怒られないかな」とか考えてしまいます。人によってはそのまま勇気が出ず、席を譲れないことだってあるでしょう。
しかし、本来そんなことは一切考えなくて良いのです。断られたら「ああ、そうですか」と座り直せばいいし、怒られたら「それはすんません」と座り直せばいいだけです。それだけのことです。大したリスクではありません。しかし、僕らは何だかんだと理由を考えてしまい、心の中に浮かんだ善行にブレーキをかけてしまうのです。
というのは、人間は良いことをする時も悪いことをする時にも、とにかく「理由」が必要だからです。「理由」のない行為はなんだか気持ち悪くって、善行でもやりたくないのです。無償のボランティアに抱くある種の気持ち悪さもこれによるものです。ですが、これが宗教なら、「教義」によってその「理由」を用意することができ、人々に素直な善行をさせることができるのです。
もしクリスチャンなら、目の前に婆さんが立っていると、「神の王国を実現する!」というはっきりとした「理由」があります。婆さんに断られるリスクなどものともせず、当たり前のように席を譲ることができるのです。
神を作ろう
宗教において神の存在を見定めるのは非常に重要な問題です。宗教を作ろうとした多くの人がこの問題に悩み、莫大な時間を割いてきました。しかし、本当は真剣に悩まくても大丈夫です。なぜなら、神がいるかいないかなど、どうでも良いからです。
宗教で大切なのは、正しいかどうかではなく、人をハッピーにできるかどうかです。神もこれと同じで、「いる」仮定した場合に、そこからどんな素晴らしいことを得られるか。問題はそこです。神にどんな「機能」を期待するのか、そこから考えればOKです。
神がいると何が良いのでしょう?1つ例を言うなら、「うまくいかなった時に神のせいにできる」というのがあります。努力したってダメな時はダメです。現実主義者のマキャベリだって「必要なのは力と運だ」と言っています。
理不尽にぶつかった時に、神が登場します。全知全能の神を信じていれば、「まぁ、これも神の思し召しだろう」と神のせいにできるのです。神は別に努力した人全ての夢を叶える必要なんてありません。良い結果などでなくても一向に構わないのです。ただ、信者が「神は絶対に間違えない。必ず正しいことをする」と本気で信じてさえいれば、どんあ結果が出たとしても「これが神の意志なら間違いない」と肯定的に受け入れられるのです。神の役割はここにあります。神は困っている時に助けてくれるキャラではなく、困っていること自体を肯定する存在です。
神が人にどんなハッピーを与えられるか、そこを具体的に考えていけば、あなたの作る神の姿も自然と見えてきます。つまり、現実社会の問題点に即して、いま必要とされる神を作れ、ということです。もし、ニートやフリータをハッピーにしたいのであれば、彼らを温かく見守り、その存在を肯定する神を作れば良いのです。
既存の宗教を焼き直そう
「機能的な神を作るって難しいなぁ」と感じる人は、既存の宗教を焼き直して利用するのが良い。
歴史のある宗教というのは言い換えれば古い宗教です。そして、古い宗教は、それが作られた当時の古い時代の文化や問題点に依拠しているので、どうしても今の時代に合わない様々な問題が発生します。
歴史が長いとそれだけ思考も硬直化しますし、「形式だけ守っていればいいや」という雰囲気が出てきます。イエスが活躍した頃のユダヤ社会はまさにそのような状態で、社会が宗教的ルールでがんじがらめになっていました。それをぶち壊し、気分一新して神を信仰しようとしたのがイエスです。キリスト教は当時の社会が直面していた問題に対処しようとしたナウい新興宗教だったわけです。伝統宗教のこういった問題に対処していけば、自然と元いた教団からつま弾きにされるので、あなたは共感を得た仲間と共に新しく一派を興すことができます。
なお、日蓮宗も、当時の総合大学であった天台宗で学んでいた日蓮が、「とにかく法華経が一番大事!」と言って分かれたのが始まりです。
反社会的な教えを作ろう
「うるせぇ、お前らがどう言おうとオレはこれが正しいと思うんだ!」というのが新興宗教です。宗教の役割は社会に迎合することではなく、むしろ、社会通念に逆らってでも、正しいと信じることを主張することです。
そもそも教祖となってヒチ墓地をハッピーにするのがお仕事です。現在不幸な人というのは、社会の提示する価値基準に照らして不幸なのです。つまり、貧乏だとか、恋人がいないとか、出世できないとか、そういうことで不幸になっているので、社会とは別の価値基準を提供すれば良いのです。社会的弱者である人々を、別の価値基準、つまり、あなたの提供する価値基準でハッピーにすることができるのです。
