読書ノート

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。 (幻冬舎単行本)は“戦国時代の「戦」をわかりやすく説明した本である。現代語訳で噛み砕かれており、年号をすっ飛ばしながら、歴史用語にちょっぴり説明を入れ、戦国のストーリーを知ってもらうための入門書である。ピックアップされている戦も、有名なものばかりで、歴史を学ぶ10代の方や大人の方にとっては、“戦国時代の流れ”を把握するのにうってつけの一冊となっている。

歴史を嫌いな要素はたくさんありますが、要は“自分には関係のない話”と思ってると思う。歴史の話なんて自分には関係ない。信長のことを知らなくてもご飯は美味しいし、太閤検地がなんのことが分からなくても明日はやってくる。歴史や戦国時代のことを知らなくても、今を生きる分には困らない。

しかし、歴史を知らなかったがために、損をすることになったら?生きた時代が違っても置かれた状況に共通点があったら?偉人の行動が現代でも活かせるものだったら?問題の種類に違いはあれど、“終わりの見えない戦乱の世”も、まさに先の見えない時代であった。そんな時代を生き抜いた武将たちのエピソードが、参考にならないわけがない。歴史は、失敗も成功もバズりも炎上も書いてある、生きた教科書である。

戦国時代のプロローグ

時を遡ること400〜500年、槍や刀、甲冑を装備した武将たちが日本各地で戦っていた時代があります。これが“戦国”です。

大昔、日本の政治は“朝廷”が行っていた。これは天皇を頂点とした、公家(貴族)たちのいる、言わば“政府”です。しかし、今から1,000年くらい前に“武士”と呼ばれる人たちが登場したことにより、このシステムが少し変わる。武士たちはどんどん力をつけ、朝廷に代わって政治を行うようになる(平清盛とか)。そして、源頼朝が“幕府”という“武士の政府”を鎌倉に開き(これがいい国作ろう鎌倉幕府)、源頼朝自身が、“征夷大将軍”という地位につき、日本の中央がガラリと変化する。

建前上は、天皇に仕える武士が日本の政治を任されている、という状態で朝廷の権威は残されているが、実質的には武士が日本を動かしている。

その後、源頼朝が作った鎌倉幕府は滅びるが、次に登場したのが“室町幕府”である。室町幕府も足利尊氏が征夷大将軍になった武士の政府である。

室町幕府は、初代将軍・足利尊氏の頃からいろんな問題を抱えていて、朝廷も北と南に分かれちゃう(南北朝時代)。それでも3代将軍・足利義満のときには幕府も安定したが、6代将軍・足利義教が“守護大名”の赤松に暗殺される事件が勃発する。その後、「あれ?室町幕府ヤバいんじゃない?」という雰囲気が漂い始め、8代将軍・足利義政の時代に大事件が起こる。それが“戦国時代の幕開けイベント”として有名な、“応仁の乱”である。

戦国大名って?

明応の政変

「応仁の乱じゃなくて、実はこっちが“戦国時代の幕開けイベント”じゃね?」と最近言われているのが“明応の政変”である。応仁の乱は、“山名宗全って人と細川勝元って人が権力争いをして、すごくデカイもめごとになった”というもので、明応の政変は、“室町幕府ナンバー2の細川政元が、10代将軍を追放したクーデター”である。

この大きな事件が立て続けに起こって、武士のトップであるはずの将軍の力がしぼんでいく。すると、室町幕府は力を失う。そうなると各地に住んでいる武士たちが、「もう幕府は頼りにならない。自分の領地は自分で経営する」と、それぞれが独自の道を歩み始める。さらには、下の地位の人が上の人を倒す(下剋上)という“身分秩序の崩壊”も起こり、ついには“戦国大名”という新たな支配者が生まれ、争いの中、戦国時代がスタートする。

守護

鎌倉幕府や室町幕府が、国単位(=地域ごと)で置いた職業に“守護”がある。この守護は、当初は軍事的なお仕事や警察的な仕事をしていたいので、今で言う“○○県警のトップ”みたいなものであった。

