読書ノート

クロムウェルとピューリタン革命

17世紀に起こったピューリタン革命は、イギリスの一つの大きな転換点となった。クロムウェルとピューリタン革命は、ピューリタン革命の中心人物で、後の指導者となるクロムウェルの苦闘の生涯を辿り、彼がイギリスに何をもたらしたかを描いている。

ピューリタン

イギリスの宗教改革は、ヘンリー八世の離婚から出発した。そして紆余曲折の末、1534年、ヘンリー八世を首長とするイギリス国教会をローマ教会から分離独立して作り上げた。

宗教改革とはいうものの、政治が信仰をリードし、肝心の教義は後回しになった。ヘンリー八世の死後、次の国王時にはプロテスタンティズムに接近したかと思えば、次の時代にはカトリシズムに逆転したりした。こうした国教会を「中庸」をとって確立させたのがエリザベス一世であった。イギリス国教会の教義は根本ではプロテスタンティズムの立場に立つことになったが、儀式などはかなりカトリック的なものが残った。こうした宗教改革の不徹底さをあきたらなく思い、他国で行われたような本当の宗教改革を実行しようと考える人達が出てきた。その上、カトリックがはびこった時代にドイツに亡命してた人々が、エリザベスの即位とともに帰国し、空気を変えた。かれらはイギリス国教会からカトリックの名残を留めるもののを全て追い出し、協会を“清い(ピュア)”なものにしようとした。ここからかれはピューリタン(清教徒)と呼ばれるようになる。要は、教義上の改革の不徹底さが批判勢力としてピューリタンを生んだ。

しかし、イギリス国教会を批判することは、国家を攻撃することに他ならない。

ジェントリ

財宝に飢えていたヘンリー八世は、王国の3分の2の富をおさえていた協会の財産に注目して、修道院の解体に乗り出した。しかし国王は没収した協会財産を手元においておく余裕がなく、富は国王の手を素通りした。新しく協会の富を手に入れたのが、“ジェントリ”と呼ばれる人々であった。

このジェントリこそが、クロムウェルを主役として活躍するピューリタン革命ばかりでなく、イギリス史全体を考察するうえで重要な社会層である。身分の上では貴族より下で、ヨーマン(自営農民)よりは上の階層である。メインは、地方に土着した名望家、それぞれの地域社会で“生まれながらの支配者”とみなされていた人たちでった。また土地所有者の他に法律家や医師といった専門職業人や、商工業者で蓄えた富を土地に投資した人たちも含まれている。

ジェントリの家に生まれる

1599年4月25日、イングランド東部の人口約2,000人の小さな町でクロムウェルは生まれた。クロムウェルの家は“ジェントリ”と呼ばれる社会層に属しており、母親を通して“ピューリタニズム”の影響を受け、クロムウェルは熱心なピューリタンとして成長した。

クロムウェルが生きた時代は、恐怖の時代だった。未発達な医療設備と不衛生極まる生活、そこには人間の紫衣名を狙う悪魔が巣くっていた。非力な人間には、全能の神に限りない信頼を寄せること以外に何もできなかった。その上、人々の信仰と生活をもっと暴力的におびやかす政治的な恐怖が加わっていた。こうした時代の雰囲気は、神の裁きにたえて救われるためには何をすべきか、という問題に対決することをピューリタンに迫った。

エリザベスの跡を受けてスコットランドから招かれた王位についたジェームズ一世は、エリザベスの追憶と戦わないといけなかった。ジェームズ一世は、スコットランドで新旧両教徒の争いに巻き込まれた経験から、王権神授説をふりかざして、政治に対する批判を圧殺しようとした。そこに国王と国民の衝突が生まれることになる。

権利の請願の提出

1652年に即位したチャールズ一世の治世になっても、国王と議会の対立は激しかった。チャールズ一世の妃はフランスの王女であったため、カトリックの信仰とフランスの絶対王政に好意を寄せていたことも批判の一因となり、議会は国王の財政上の要求をはねつけて橋梁を拒んだ。

そこで議会に頼るのを止めた国王は、公債を強制的に買わせたり、献金を強要したりして、応じなかった人々を投獄したりした。当然にこれには国民の憤激は高まった。そうした不満をそらすために実施したフランス遠征はみじめな失敗に終わり、国王の財政はますます苦しくなった。その結果、頼れるものは議会しかなくなり、1628年、国王は議会を招集した。クロムウェルが初めて議員になったのはこの議会からである。