あなたがすべきことは、1)社会の基準で幸せになれない人を見つける、2)反社会的な基準を与えてその人を幸せにする、ことです。一例を上げると、ニートを幸せにする価値基準などを考えれば良いです。
実際、仏教はろくでも宗教です。仏教では出家して社会との関係を断絶して閉じこもります。まったく生産性がありません。その上、家族すら捨てるのでニート以下です。江戸時代の儒学者、藤原惺窩も「禅僧なんて穀潰しだ」と言っています。仏教なんて冷静に客観的に見ればそんなもんです。
まとめると、社会の提示する価値基準では「負け組」が存在します。ここですべきことは、社会に反する新しい価値基準を提唱し、「負け組」の人を「勝ち組」に変えてハッピーにすることです。つまり、あなたが石を投げたいと思う人たちこそ、救うべき人たちなのです。
なお、もし教祖として大成し、新しい価値基準で社会を塗り替えた場合、今度はそれが社会的になるので、新しい価値基準で不幸になる人が出てきます。すると、そういう人を救うために別の新興宗教が生まれ、いつかは塗り替えられてしまいます。その時に、後継者たちは、きっと新興宗教に抗って魔女狩りとか異端審問とかしますが、まぁ教祖には関係ないのでどうでもいいことです。
念のために、、、宗教行為が異常な目で見られたとしてもそれは悪いことではありません。信者がハッピーならそれで良いのです。オウム真理教も犯罪行為があったから問題になっただけで、麻原彰晃の風呂の残り湯を信者に販売すること自体は問題ではなかったのです。アイドルの残り湯なら金を払ってでも飲みたい、という変態がいるのと同じです。
高度な哲学を備えよう
ただ反社会的であるだけでなく、それに理論的な裏付けがあれば心強いです。次に用意すべきは高度な哲学です。論理的に構築された高度な哲学があれば、インテリを釣ることだってできます。
では、どうすれば高度な哲学を作ることができるのでしょうか?
本書では「インテリに作らせる」ことをおすすめしている。「インテリを釣るために哲学を作るのに、インテリに作らせるの?」と思うかもしれませんが、だって作れないからしょうがないじゃないか。
まずすべきことは、社会の「問題点」を発見することです。そして次に「前提」を用意します。仏教の輪廻転生にあたるものです。ここまでできたら、後は「前提」を主張しながら、「問題点」を追求すれば良いです。要は、世迷い言を口にしながら社会を口汚く罵っていれば良いのです。
すると、インテリが勝手に「前提」と「問題点」の間を論理的に補完します。インテリは、なんせインテリなので、論理的思考は得意です。しかし、論理的思考が得意がゆえに、逆に「前提」を突然作り上げるといった非論理的蛮行には踏み切れないのです。
そんな中、「前提」と「問題点」だけを見てピンと来て、「そうか、こいつの言っていることはこういうことか!こいつスゲーな!」と、勝手に「前提」と「問題点」を論理的思考によってつなげます。
インテリからすれば、「前提」さえ受け入れるなら、これまで答えの出なかった社会問題や人生の問題に論理的な答えが出せてしまうのです。そうなると「前提」を受け入れてしまいたくなる。そして、この「前提」を受け入れることは、すなわち「信仰」です。キリスト教神学だって、「はじめに言葉があった」というのを見たインテリが、「言葉……ギリシャ語で言えばロゴス……。はっ!つまり、ギリシャ哲学で考えるということか!深いな、キリスト教!」という具合で聖書解釈学が勝手に発展していったのです。
なお、教祖はインテリじゃないので、インテリたちの議論は大人しく見守ってください。よく分かっていないのに下手に口を挟むとインテリが拗ねてしまいます。身の程をわきまえましょう。そんなことより、あなたがすべきことは、むしろ突発的奇行です。
不安をあおろう
人が宗教を意識するのは「困った時の神頼み」です。困っていないと宗教なんか見向きもしません。
困ってなければ困らせればよいのです。「そうか、今まで全然気づかなかったけど、オレって実は困っていのか」と不安にさせればいいのです。
キリスト教も仏教も、「お前は自覚ないかも知れんが、実は行きているだけで困ってるんだぜ」と言っています。むちゃくちゃな言いがかりに聞こえますが、何不自由なく人生思い通りに楽しいことばかりで生きている人間なんていないので大丈夫です。
なお、ここで大事なのは、相手は今まで「困っていると認識していなかった」ことです。「困っている」と思っていない相手に対して、「実はお前はこういう理由で、本当は既に困っているんだ」と言うので、ここにどういう理由を持ってくるかでオリジナリティが問われます。ちなみに、釈迦は老人や病人が死ぬのを見て、「何不自由ない王子様だと思ってたけど、死は免れないじゃん。実はすごい困っている」と気づいたのが始まりです。