ところが、室町時代に入ってしばらくすると、守護の仕事の範囲が大幅に広がる。幕府から「現地の裁判とか、法律関係の仕事もやっちゃってよ」とか「税の徴収もさ、そっちでやってよ」とか言われて、次々にいろんな権限を与えられ、さらには地元の武士を家臣にしていって、何だかんだと守護がカスタマイズされていく。守護は、司法権、経済力、軍事力を手に入れ、国の中を支配するようにまでにある。

こうなってくると、「室町時代の守護ってさ、昔よりアップデートされまくって、“守護バージョン4”くらいになっているよね?これ、名前は一緒だけど、鎌倉時代の守護とは別物じゃない?」ということになり、室町時代の守護のことを“守護大名”と呼ぶことになった。ちなみに、“守護大名”は後世の人が作った歴史用語なので、当時の人はそんな呼び名で呼んでいない。

その後も、守護大名はパワーアップしていって、室町時代の中盤には、「室町幕府って守護大名の力で運営されているよね?」というところまで力が膨れ上がる。この時の守護大名は、“自分の国にいない”というのが通常運営になる。有力な守護大名は、幕府の政治にも携わっていたので、ほぼ京都や鎌倉に住むようになった。さらには国をいくつも持っている守護大名も現れた。

そうなると、国を支配する人が自分の国にいないので、守護大名が「あ、やば。うちの経営を誰かに頼まなきゃ」となり、自分の代わりに国のことをやってくれる“代理人”を立てることになる。この守護大名の代理で国の経営をやった家臣のことを“守護代”と言うことになる。他にも“国衆”に任せたりもした。くの国衆は、元からその土地に根ざした“地元の武士”のこと。国の中の一部の地域、今で言えば町や市をたばねる“町長”や“市長”みたいな武士のことを“国衆”と呼んだ。

まとめると、守護大名は、幕府から国を任された人(都道府県知事)。守護代は、守護大名の代理人(都道府県知事の部下)。国衆は、地元の武士(市区町村長)となる。

戦国大名

上記で説明したものは、戦国時代のせいで全部ぶっ壊れる。“戦国大名”が現れる。戦国大名とは、“独自の力で国を治めた王様”である。守護大名には幕府の権力の後ろ盾があったが、戦国大名は、幕府によるバックアップのあるなしに関わらず、自らの力でオリジナル国家を築き、そこに本拠地を構え、たくさんの国衆を従え、己の手腕で家臣や領民を統治した存在である。

また、戦国大名には、元・守護大名、元・守護代、元・国衆の全てのパターンが存在する。

例えば、守護大名から戦国大名になった有名な人は、武田信玄、今川義元、島津義久がいる。守護代や守護代の家臣から戦国大名になった有名人は、織田信長、上杉謙信、朝倉孝景などがいる。国衆→戦国大名になった有名人には、徳川家康、毛利元就、真田昌幸などがいる。幕府官僚から戦国大名になったのは、北条早雲。武士以外から戦国大名になった人もいて、豊臣秀吉や斎藤道三が有名である。

桶狭間の戦い

1560年。駆け出しの織田信長が、めちゃくちゃ強い今川義元を、桶狭間(愛知県)で倒す、というサプライズが起こし、鮮烈な全国デビューをする。

桶狭間の戦いが起こる前の信長は、実はあまり強くない、というかまだ安定した力を持っていなかった。織田信長の出身は、尾張国(愛知県西部)であり、信長の実家・織田家は“守護大名”の家臣の“守護代”の家臣であった。

信長の父・織田信秀は勢力を伸ばし、上司たちを凌ぐほどの力を手に入れ、「終わりで一番強い」と言われるくらいまでになる。織田信秀が亡くなり、家督を継いだのが織田信長。19歳だったと言われている。

信長はバカと言われていたが、父よりも実量を持っていて、弟も周りの敵も倒し、織田家の家臣団もまとめ上げ、尾張国をほぼほぼ平定した。

織田信長が「尾張国の戦国大名だぁ」と言えるようになったところに、全国トップレベルの戦国大名である今川義元が攻めてくる。尾張国を統一するかしないかという足元おぼつかない状態の信長に対し、今川義元は、駿河国(静岡県中部・東部)と遠江国(静岡県西部)、三河国(愛知県東部)も支配していた。“海道一の弓取り”(東海道で一番の大名)という異名を持つ今川義元自身が大軍を引き連れて尾張国に攻め込んでくる、ということなのでヤバいなんてもんじゃない。