この議会には、専制に抵抗したために不法にも逮捕され投獄されていた人々が議席に返り咲いた。

“イギリスの古い法律と自由とによって、イギリスでは、人民の同意によらなければ、いかなる税や貢租も、またその他いっさいの負担も、課せられたり強制されたりすることはない。このことは一般によく知られた既得権であり、父祖伝来の権利なのである。”この発言の精神がこの議会を支配して、有名な“権利の請願”が5月28日に採決された。

この“権利の請願”は、全文11ヶ条からなる文書であり、議会の同意のない課税、不法な逮捕投獄、軍法裁判の乱用などに反対している。明らかにイギリス国民と議会との権利の“宣言”であり、“マグナーカルタ”や“権利章典”と並んで、イギリス憲政史上最も重要な文章となっている。

クロムウェルは、この歴史的な議会に議席をしめた。クロムウェルは“権利の請願”を国王につきつけるために働いている姿をまじかに見た。クロムウェルは、イギリスの政治にとって何が一番の問題であるか、また戦うためにはどんな理論的な武器が必要であり有効であるのか、体験を通じて認識を深めた。

新政による弾圧

チャールズ一世は、“権利の請願”に同意を与えたが、依然として税金を徴収し続け、宗教問題で議会と衝突した。さらに議会の反抗の気運をみて、無理やり議会を解散し、新政に乗り出すことを決意した。その上、反対派のリーダーと目された9人を投獄した。

1629年に解散された議会は、1640年まで11年間開かれなかった。チャールズ一世は、カンタベリの大主教ウィリアム=ロードを片腕にして、新政を実行に移した。

議会を開かない以上、議会の商人を必要としない課税対象を見つけないといけなくなった政府は、あらゆる便法を講じて収入を増やそうとした。関税が強化され、一定の土地を持ちながら騎士になろうとしない人に罰金を科した。法律の抜け道を利用して独占権が復活されて売りさばかれ、最後には従来は海港都市に限られていた船舶税を全国に広げて課税しようとさえした。

11年ぶりの議会

1640年4月、11年ぶりに議会が開かれた。スコットランドからの侵攻に対して国民感情を掻き立て、戦費の協賛を得ようとチャールズ一世は思ったが、議会は国王に協力しようとせず、王の悪性を非難し、戦争中止の決議を採決しようとした。そのためチャールズ一世は議会を解散した。スコットランドが国境を超えて侵攻してきたため、チャールズ一世は、多額の賠償金の支払いを約束して和を結んだ。その財源をひねり出すために、チャールズ一世はまたしても議会に頼らざるを得なかった。

総選挙を経て1640年11月に開かれた議会は、その後13年も続くことになったので、“長期議会”と呼ばれる。この議会には493人の議員が選出された。

議員たちは、専制政治の責任をチャールズ一世ではなくその側近に求めて処罰することを目指し、専制支配の機構を破壊することであって、議会は一連の改革立法の通過に全力を上げた。また、議会を3年に1回は開くようにし、みずからの同意なしに解散されないことにした。さらには、国王の勝手な増収策(税金)を全部禁止し、多くの被害者を生んだ特別裁判も廃止した。

しかし、そこに宗教問題が入ってくると、一致した行動は見られなくなった。

宗教問題を契機とする議会の分裂を見たチャールズ一世は、改革の進展にブレーキをかけるためにスコットランドに旅立ち、そこから“命をかけても国教会を守る”という手紙を議会に送り、議会に緊張感がみなぎった。そこに、アイルランドにカトリック教徒反乱が起こった。

このアイルランドの反乱は、犠牲者数が誇張され“大虐殺”と伝えられた。そのためイングランドでは恐慌が起こった。ことにピューリタンたちは、この事件を悪魔のようなカトリックのしわざであると決めつけてしまった。挙兵のための献金運動が始められ、人々はそれに応じた。そして、カトリックに対する激しい敵意とアイルランドに対する不信とが一体となって、アイルランドに対する戦争が準備された。イングランドにおける自由の戦士は、アイルランド人の自由には全く無理解であった。こうして後のクロムウェルのアイルランド征服を導き出したのである。

騎兵隊長クロムウェル

議会とともに民衆も立ち上がりつつあった。議会はかねて組織化を勧めていた各州の自衛組織である民兵隊を直接支配に置こうとして、国王の反対を振り切り、“民兵条例”を発布した。