現代でこの手法で成功しているのが「エコ」です。このまま手をこまねいていると近い将来地球環境が悪化して住めなくなってしまいますよ。私達は既に困った状態にあるんですよ。だから、私達は危機感を持ってエコに取り組まなければならないのですよ、とエコは言っています。
本当に困るかどうかは置いておいて、エコが叫ばれるまでは私達には「困っている」という意識はありませんでした。そこにエコというアイデアが現れ、「そうか、気づかなかったけど俺たち困っているのか」となり、クーラーの設定温度を上げ、米の研ぎ汁を庭の植木にかけ、ブランド物のエコバックを買い漁っているのです。つまり、キリスト教が「そのまま生活していると死んだら地獄に落ちますよ」と言っているように、エコは「そのあまま生活してると将来地球に住めなくなりますよ」と言っているのです。エコは教祖を目指す人にとっては大変参考にある事例です。
金持ちを狙おう
ワープアやニートは狙い目であるものの、そればかりが増えても教団は潤いません。教祖は金ばかりが目的ではないが、物質的に教祖生活をエンジョイするためにも、教団運営資金を潤沢に得るためにも、金持ちの信者は必要です。釈迦も裕福な商人を信者に加え、経済力をゲットしていたくらいです。
社会的地位や経済力がいくらあっても不死身になれるわけではないので、精神的な悩みは死ぬまで消えません。となれば、そこで宗教の出番が来ます。
そして、金持ちや権力者というのは綺麗事ばかりでなれるものではありません。そんな彼らが死を自覚した時にかつての自分の行為を思い返して恐ろしくなったとしても何ら不思議ではありません。となれば、彼らにはカネを払うくらいしかないので、教祖はありがたくそれを受け取れば良いのです。
これは別に死にかけの金持ちを騙そうとか、アコギな話ではなく、彼らに「心の平安」を与えているのです。彼らは寄付をすればするほど安心感を得られるので、教祖も彼らのためにお金を受け取ってあげるべきなのです。神社で賽銭箱に小銭を投げるのも「おい、神様。5円やるから願いを叶えてくれ」という話ではない。あれはお金を捨てることで自身の汚れを祓うことこそが本来の目的なのです。
つまるところ、宗教的寄付というものの本質は、「自分のために行うもの」なのです。だから、教祖はむしろ奉仕の気持ちでお金を受け取るべきなのです。
多額の寄付を強要するような宗教の話を聞くと「あくどい宗教に違いない」と思ってしまいます。しかし、良し悪しは別として、宗教団体が多額のお金を寄付させることには、一応それなりの道理は通っています。
経済力の低い者たちは「負け組」と呼ばれ、社会的に低い立場とされています。しかし、お金を持つことはハッピーになるための1つの手段でしかなく、それが目的になるはずがないのです。極論すると、お金が全くなく路上生活している人でも、本人がハッピーならば間違いなく彼はハッピーなのです。ハッピーかどうかなんて本人だけの問題です。
しかし、現代日本ではお金のない人が「おれはそれでもハッピー」と自覚することは難しい状況です。そういった中で低所得者がハッピーになるにはどうすれば良いか?「お金がなければアンハッピー」という価値観を捨てれば良いのです。じゃあ、どうやってそれを捨てるか?お金を捨てれば良いのです。「自分からお金を手放しますよ」「なぜなら僕にはお金は大した意味を持たないからです」「だから僕はお金がないけどハッピーです」。こんな感じです。
実際のところ、低所得者が「生活が苦しい」のは、「豊かな物質生活を送るだけの余裕がない」くらいです。豊かな物質生活に価値を見出しているからこそ、それを満足に送れないことを不幸と捉えているのです。ハッピーになるためには、苦しい時こそ教団にお金を渡して、「豊かな生活なんてどうでもいいぜ」「そんなことより教団の教えに従うのがハッピーだぜ」という価値観へと変えることが手段になるのです。
甘い汁を吸おう
努力が実り教団が安定してきたら甘い汁を吸いましょう。そもそも、甘い汁を吸って人生をハッピーにするために教祖を目指しているはずです。
しかしかといって、度を外れて放縦な生活をすると、威厳はなくなり、信者たちから愛想を尽かされるので、教団の勢力を強固なものにしつつ、信者をハッピーにし、更に自分自身も愉しませる、そんな甘い汁の吸い方をしなければなりません。
出版しよう
教団の教義や歴史、教祖自身の自叙伝などを書籍化して販売します。出版は基本的にはリスキーなビジネスで、ちゃんと本が売れるかどうかはギャンブルになるのですが、教団出版物だけは例外です。信者の数だけ売れます。教祖だけは出版を安定したビジネスへ変えることができます。