実は、織田信秀が亡くなった後、織田の家臣が信長を裏切って、お城ごと今川義元の方についた。それを取り戻したい信長が奪われた城を監視したり封鎖したりし始めた。すると、今川義元が「信長のせいで大高城と鳴海城に兵糧が届かない?信長を潰してやる」となり、今川義元が本腰を入れて2〜2.5万の大軍で乗り込んでくることになった。

今川軍の攻撃が開始されると、信長は急に踊りだし、それが終わると、立ったまま飯を食べ、なんの指示も出さず城を飛び出した。信長のもとに兵が集まっている間に、攻撃を受けていた丸根砦や鷲津砦は落とされてしまう。ちなみに、丸根砦を攻め落としたのは、松平元康。この時は今川義元の家臣であった、のちの徳川家康である。

そして、今川義元はどんどん尾張の内部に侵入し、桶狭間で陣取る。そこで謎だが、織田信長の家臣が300くらいの兵を引き連れ、今川の舞台に攻撃をしかけ負ける。信長がそれをみて「よし、もうオレがいくわ」となり、出陣する。

しかし、今川の部隊とぶつかる直前に幸運すぎる天候急変が起こる。近くにあった巨木を倒すほどの強い雨が突然降り始める。雨が止んだのを確認した信長は、真正面から今川軍に突っ込んでいく。今川義元が「あ、晴れた。いやーとんでもない雨だっ……え、敵?」となり対応ができなかった。今川軍は2.5万の部隊だったが、今川義元の本陣は3,000〜5,000の兵しかいなかった。織田信長自ら先頭に立ち勢いがあり、その勢いに押された今川軍は次第に後退した。信長家臣・服部一忠が今川義元に槍の一撃を加え、次に迫った毛利良勝に斬りつけられ、今川義元は首を取られた。総大将がやられた今川軍はその場から逃走して決着した。

桶狭間の戦いから学べること

この戦いで一番見習うべきところは、“信長のワンマンな感じ”。

今川との戦いに望んだ信長は、家臣に何も伝えず、意見も聞かなかった。でもギリギリ勝てたのは、そのやり方だったからこそである。仮の話になるが、もし信長の中に「こうしよう」という明確なビジョンがあったとしても、割れに割れた家臣の意見をいちいち全部聞いていたら、“勝てる見込みの少ない戦いが、絶対に勝てない戦い”になっていたと思われる。

いつの世もチームの“和”はとても大事。だけど、“全員の意見を大事にしすぎるチームは、方向が定まらず、1つも前進しないし、すぐに壊れる”。“時と場合によっては、ワンマンプレイは大いに必要”である。

三方ヶ原の戦い

“三方ヶ原の戦い”は、“徳川家康vs武田信玄”である。徳川家康は、江戸幕府を開いた戦国時代の最終勝利者。武田信玄は、“甲斐(山梨県)の虎”の異名を持つ、最強騎馬軍団のリーダーである。しかしこの三方ヶ原の戦いは、1572年、徳川家康が武田信玄にボコボコにされる戦いである。

そもそも戦国大名は、誰とでも戦うわけではない。しかし、徳川家康と武田信玄は互いに積もりに積もった鬱憤が爆発して一戦交えることになる。で、この仲が悪くなるキッカケは、桶狭間の戦いである。

徳川家康は、今川義元に地元の三河国岡崎(愛知県岡崎市)を占領され、長い間、今川の家臣だった。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったので、岡崎を取り戻し、独立することができた。そこから信長と仲良くなって、晴れて三河国の大名になれた。

武田信玄は、今川義元と北条氏康と仲良くしていて、甲相駿三国同盟を結んでいた。しかしこの同名が桶狭間の戦いによって崩れることになる。戦いから数年後、今川義元を殺した織田信長から「信玄さん、同盟を組みませんか?」とオファーがあり、武田信玄はOKする。武田信玄は、今川義元の息子の今川氏真はポンコツだから信長と組む方がメリットがある」と判断した。これにより武田信玄と今川氏真は不仲になる。