チャールズ一世は、ノッティンガムに国王軍の集結を命じ、城に高く国王旗を掲げた。先頭の幕は切って落とされた。

革命が進むに連れ、議会派の陣営は分裂を重ねてだんだんやせ細り、次第に公約数的な線に落ち着いた。クロムウェルがピューリタン革命の中心人物となるのはこのためである。

ピューリタン革命における戦闘の最大の特徴は、両軍ともに戦うことだけを目標に編成され訓練された職業的な軍隊ではない点である。イギリスではバラ戦争以来150年も大きな内乱がなかったため、軍の編成は、貴族やジェントリといった地域社会の大物たちが自発的に自分で費用を出して作った部隊であった。隊長も兵士もアマチュアだったため、一貫した作戦行動は取れなかった。さらに、州の自衛軍という性格上、防衛を第一にして、州の外に出て戦うことを好まなかった。

そんな中頭角を現したのがクロムウェルである。個人プレーではなしに、密集した騎兵隊の集団行動、これがクロムウェルの戦術であった。

ネーズビーの戦いは、最後の決戦であった。戦いを決めたのは、クロムウェルの騎兵隊の活躍であった。1646年4月、事態が決定的に不利であることを悟ったチャールズ一世は、スコットランドに身を投じた。国王に見捨てられた国王軍は、オックスフォードで議会軍に完全に降伏し、第一次内乱の幕が降ろされた。

国王逮捕

6月4日、国王逮捕事件が起こる。内乱末期にチャールズ一世はスコットランドに軍に保護を求めたが、スコットランドは賠償金と引き換えに王の身柄を議会に渡した。それ以降、チャールズ一世はノーザンプトンシャにおいて議会の監視の下に幽閉されていたが、議会と軍隊の対立が激しなるに連れ、長老派がチャールズ一世に接近する空気が見え始めたので、チャールズ一世は軍隊にとってますます危険な存在になっていた。そして、軍隊の手によって、また軍隊の名において、チャールズ一世は逮捕された。

その後、チャールズ一世は密かにスコットランドとの交渉に全力を上げたが、チャールズ一世がフランスと結んだ陰謀計画を伝えた手紙が、軍の手によって没収される、という事件が起こった。チャールズ一世の処罰を要求する声や、国王暗殺計画の噂すら乱れ飛ぶありさまとなった。クロムウェルも国王との断交という首長に近づき、そして議会は“国王を犯罪人として告発すること”を決議した。

クロムウェルは傍観者的な態度を捨てて、行動に移った。クロムウェルはこれ以上チャールズ一世に信をおくことができず、交渉は無益である、とはっきり断言した。これに応じて庶民院は、1648年1月3日、141vs91のの大差で“交渉打ち切り決議”を通過させた。

1月20日から国王チャールズ一世の裁判が開始されることなった。裁判の間、チャールズ一世はいっさいの弁護を拒否した。

1月26日、翌日に国王の面前で判決を言い渡すことが決められた。

1月27日、法定は再び開かれた。しかしチャールズ一世は弁護することを拒み、発言を求めたが、法定はチャールズ一世の願いを退け、冷ややかに死刑の判決を言い渡した。

王政復古

クロムウェルは死の前日に三男のリチャードを後継者として指名したが、リチャードは典型的な田舎紳士で、紛糾した軍と議会の対立を解きほぐす能力もなく、翌年の5月には辞表を出して引退した。プロテクター制はあっけなく崩壊した。

そこで生まれた無政府状態に終止符を打つためには、軍を中心に革命勢力の再結集を図るか、革命の後退期に再び頭をもたげてきた“生まれながらの支配者”に事態の進展を委ねるか、のいずれしかなかった。しかし軍隊はもはやかつてのような聖戦を信じて不屈のエネルギーを発揮する存在ではなく、クロムウェルと共に戦った将軍たちもひどい跡目争いに終始していた。そこに議会と手を握ることで事態の収拾をはかろうとする軍人、スコットランド方面軍司令官ジョージ=マンクが現れる。

選挙にって仮議会が成立した。この議会に対して、チャールズ一世の遺児チャールズ二世が亡命先から“ブレダ宣言”を出して、革命中の言動に対する大赦、信仰の自由、革命中に購入された土地財産権の確認、軍隊の未払い給与の支払い、を約束した。仮議会はこの宣言を受諾することを決め、王政復古が実現した。ピューリタン革命は王政復古に終わった。

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