また、本というのは基本的には1人1冊ですが、宗教では布教手段になるため、1冊は自分用、2冊目以降を信仰を持たない友達に渡したりなどの使いみちがあります。「1人1冊」という出版の限界を突破するのが宗教なのです。
なお、書籍になっていれば少なくともその1冊の中では首尾一貫しているので、信者も信じるべきことがはっきりしています。これで信者も安心です。
逆に言うと、教祖の教えや教団方針もその書籍に縛られることになります。しかし、現在の情報化社会では、どうせ放っておいてもネット上のどこかに文章化されるので、下手なことを書かれるよりは自分で書籍化する方が良いです。特に、教祖の死後、教団が滅びてしまった場合などは書籍だけが歴史を記す頼りとなります。
不要品を売りつけよう
例えば「数珠」です。数珠は本来、数を数えるためのものです。僕らはよく分からないまま手の中で転がしていますが、本来はお祈りしたり念仏を唱えたりする際に、その回数をチェックしておくためのアイテムです。ただここで大切なのは、僕らは「よく分かんないまま」数珠を持っていることです。何に使うか分からなくても、それを葬式に携行することがスタイルとして確率しているから所持しているのです。本来の用途に用いない以上、数珠の有無なんか本当はどうでもいいはずです。しかし、数珠には確かに「本来不要なはずの」物に対する需要が生まれているのです。数珠からも、甘い汁の吸い方を学ぶことができるでしょう。
喜捨を受け付けよう
信者の名誉欲を刺激します。彼らがたくさん寄付すればするほど教団の中で一目置かれるようなシステムを作り上げます。寄付できることを信者の特権とします。たとえば、「ある程度の財力と、しっかりした信仰がなければ寄付はできませんよ」と条件を付けると良いです。「でも、条件をつけたら寄付してくれなくなるんじゃない?」と心配するかもしれませんが、そもそも貧乏人から少額の寄付金を受け取ったところで仕方ないので、条件をつけて寄付を中流階級以上の信者に限定するのが良いです。
すると、信者は頑張って条件をクリアし、「寄付できる権利」を手に入れます。得た権利は「素晴らしいものである」と思い込みます。素晴らしい「寄付できる権利」を嬉々として行使するし、寄付の素晴らしさを仲間に宣伝します。こうして彼らの立場は教団内で一種のステータスとなり、皆の尊敬を集めることができるのです。名誉欲に満たされた彼らはさぞハッピーなことでしょう。
しかし一方で、逆に寄付した人を匿名して名誉を与えない方法もあります。これは「私は人から尊敬されたくて寄付しているのではないのだ」という自尊心を信者に与えます。
こうして集めたお金は、一部どこかの団体に寄付してあげます。寄付には多くのメリットがありますが、これの最大のポイントは、教祖の懐が一切痛まないことです。だって、元々、信者たちのお金なので。。教祖は何も失うことなく、他人の金で名誉と尊敬を得ることができます。「君主論」のマキャベリも「自分の金はケチっても、人から奪った金はケチらず振る舞え」と言っています。それが上に立つ者の度量というものです。
ハードコア無宗教
「不思議なこと」に対抗するにはどうすれば良いのか?正解は「どうもしなくていい」です。
そもそも、「世界のあらゆる現象は全て説明できるはず」などと考える方がおこがましいです。「全部分かるはず」と思うから、分からないことに出会うと怖くなるのであって、「たまには分からんこともある」と思えば、それだけのことです。「全部わかるはず」と思ってしまうのは、科学に対する信仰です。
だから、極論するなら、午前2時に突然人形が踊りだしたって、驚く必要はありません。「この人形、金属バットで殴りかかって来ないかなぁ」と物理的な心配をする必要はありますが、人形が踊っていること自体は、単に「よく分からない」ことでしかなく、別に怖ろしいことではないからです。
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教祖の仕事は人をハッピーにすることです。世界には色々な人がいて、色々な時代や色々な文化がありました。教祖はそんな色々な状況に対して、ケース・バイ・ケースで対応し、人々にハッピーを与えていました。
しかし実際のところ、様々な宗教解説書が発売されたが、「どうすれば教祖になれるか?」という肝心の疑問に答えた書籍は無かった。本書は様々な宗教の成功例を論理的に分析し、成功に役立つ部分だけを抽出した大変科学的なマニュアルとなっている。凡人凡俗である人でも、本書を熟読し、忠実に従うだけで間違いなく教祖になれる。