こんな状況の中、信玄→家康に「今川の領地を攻めないか?」とオファーが届き、駿河国と遠江国を攻めることにある。家康がいい感じに遠江国を攻めていると、駿河担当の武田軍がいて、家康はブチギレて信玄に猛抗議する。しかし信玄の答えは「自分は知らなかった。部下が勝手にやったこと」と政治家のような言い訳をする。これによって、家康と信玄が不仲に向けて走り出す。

この家康と信玄の間に立たされたのが織田信長である。しかし話はこじれにこじれ、結局、武田信玄は家康・信長と戦うことを決める。

しかしこの武田軍が鬼のように強く、武田信玄がボロ勝ちしてしまう。これが三方ヶ原の戦いの戦いである。

三方ヶ原の戦いから学べること

この戦いから学べることはいくつかある。“感情のまま戦いに挑んでも勝負には勝てない”や“大きな失敗を次に活かせ”などは分かりやすい教訓だと思う。

しかし、三方ヶ原の戦いから学べることは、家康が大ピンチを迎えた後、“一切ブレなかった家臣たちの理念”である。

個性あふれる戦国武将の面々は、それこそバラエティ豊かな主義主張を持っているが、みんなにこゆ痛する理念は、“家を守り、残すこと”である。自分の家を守るためなら、主君さえ裏切るのが戦国時代。しかし、徳川家臣団は、主君・家康を守る“忠義”を理念としていた。徳川家臣団の姿は、“チーム(または個人)の中に理念が浸透していれば、ピンチのときだろうと最優先すべき選択を迷わない”ということを教えてくれます。

物があふれ、物質そのものよりも、そこに込めた目的や夢が重要になってきた現代。何があってもブレない軸というのは、ますます大事になってくる。

本能寺の変

1582年、京都の本能寺にいた織田信長が、家臣・明智光秀に襲われる。で、信長は命を落とす。当時の天下人が突然消えたことにより、あらゆる武将の立場が劇的に代わった事件である。

長篠の戦いから7年。信長と家康は武田家を滅ぼす(甲州征伐)。家康はこれで駿河国を貰う。家康はこれにお礼をするために、信長のお城・安土城を尋ねる。この時、家康の接待役を任されたのが“本能寺の変”を起こした“明智光秀”であった。

安土城でのレセプションパーティー中に豊臣秀吉から手紙が届く(この時は羽柴秀吉)。内容は、「毛利家の家臣がいる備中高松城(岡山県)を攻めてたら、毛利軍の本体が出てきた。ここで毛利家を滅ぼしたいから力を貸して」というものだった。毛利家は中国地方の全域を支配している大名。東日本のラスボスが武田信玄なら、西日本のラスボスが毛利であった。

この手紙を受け取った信長は、「天が与えてくれたチャンスだ。オレが出陣して、中国地方のやつらを全員倒し、その勢いで九州まで平定してやる」と思い、明智光秀に援軍の先人を命じた。

そこから何やかんやあって、2週間後に“本能寺の変”が起こる。実は何がキッカケで本能寺の変が起こったかは記録に残っていない。明智光秀は、突然“信長を討つ”と言い出して本能寺の変が起こっている。

とにかく1582年の6月2日、昇ってくる太陽と足並みを揃えるかのように、本能寺を取り囲んだ明智軍は、毛利向けるはずだった軍事力を信長の寝所となった寺院に向けた。

信長は「謀反か。誰のしわざだ?」と森蘭丸に聞き、「明智軍と見受けます」と回答する。森蘭丸の報告を受け、信長は「是非に及ばず」と発する。

巨大な暴力に蹂躙される本能寺。次から次に内部に侵入する明智軍に対し、信長たちは無力。織田信長は御殿の奥深くへと歩を進め、全てが崩れ去ろうとする空間で、自らの命を絶った。享年49歳(満48歳)だった。この後、近くにいた信忠(信長の長男)も、光秀に追い詰められ自害した。

中国大返し

本能寺の変の後、“中国大返し”が起こる。これは、1582年、羽柴秀吉が、岡山から京都までの距離をとんでもない速さで駆け抜けた、という出来事である。

本能寺の変が起こった時、羽柴秀吉は備中国(岡山県西部)にいた。そのころ黒田官兵衛という頭脳の活躍もあり、得意の兵糧攻めを駆使して、攻略は順調だった。

とうとう織田と毛利の勢力の境界線にあった備中高松城というお城を攻め、有名な水攻めを開始する。

高松城が危ういので毛利本陣が大軍で来て、勢いに任せて毛利軍を討とうという時に本能寺の変が起きる。秀吉は、備中攻めをやめ、「京都に帰り、明智光秀を討ち、信長の敵を取る」ことに方針を変える。

ここから秀吉は音速・光速・迅速・爆速で京都に帰る、“中国大返し”をスタートさせる。

秀吉のあまりのスピードに光秀は驚き、満足のいく準備ができないまま、大軍と戦うことになる。ぶつかる前から明暗の分かれた2人は、“山崎の戦い”という合戦で激突。そのままの勢いで光秀を討つ。

車も電車もない時代に、たった10日以内に約230kmの距離を駆け抜け、さらにはその勢いのまま明智光秀を倒したことにより、秀吉という存在が頭一つ抜けることになった。それが“中国大返し”である。

秀吉のその後

織田家の跡継ぎは、信忠の息子(信長の孫)でいこうと決まり、羽柴秀吉と柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、織田信雄(信長の次男)、織田信孝(信長の三男)などで領地を分けることが決まった。幼い信長の孫をみんなで面倒見ながら、話し合いで織田家をまわしていこうと決まる。

で、その後もめる。光秀を倒して勢いの良い秀吉に、柴田勝家が「あん?」となり、それに秀吉も「おん?」となり、賤ヶ岳の戦いが起こる。で、秀吉が勝つ。さらに翌年、大阪城という豪華なお城を作り始め、“信長の後継者”=“次の天下人”として秀吉が注目を集めていくようになる。

これに織田信長の次男の織田信雄がイラッとして、徳川家康を誘い、“小牧・長久手の戦い”がスタートする。しかし、これも秀吉の勝利の終わる。そから秀吉は紀伊の国(和歌山県)を攻め、四国の長宗我部元親を下し、その途中で“関白”になる。さらに、越中国(富山県)を手に入れ、朝廷から“豊臣”の氏をもらい、徳川家康に妹を嫁がせ、秀吉の母親を人質として差し出し、徳川家康を家臣にする。

その後、九州の島津義久が頭を下げ、関東の北条氏政・氏直が降参し、東北の武将たちを従わせ、ついに全国統一を成し遂げる。

その後も“太閤検地”と“刀狩り”をして、明(中国)を攻める。

明を攻めるために朝鮮に道案内をお願いするんだけど、それを断られたので、“朝鮮出兵”が決定する。このあと2回にわたって朝鮮に攻め込むが、2回目の朝鮮出兵の時に秀吉は亡くなってしまう。

太閤検地

太閤検地とは、太閤(=秀吉)がやった検地である。秀吉は、全国統一後すぐに甥っ子の豊臣秀次に“関白”のポジションを譲る。関白の座をゆずった人を“太閤”と呼ぶので、秀吉は“太閤”となる。

“検地”というのは、“田畑の面積&収穫量を調査すること”である。大名が年貢(税)を取り立てる時、収穫した米の量をごまかす人もいるし、国ごとに検地のやり方が違うし、リアルな数字が分からない」ということで、“枡の大きさや田畑を測る単位を統一して、実際にその土地に行って全国の正確なデータを調べる”ことを実行する。

米を計る枡は“京枡”で統一し、田畑の面積の単位は“町”“反”“畝”“歩”で統一した。6尺3寸(約191cm)を“1間”として、1間四方で1歩。30歩で1畝。10畝で1反。10反で1町と決めた。また、田畑は“上”“中”“下”“下々”のランクにも分けた。

上ランクの田んぼは、1反あたり“1石5斗”の価値にして、中ランクは“1石3斗”、下田は“1石1斗”、みたいにランクごとの価値を“お米の量”で表した。“石”や“斗”はお米の体積を表す単位で、1石=10斗=100升=1,000合。

太閤検地のポイントは、畑も屋敷のある土地も“お米で言えばこのくらいの価値”というので表したことである。お米で表した1反あたりの土地の価値を“石盛”と言って、石盛に面積をかけたものを“石高”と言った。

石高が分かれば年貢の量も分かるし、食べていける人数も予想がつく。ということは、その国で養える兵士の数も分かる。

“農民からとれる年貢。大名から駆り出せる兵数”、全ての国のあらゆるデータが秀吉のもとに集まった。これが、“太閤検地”という大プロジェクトの正体である。

刀狩

刀狩は、文字通り“農民から刀を狩った”。しかし、本当に刀だけを集めた。槍や鉄砲はあまり集めなかった。

秀吉が目指したのは、“兵農分離”と言われている。戦に出る兵士と、田畑を耕す農民とに、身分をきっちり分けるよ、というのをやりたかったと言われている。

戦争が起こっても、田畑を耕す役割の人がいれば、安定した年貢(税)をゲットできる。逆に、戦いに出る役割の人がハッキリしていれば、いつ戦争を起こしても、まとまった兵士の数を確保することができる。戦をするにも、税を手に入れるにも、役割を分けると、秀吉的に都合が良かった。これが“刀狩”のカラクリである。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉が死んだ後、豊臣家はゴタゴタに。権力が強くなった徳川家康と、それに反抗する石田三成がモメた結果、1600年に合戦へと発展した。日本全国の武将が東軍と西軍に分かれて戦いを行い、家康が勝って、その3年後に江戸幕府を開いた。

秀吉には豊臣秀頼という子供がいたが、秀吉が死んだときにはまだ6歳だった。跡を継いでも政治ができないので、五大老五奉行制という仕組みが誕生した。

五大老というのは、秀吉に途中から従った5人の大名、徳川家康・前田利家・毛利輝元(毛利元就の孫)・上杉景勝(上杉謙信の養子)・宇喜多秀家である。

五奉行というのは、秀吉の直属の部下だった、政治の仕事をする5人の家臣、浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の5人。

で、この10人が集まって会議して政治を進める(合議制)のが、“五大老五奉行制”である。

しかし、ここで秀吉亡き後、一番の実力者の徳川家康がトラブルを作る。家康は秀吉が設定した婚姻に関するルールを勝手に破る。これをキッカケに“家康(伏見城)vs四大老・五奉行(大阪城)”という一触即発の空気が流れる。

ここで若い頃から秀吉に仕え、長いこと豊臣家に尽くしてきた石田三成がブチ切れる。しかし、石田三成は石田三成で、いろんな武将が五奉行にブチ切れられていた。で、何人かの武将が家康に味方して、“家康・豊臣系武将(伏見城)vs四大老・五奉行(大阪城)”となる。しかし、ここでは争いは起きず、仲直りして終わる。

しかしここで前田利家が亡くなる。前田利家は昔からの秀吉の友人で、家康と唯一渡り合えた人物である。前田利家がいたから家康はへたに動けなかったし、豊臣家はまとまっていたのに、前田利家が亡くなってしまい争いを止める人がいなくなってしまった。その後、事件は起こる。

この時発生したのは、“豊臣系武将に石田三成が追われる”という事件が発生する(七将襲撃事件)。しかし三成は事前に情報を掴み、伏見城の自分の屋敷に逃げ込む。この時毛利輝元に力を貸すようにお願いするが、断れてしまう。武士は戦いを起こす時に正当性を重視する。この時の正当性は、“豊臣家公認かどうか”である。秀頼の公認が必要なんだけど、秀頼はまだ子供。ようは、秀頼を手元に置くことが正当性になる。今は秀頼は家康派だらけなので、石田三成たちが大名に橋梁を求めることはできなかった。だから家康とも戦えない状況だった。

秀頼を抱えている家康は、石田三成を佐和山城に飛ばして終了する。自分に敵意を剥き出しにする石田三成を政治の部隊から引きずり下ろし、三成に恨みを抱いている武将の願いを聞き届け、より一層の信頼を勝ち取った。

三成襲撃事件から半年後、重陽の賀という儀式で豊臣秀頼に「おめでとう」と言うために大阪城に来た家康は、「家康暗殺計画」がある、ということで大阪城に住むことに決める。この徳川家康暗殺計画」の首謀者を前田利長ということにして、北陸征伐を計画する。さすがに前田利長は戦えないので、前田家も従わせることに成功する。

ある時、家康の元に手紙が届く。内容は、「会津の上杉景勝が越後との国境に道や橋を作っている。また武器も集めている」という内容だった。要は上杉景勝が謀反を起こす、という内容だった。

家康は西笑承兌というお坊さん(“愛”の兜でおなじみ)に命じて、上杉景勝のナンバー2に手紙を出す。その返事が文字量ぎっしりで家康はブチ切れる。短く訳すと、「は? by直江兼続」というものだった。とにかく、ブチ切れた家康は、豊臣家オフィシャルな戦いとして、“会津征伐”を決定する。

すると、石田三成が大谷吉継と組み、「家康に叩きを挑むなら今だ」と立ち上がる。三奉行(増田・長束・前田)を仲間にするために動き出す。しかし三奉行は家康に従っているので、三成の怪しい動きを「家康さん(or毛利輝元さん)、三成と大谷吉継が謀反を起こしそうです。会津じゃなくて大阪にすぐ戻ってください」と報告する。しかし三成は三奉行の説得に成功し、毛利輝元が三成の味方になる。大阪についた輝元は大阪城から家康派を追い出し、豊臣秀頼をゲットする。これで三成たちは晴れてオフィシャルサポーターに就任する。

さらに三成たちは“内府ちかひの条々”という弾劾条を作成する。内府は内大臣で、家康の公務員ネーム。ちかひは、「違うぞ!」ということ。様な、「おい家康、お前間違ってんぞ」という内容を箇条書きでまとめたお手紙ってこと。13条にわたって家康がやった「それ違うだろ」を書き連ね、「秀吉様に誓ったことを少しも守らないのに何が政治だ。俺たちは家康を倒す。みんなも秀頼様のために、一緒に戦おう」という内容を全国の大名に配った。すると、全国から豊臣恩顧の大名が次々に大阪に集結した。

そしてついに、家康の関西の拠点・伏見城を攻撃した。家康の近くにいた豊臣系武将は家康の味方になったので、徳川家康率いる「東軍」と毛利輝元率いる「西軍」という関ヶ原の戦いが始まる。

戦いが始まると、まず島左近が撃たれ戦線離脱。また家康が合戦前に交渉したおかげで、小早川と毛利がお弁当に時間を奪われて動かず(裏切る)。小早川と毛利の寝返りで西軍は一気に崩れ、徳川家康は本隊を動かし、行きに総攻撃をしかける。そしてついに、石田三成も死亡する。天下分け目の関ヶ原の戦いは、こうしてたった6時間で決着する。

大坂の陣

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、自分に協力した(東軍の)大名の領地を増やし、歯向かった(西軍の)大名の領地を減らした。そして、征夷大将軍になって江戸幕府を開いた。

しかし、秀頼の母の淀殿は「徳川が政治をやっているのは秀頼が成人するまでよね?」と思っていて、家康が「まだ豊臣を慕っている大名が多いから油断できないなぁ。従ってくれなたら良いけど、無理なら…」と思い微妙な空気が流れている時に、“方広寺鐘銘事件”が起こる。

これは、豊臣家が建てた方広寺という寺の鐘に、「国家安康 君臣豊楽」という文字が見つかり大問題に発展する。「国家安康」だと“家”と“康”が切り離されているけど、「君臣豊楽」には“豊”と“臣”の字が入っている。つまり、家康が斬られ、豊臣が反映すればいい、と家康が切れる。豊臣側は言いがかりと反論するが、実は文字を考えたお坊さん(清韓)は意図してやっていた。

これで大阪冬の陣と大坂夏の陣が起き、豊臣家は滅びる。

どんな人も「勝ちたい」けれど、勝ち続けることはできません。たくさん負けることもあるけど、この「負け」が実は大事だったりします。「勝ち方」からも「負け方」からも学べることがいっぱいある。それを教えてくれるのが「戦」です。

そして、すごく極端な話をすると、年号や登場人物の名前を忘れても、中身をスラスラ説明できる方が大切です。未来に役に立つのは、ストーリーだからです。そして、“意味も分からず覚えた100個の歴史用語”よりも、“意味を深く理解した1個の歴史のストーリー”の方が大切です。

おすすめ記事

読書ノート

2021/4/13

なんでもわかるキリスト教大辞典

キリスト教の教えや特徴、独特の用語をキリスト教の内部にある複数の流れ、要は「教派」ごとに説明している。聖書や神学、教義、教会史、礼拝学、芸術、個人の伝記、信仰録など、キリスト教を知るための切り口は様々だけど、その中でも「教会」に焦点を当てている。図解も多くわかりやすい。

続きを読む

読書ノート

2021/3/31

政治のキホンが2時間で頭に入る

政治とは国会と内閣、裁判所について学ぶことである。この本は政治について「分かった!」という感覚を与えてくれる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/14

医者が教えるサウナの教科書

「仕事ができる人はサウナが好きではなく、サウナが好きだから、仕事ができる」として、サウナへの愛を語っている。理由なしにこれを言うとただの洗脳だが、サウナが仕事のパフォーマンスを上げる医学的根拠をきちんと説明して、医学的に正しいサウナへの入り方(ととのい方)を紹介している。

続きを読む

読書ノート

2021/4/20

プロテスタンティズム

ルターが新しい宗派であるプロテスタントを生み出したという説明は事実に反する。ルター自身がプロテスタントという意識を持っていなかった。教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志などなかった。ルターは、壊れた家を新しく立て直そうとしたのではなく、土台や大黒柱は残して、修繕が必要な部分を新しくしようとしたのである。

続きを読む

読書ノート

2021/4/21

ナチスの発明

野蛮で残虐な侵攻や迫害は世界のあらゆる国、あらゆる民族でも行われた。それが最も極端な形で現れたのがナチス(ヒトラー)である。人類は、ナチスが何を思い、何をやったのかを、もっと冷静に、もっと深く知る必要がある。ナチスの時代を真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観は、そろそろ修正されなければならないのではないか。

続きを読む

読書ノート

2021/4/22

楽しみながら学ぶベイズ統計

面白くて多様な事例を使って、ベイズ統計の基礎と活用法を解説する入門書である。本書をマスターすることで、不確実な事柄を数学でモデル化して、限られたデータの中でより良い選択を行えるようになる。

続きを読む

読書ノート

2021/4/28

仏教が好き!

根っからの仏教好きな二人による仏教の愛の対談。古色蒼然とした仏教イメージが一気に吹き飛ばされる。

続きを読む

読書ノート

2021/5/27

日本人のための第一次世界大戦史

ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。歴史からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代を正しく理解するということ。まず第一次世界大戦という基本的な史実を知らなければならない。

続きを読む

読書ノート

2021/5/20

ヒトラーとナチ・ドイツ

ヒトラーとナチ・ドイツは、21世紀を生きる我々が一度は見つめるべき歴史的事象に真摯に向き合うことで、現在・未来のための教訓をたくさん導き出すことのできる歴史である。

続きを読む

読書ノート

2021/6/6

物語創世

文字を読むことができる人は一読に値する本。聖書からハリー・ポッターまで、書字技術の発展と共にそれらがどう広まり、どのように宗教、政治、経済を歴史や人物そのものを変えていったのかを説いている。

続きを読む

読書ノート

2021/6/8

日本車は生き残れるか

本書は、欧米に比べて日本がいかにダメなのかを語るのが目的ではない。日本の自動車産業も一刻も早く、モノづくり以上の付加価値を生み出すことで、「日本経済の大黒柱」であり続けて欲しいと願っている良書である。

続きを読む

読書ノート

2021/8/21

完全教祖マニュアル

新興宗教の教祖になれば夢は全て叶う。本書を読むだけで遥かに有利なスタートを切れる。本書を信じ、本書の指針のままに行動してください。本書を信じるのです。本書を信じなさい。本書を信じれば救われます。

続きを読む

読書ノート

2021/9/20

13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。

“終わりの見えない戦乱の世”も、まさに先の見えない時代であった。そんな時代を生き抜いた武将たちのエピソードが、参考にならないわけがない。歴史は、失敗も成功もバズりも炎上も書いてある、生きた教科書である。

続きを読む

 

 

 

 

 

 

 

-読書ノート
-, ,

© 2023 Fukurogiブログ Powered by AFFINGER5